第9話 ありがとう
朝、館の荷車には石を運ぶための縄が積まれていた。
モーリスが覆いの掛かった薪を確かめ、御者に声を掛ける。リュシーは私の帽子を結び直した。
「昨日より暑くなりそうです。水も持っていきましょう」
門へ向かうと、ルネが待っていた。
「上から三人、出られます。畑の方は家で見てもらうことにしました」
私は礼を言い、モーリスと一緒に水路へ向かった。
下の村からも人が集まっていた。セザールが道具を置き、マルクは石を運ぶ場所の草を刈っている。
昨夜、モーリスが双方の人数を確かめに行ってくれた。下の村は、去年の修理に出ていない家を中心に手を出せるという。
皆が揃うと、私は昨日の図を広げた。
「今日は上の村が石を運び、下の村はセザールさんと石積みを直す。その間、分水口の手前で水を止める役は、モーリスにお願いする。この分け方で、間違いないでしょうか」
ルネが頷いた。マルクも、はいと答えた。
私が決めたというより、二つの村から出せる手を聞き、作業に当てはめた形だった。
それでも、私の返事を待つ顔がある。
石積みを直すセザールへの作業料は、館の小さな修繕の備えから出す。両村から出してもらうのは、普段の水路の手入れと同じように、運搬と見回りの手だった。昨夜、モーリスと確かめた内容を、皆にも伝えた。
「去年の手間については、上の村から、下の村の刈り入れに手を貸すお話になったと聞きました」
「水路が直ったら、日を決めます」
ルネが言った。
「去年の分を全部同じにできるかは分かりませんが、まず二日。足りないところは、そのあと相談します」
マルクは少し考えてから、頷いた。
「手が要る畑を、こちらでまとめます」
私は図の横に短く書き足した。
何もかも今日で済むわけではない。それでも、去年の働きをなかったことにはせず、話が続く形にできた。
セザールが水路を見た。
「では、止めてもらえますか」
モーリスが上流へ向かい、別の男性と一緒に板を入れる。流れが細くなると、セザールが崩れたところへ降りた。
私は昨日注意された場所より離れて立った。
濡れた土に、靴が少し沈む。
石の下を確かめたセザールが、脇の土も崩れていると言った。
「積む前に、ここを落ち着かせたい。細かい石も要る」
ルネが荷車へ戻り、運んだ石を選び直す。マルクも一緒に屈んだ。
どちらの村の仕事なのかと言い合っていた二人が、今は石の大きさについて話している。
リュシーが籠を下ろした。
「お水、こちらに置いてよろしいですか」
邪魔にならない場所を聞き、杯を並べる。私は杯を持とうとして、手を止めた。飲む時間も、作業している人たちが決めることだ。
少し待つと、石を運んでいた女性が来た。
「いただいていいですか」
「どうぞ」
杯を渡すと、彼女は一度で飲み、帽子の下を拭った。
「館の水ですか」
「ええ」
「冷たいですね」
そんな短い会話でも、昨日より話しやすかった。
午前の終わりが近づく頃、セザールが水を戻してほしいと声を上げた。
板を少しずつ上げると、石積みの脇を水が通った。
皆が黙って見ていた。
昨日は外へこぼれていたところで、水が水路の中を流れていく。けれど、セザールはすぐ終わりとは言わなかった。
「少し、このまま見ます。押されて動く石がないか」
私は帽子のつばを押さえて待った。
下の方へ確かめに行ったマルクが、戻ってきた。
「昨日より来ています」
声を聞いても、まだ何かが失敗するかもしれないと思った。セザールが道具を片づけ始めて、ようやく肩の力が抜けた。
水の配分は、今までの時間を基本に戻す。ただし、今年のように水が少ないときは、勝手に口を変えず、使う畑の様子を互いに確かめることになった。
修理した場所は、明日の朝にも両村から一人ずつ見に来る。
「次に崩れたら、どちらかだけで直すとは決めず、館へ知らせてください。使っている畑と、そのとき必要な作業を一緒に確かめたいです」
私が言うと、モーリスが、連絡を受けたら双方へ伝えると続けた。
マルクは頷き、畑へ戻る支度をした。
帰る前に、こちらへ一歩近づいてくる。
「ありがとうございました」
私は少し遅れて顔を上げた。
「今日、直せてよかったです。明日の分まで待つかと思っていたので」
私が直したわけではない。
その言葉を口にしかけると、彼はもう帽子を被っていた。
「お話を聞いてくださって、助かりました」
今度は、何に対する礼なのか分かった。
「こちらこそ、何度も教えていただいて、ありがとうございました」
マルクが短く会釈をした。
館へ戻る途中、私は何度も水路の方を振り返った。
大きな声で喜んだ人はいない。私の周りに集まり、領主様と呼んだわけでもない。
畑へ帰り、昼の支度をし、皆それぞれの仕事へ戻った。
それでも、ありがとうと言われた。
王都では、妹へ何かを譲るとそう言われた。
今日は、何かを渡して手を引いたのではなかった。分からないところへ残り、話を聞いた。そのあとで、礼を言ってもらえた。
「お嬢様」
リュシーに呼ばれ、足を止める。
「そのままですと、溝へ入ります」
前を見ると、道が少し曲がっていた。
「ごめんなさい」
「帰るところまで、お願いします」
彼女の困った顔に、笑ってしまった。
モーリスは少し先で待っていた。私たちが追いつくと、昨日までとは違うことを尋ねた。
「道の確認は、明日になさいますか」
疲れたでしょうから休んでは、ではなかった。
「ええ。明日に。御者にも、改めてお願いしてください」
私は答えた。
門まで戻ると、馬に乗ったフェルナン様が道の反対から来た。モーリスに用件があるらしい。
「東の町からの帰りです。林の境について、手紙を待つより早いので、立ち寄りました」
彼は馬を降り、私たちの靴へ目を向けた。
「道を見てこられたのですか」
「今日は、水路の修理へ。道は明日にしました」
私が答えると、モーリスが事情を短く説明した。林の記録を取ってくる間、フェルナン様は庭で待った。私も、玄関の泥落としを使いながら話をした。
「水は、どちらにも戻りましたか」
「はい。ただ、明日の朝も、崩れていないか見てもらいます」
「それなら安心ですね」
私は修理に出た人たちの話をした。途中で、昨日の役割の食い違いまで説明してしまい、長かったかもしれないと口を閉じる。
フェルナン様は、モーリスが戻ってくる方へ視線を向けてから、尋ねた。
「今後のことも、皆で確かめられましたか」
「ええ。口を変える前に話すことと、壊れたら両方へ知らせることを。図にも残しました」
私が泥のついた書類入れを見せると、彼は頷いた。
「そこまで確かめておけば、次の方が困らずに済みますね」
次の方、と言われ、少し身構えた。
けれど、彼が見ているのは、私の帰る日ではなかった。見回りや修理を、次にする人のことだった。
「モーリスにも、残してもらいます」
「私も、道の記録では同じことを頼みます。書いた者にしか分からない報告では、使えないので」
彼は私の話を、館の仕事の一つとして聞いていた。
モーリスが戻ると、林の話になった。私は、その場で聞き切れるほど元気ではなかったので、館に記録を残してほしいと頼み、先に中へ入った。
リュシーが、ようやく休めますねと言った。
私は頷いた。礼を言われたことも、次の確認を約束できたことも、部屋に戻ったら手帳へ書こうと思った。
夕食の前、モーリスが林の記録を持ってきた。双方の古い記録で境が一致し、伐採を頼まれた木は北領側にあると確かめられたという。私は図で範囲を確認し、その木を切る許可を返してもらうことにした。
それから、手帳に今日のことを書いた。ありがとう、という言葉だけは、消さずに残した。




