身代わりの約束
豪奢なビロードのクッションに身を沈めながら、エナは何度目かもわからないため息をついた。
外はあいにくの雨だ。灰色の雲が王都の空を低く覆い、細かな雨粒が馬車の窓硝子を絶え間なく叩いている。その規則正しい音が、彼女の焦燥感を否応なく増大させた。
「……遅い。遅すぎるわ」
小さな銀の懐中時計を開くと、約束の時間はとうに半刻も過ぎている。
エナ・ヴィルロワ子爵令嬢が今、こうして王都外縁の閑静な並木道に馬車を停めているのには、いささか複雑な、そして絶対に他人に知られてはならない事情があった。
本来、この馬車の中で緊張に震えながら待ち人を出迎えるはずだったのは、彼女の幼馴染であり無二の親友、侯爵令嬢のセシルだった。
ことの始まりは三日前。セシルから泣き落としのような手紙が届いたことだった。
『エナ、お願い、私を助けて! お父様が勝手に決めた婚約内定者の方と、今度の日曜日に極秘で引き合わされることになってしまったの。でも、私にはどうしてもその日、別に行かなければならない場所があるの。もしそこに行けなければ、私は一生後悔するわ。お願い、当日、私の身代わりになって待ち合わせ場所へ行って、その殿方を適当にあしらって、時間を稼いで頂戴!』
セシルには、親に猛反対されている恋人がいた。下級貴族の三男で、近々遠方の領地へ赴任が決まっている騎士だという。彼女はその日に領地へ出立する彼と、生涯の誓いを立てるためにどうしても会わなければならなかったらしい。
親友の必死の願いを、エナは断りきれなかった。セシルの父親である侯爵は厳格な人物で、もしこの逢瀬が露見すればセシルは即座に幽閉され、見知らぬ男のもとへ嫁がされるだろう。
そこでエナは一計を案じた。
待ち合わせは、王都の喧騒から少し離れた並木道。お互いの顔もろくに知らないという「婚約内定者」の男性は、セシルの家の紋章が入った馬車を目印にやってくる手筈になっていた。エナはセシルの馬車を借り受け、顔を隠すような深いフード付きのマントを羽織って待ち合わせ場所に赴いた。
相手が来たら、セシルのフリをして「この縁談をお受けするわけにはまいりません」と告げ、早々に退散する――そのはずだった。
「それにしても、 紳士の風上にも置けないわね。初対面の、それも女性を相手にこれほど遅刻するなんて」
エナは苛立ちを隠せない。
いくら家同士の、それもまだ内定段階の形式的な顔合わせとはいえ、約束の時間を守らない男などこちらから願い下げだ。セシルが嫌がるのも無理はない、とエナは確信した。
カチ、カチ、と懐中時計の針が進む。さらに半刻が経過した。
これ以上待つのは、ヴィルロワ子爵家の令嬢としてのプライドが許さない。いっそこのまま馬車を出させてしまおうか。しかし、もし入れ違いに相手がやってきて、セシルが「約束を破った不誠実な女」として責められるようなことになれば、親友の名誉に関わる。
「……少し、外の様子を見てみようかしら」
エナは窓のカーテンをわずかに引き開け、外を覗き見た。
雨に濡れた石畳は鈍く光り、並木のプラタナスが雨粒に揺れている。人通りはほとんどない。遠くに馬車の轍の音が聞こえるが、こちらに近づいてくる気配はなかった。
車内に満ちる沈黙と、微かな革の匂いに息が詰まりそうになったエナは、ついに決意して座席から立ち上がった。じっと座って待つよりも、外の空気を吸った方がマシだ。
彼女がドアに手をかけると同時に、外から気配を察した御者が素早く扉を開けた。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
ヴィルロワ家から連れてきた気心の知れた老従者、ジャンが心配そうに顔を覗かせる。彼はセシルの馬車を御しながらも、エナの安全を第一に考えてくれている。
「少し、外の空気を吸いたいの。傘を貸して頂戴、ジャン」
「しかし、雨が降っております。お風邪を召されては……」
「大丈夫よ、この大きなマントを着ているわ。辺りを見回して、誰も来ないようなら、もう帰りましょう」
ジャンの差し伸べた手を借り、エナは慎重に馬車のステップを降りた。
地面に足を着くと、ひんやりとした雨を含んだ空気が頬を撫で、車内の熱気がすっと引いていくのを感じた。エナはジャンから黒い傘を受け取り、深くフードを被り直した。
雨のベールに包まれた並木道は、どこか幻想的で、同時にひどく寂しげだった。
エナは周囲をゆっくりと見回した。やはり、それらしき男性の姿はない。
(よし、これで言い訳は立つわ。『一刻程待ったけれど、お見えにならなかったので失礼いたしました』と、セシルの名で手紙でも送ればいい。非は全面的に向こうにあるのだから)
胸を撫で下ろし、馬車に戻ろうと踵を返した、その時だった。
小気味よい馬蹄の音が、雨音を割って近づいてきた。
エナは足を止め、振り返る。
並木道の向こうから、一騎の馬が駆けてくるのが見えた。馬車ではなく、騎馬だ。この雨の中を、外套もつけずに疾走してくるその姿に、エナは目を凝らした。
馬はセシルの馬車の少し手前で、鮮やかにスピードを落とした。
濡れた白金の髪を額に張り付かせ、荒い息を吐きながら馬を降りたその人物を見た瞬間――エナは息を呑んだ。心臓が、ドクンと大きな音を立てて跳ね上がる。
(嘘……。どうして、彼がここに……?)
そこにいたのは、エナがずっと遠くから憧れ、密かに想いを寄せていた人物――若き近衛騎士団長にして、レオンハルト公爵家の次男である、ガイヤ・フォン・レオンハルトだった。




