勇者は愛の魔法を唱えた、しかしMPが足りなかった。
「どぅふふふ……」
未曾有の事態といえよう、俺は恐怖の余りに脱皮をする獰猛なキラースネイク(やわらかい)のような儚くも野太い悲鳴を上げた。どうやら、勇者の中では魔王=良い人という最終定理が完成しているようだが、俺はそれに対し証明も判例も出来ん、幾ら四天王(独身)とて、このような状況は打破は出来なかっただろう。
とはいえ、此処で俺の生涯の幕を閉じなければ、困るのは魔界の民なのだ、俺は断固として勇者を止めなければならない。濁世にて育まれた勇者の歪みは根深いものだろう、しかし、向き合わねばならない――あれ、何か立場逆じゃね? ふつー魔王的には苦悶する勇者に容赦なく襲い掛かって倒されるもんだろ、あ、倒されちゃうんだ俺、まあ当然だけどね。
「魔王、ねぇ、魔王」
「歌の音調のように俺を呼ぶな。それで何用だ勇者」
「違う、私は勇者じゃない。私の名はエリーゼ、貴方は?」
何とも期待しているかのように上目遣いで俺を覗いてくるが、その作戦の為に飢えさせたヴェアウォルフの様な乾いた瞳に揺れ動くほど、俺は愚かではない。
バブルスライムの如き潤った少女の瞳が好みなのだよ、俺は。
それにしても、そう来たか、名前で呼ばせることで着実に好感度を高める……成る程、老獪なインキュバス(独身)のように策を講じてきたな。だが、俺は魔界の王(魔王城から出たこと無い)、この程度の事で動じはせんわ(共感能力欠如気味)。
「何を世迷言を言うか勇者よ、いいか、俺は天地にその名を轟かさせる魔王だ。それ以上の名など持ちはしない」(実は名前無いんです、申し訳ありません)
「……じゃ、まーちゃんって呼ぶ」
「止めろ勇者、それは多面的な理由でアウトだ」
第一、壊れているのは勇者のほうである。成分調整を誤ったホムンクルスと肩を並べられると思う。
「じゃあ、名前、教えて」
「何故、俺があだ名を嫌がったら名前を教えねばならんのだ?」
「でも、魔王的には名前が魔王じゃ駄目では?」
……むっ、何と言う発想か、ゴブリンの如き単純な思考回路だからこそ、この俺の悪辣な妖精すらも凌駕する複雑多岐な思考(具体例・今日の夕飯の献立どうしよう、一人で食べるの寂しいな)に活路を見出すことが出来るという事なのだろうか?
だが、しかし。ここで揺らぐわけにも行かぬ、このまましっぽりぬふふという展開に持っていかれれば、楽かも知れぬが、俺の双肩には魔界の命運が担われているのだ。
逝ってしまった四天王為にも俺は此処で踏み止まる必要がある!
……それにしても、何であいつ等俺につき従ったんだろうか。
一回聞いたことがあるけど、その際は「ご自覚なさらなくても良いのです、在りの侭の魔王様で居てください」と言われて顔を背けられてしまった。
何だか寂しくなってきた、もしかして俺ってお飾り? それって嫌だなぁ。
「どうしたの、魔王?」
「……何でもない、それで、何時まで此処に居る?」
「何時まで? ずっと此処に居る」
「永住宣言をするのなら家主に許可を取れ、まぁ、俺だがな」
「不束者ですが末永くよろしくお願いします」
「断る!」
第一、別物になっているだろうが。
しかし、いい加減、この不毛な話にもけりをつけねばならない。何故ならば、俺は例え、どのような立場でも奴の好意に応えることなど出来はしない。
だが、勇者は俺に異様なまでに固執する。その背景は知らない、知る必要も無い。敵の事情なんて知ったら、途端に攻撃の手に同情や哀れみが混じってしまうからだ。
それでも、この勇者はいい加減に故郷に帰るべきだろう。戦争が何年続いていたと思っているのだ?
幼少期から剣を取っているのだ、建前だけでも名誉は与えられる、唾棄せし戯言に付き合う必要もない、与えられた空間で安穏と暮らせるのなら、それは幸福だ。少なくとも、そう思う。自由を求めて戦い、傷つき斃れた魔物達を見た俺ならば。
「勇者よ、お前には帰るべき所があるだろう?」
「うん、魔王のところ」
「茶化すな、お前にだって親は居るだろう?」
「……あんなの要らない、あんな塵芥、何処にでも消えてしまえば良い、そんなのはどうでも良い。私は魔王さえ居てくれれば他は何にも要らない、貴方が要れば私は私でいられる」
俄然として勇者の顔から熱と言うものがごっそりと消えた。中身をからくり兵にでもすり替えられたように。表情と言うものが零れ落ちた人間の顔と言うのは恐ろしいものだ、対面するだけで胸のうちから恐怖があふれて来る、何を考えているか明瞭になっていないからだ。
しかし、退いては魔王の沽券に障る。例え、碌に魔法が使えずとも、魔を代表するものとして勇者とは断固として対峙せねばならない。
第一、人間に潜む魔を恐れては魔王と言う看板を背負えん、それは俺のこれまでの生き様を否定するも同然の所業なのだ。
「勇者よ、貴様の過去に何があったかは知らんが、生憎、俺は魔王だ。貴様の命乞いに耳を傾けようと謂れの無い愛情を受け入れる気は無い、退くか、殺すか、それがお前の取れる選択だ」
「……どうして?」
「何がだ?」
「私は全て捨てた、もう勇者じゃない。だから魔王の敵じゃない、だから――」
「確かに、よく感覚を研ぎ澄ませば、魔力は感じない。だが、それとて、お前は勇者であることを辞めれない。殺めた我が同胞の血肉の手触りをお前は聖剣を通して感じている筈だ、忘れたとは言わせん」
奴は捨てたと言う、何をどうして捨てたかには関心は無い。だが、一つ言えるのは、奴は自らの忌むべき点を排除すれば相手に好まれると勘違いしている節が有る。しかし、それは唾棄すべき悪徳だ。
それをこの勇者はまるで理解していない。成る程、四天王たちが言った通りじゃないか。この勇者は今更になって俺に牛の乳が欲しいと甘えてきているのだ。
「違う! 本当に全部捨てたの! だから、だからっ、私を望んでよ、貴方の思うとおりになるから!」
「己の生き方一つも肯定出来ない奴が他人を幸福に出来るとでも?」
どんなに道を違えようと、その道筋を無駄ではなかった肯定できるからこそ、他人の間違いを受け入れることが出来るし、他人の正しさを憎まずにいられるのだ。
そんな事も、この勇者は知らない。まるで人形だ。人形でお遊戯は楽しめても、友情は無い、一方的に楽しめるだけだ、いずれ飽きてしまう。
それは人間とて同じこと。自ら作り上げた偶像を弄ぼうと、世界は変わらない。癇癪を起こしても、人の心は動かない、子供でないのなら尚更だ。
「魔王、どうして、どうして? 私、貴方のためなら何でも出来る」
「そういう言葉はエーテルと同様に好きになった雄の為にとって置くべきだったな」
「こんな事を言うのは魔王だけだから……」
……? こいつ何か勘違いしているぞ。
しかし、良く考えてみれば無理も無い話だった。何故なら、俺は一度も城の外には出ていないからな。
だが、言っていい物だろうか? まあいいや。
「あのな、勇者よ」
「? 何? 婚約、性交、それとも出産?」
「……いや、全て出来ないぞ、人間的にも」
「どうして!?」
喚く勇者を見下げ、俺は少し息を溜めると、口を開いた。
「いやだって俺、魔王でも、性別は女だし」
何か歯車が合わないと思ったのだ。そしたら案の定、こいつ俺を男と勘違いしてやがったのだ。