第10話 もう一つ、教えてください
水路は、翌朝も崩れていなかった。
下の村から知らせが届き、上の村の外れの畑にも水が来ていると聞いた。
モーリスが報告を終えて部屋を出ようとしたので、私は呼び止めた。
「昨日書いたものを、残しておきたいのですが」
水路の図と、作業を分けた紙を示す。
「そのままでは、読みにくいでしょうか」
「図は、私が写しておきます。お話しした内容は、このままでも分かります」
モーリスは紙を受け取り、一か所を指した。
「刈り入れの日は、まだ決まっていません。決まったら、ここへ」
「お願いします」
書類の中で双方了承とだけ記されていたことを思い出した。
今度は、何を了承したのかも残る。
その日の午前は、延期していた道を見に行った。
御者が先に歩き、土に沈んだ轍を棒で確かめる。私には浅く見えるところで、馬車の荷が重ければ車軸まで落ちると言った。
「歩いて通れるなら、荷車も通れると思っていました」
「空なら抜けるかもしれません。ただ、同じところへ続けて入れば、もっと深くなります」
フェルナン様が御者にも聞くようにと言った理由が、ようやく分かった。
すぐ道全体を直すことはできない。モーリスと御者が迂回路を確かめ、通れる荷車の大きさと、避ける場所を紙へ記した。
館へ戻り、その報告をフェルナン様へ送ることにした。
私が手紙を書き終えると、モーリスが封を確かめた。
「明朝、町へ行く者に託します」
「よろしくお願いします」
彼は頷いた。
水路の修理が終わっても、館の仕事は減っていない。薪の運搬を一日延ばしたので、今日は荷車が往復していた。
私の判断で遅くしたものもある。
窓の下で荷を下ろす人を見ながら、モーリスへ尋ねた。
「ほかにも、困っていることはありますか」
彼は少し黙った。
上の村で同じことを聞いたときも、返事はなかった。
「すぐに全部できるとは、言えません。水路でも、分からないことばかりでしたし」
それを口にすると、また何もできないと言っているような気がした。
でも、できると約束してしまう方が怖かった。
「一つずつ、教えていただけませんか」
モーリスは窓の方へ目を向けた。
「豆が、館の納屋にございます」
「食事に使うものですか」
「それとは別に、去年売れ残った分です」
午後、納屋へ案内してもらった。
木の扉を開けると、乾いた土と藁の匂いがした。壁際の棚に、小さな麻袋が積まれている。
モーリスが一つ開け、掌へ豆を出した。
朝の煮込みに入っていたものと同じ色だった。
「虫が入っていないかは、定期的に見ております。食べる分には、まだ使えます」
「売れなかったのですか」
「買うという方はいました。ただ、その値では、村で保存しておいた方がましだと」
私は豆を一粒受け取った。
小さく硬く、爪に当たって音がする。
「では、これは誰のものなのでしょう」
「館の畑から採れた分と、村の家から預かった分がございます。袋ごとに札をつけています」
よく見ると、紐の先に木札が下がっていた。
「村の分を、館で売るのですか」
「まとめて運ぶ方が買い手も扱いやすいので、希望した家から預かっています。売れた分は、持ち主へ渡します」
私が、まとめて好きに売ってよいものではなかった。
「売れないと、困りますね」
当然のことを言っただけなのに、モーリスは頷くまでに少し時間を置いた。
「冬に使う品を、買えない家が出ます。北領で作れないものもございますので」
塩や布、道具の金具。
台所にある物の中にも、ここでは作れないものがあった。
「前には、本家へお知らせしましたか」
「はい。王都へ送るには、量に対して運ぶ費用が掛かりすぎると。それは、その通りでした」
モーリスは袋の口を結び直した。
「それから、こちらでも探しましたが、買い手が増えませんでした」
何もしていなかったわけではない。
手を尽くして、その先へ進めなくなっていたのだ。
「私は、何から聞けばいいでしょう」
モーリスがこちらを見た。
「まず、いつも買いに来る方のお話を。数日後に館へ来る予定です」
「その場に、私もいてよいですか」
彼は、今度は不思議そうな顔をしなかった。
「お願いできれば」
豆を袋へ戻し、私は掌についた粉を払った。
納屋から出ると、アンヌが洗濯物を取り込んでいた。私たちを見て、今日は道の方へ行けましたかと尋ねる。
昨日までは、疲れていませんかと聞かれていた。
「ええ。歩くのと、荷車が通るのは違うのですね」
「雨のあとだと、ここまで粉を運んでもらうのも大変ですから」
アンヌは布を籠へ畳んだ。
「モーリスが、明日は靴の泥を落とす板を、もう一枚置こうと言っていました」
私はモーリスを見た。
「毎日出歩くなら、あった方がよいかと」
彼はそれだけ言った。
アンヌが籠を持ち上げた。私は手を出しかけ、どこへ運ぶのか先に尋ねた。
「この布は、二階へ。こちらの小さいものは、台所の棚です」
「小さい方なら、私も持てそうです」
彼女は少し迷ってから、畳んだ布を数枚渡してくれた。
台所へ運ぶと、豆の莢を外していた女性が、棚の場所を教えてくれた。名前はリーズという。
「こちらへ置けばいいですか」
「はい。お手を煩わせて、すみません」
私は首を振った。
役に立ったというほどでもない。それでも、何も知らずに台所の入口で立っていた朝より、一つ置き場所を覚えた。
部屋へ戻る前に、モーリスへ尋ねた。
「納屋の豆のことは、村の方も気にされていますか」
「はい。何度か、買い手が見つかったか聞かれております」
「私が商人のお話を聞くことは、伝えてください。ただ、まだ売れると決まったわけではないので、そのままに」
期待してもらえば、嬉しいのかもしれない。
水路で言われたありがとうを、もう一度聞きたい気持ちはあった。だからこそ、まだしていないことまで、できるように話すのはやめようと思った。
モーリスは頷き、持ち主にも同じように知らせると答えた。
「一つお尋ねしてもよろしいですか」
今度は彼が言った。
「商人が来る日に、村から希望を聞いておく方がよろしいでしょうか。全部同じ値で売りたいとは限りませんので」
私だけで決めなくてもよい形を、先に考えてくれたのだ。
「お願いします。私にも、聞かせてください」
モーリスは、承知しましたと答えた。初めて聞く返事ではない。でも、今日は私が知らないことを埋めるための、その次の言葉があった。
館の入り口に置かれる板は、私がまた外へ出るためのものだった。
部屋へ戻り、次の予定を手帳へ書いた。
商人の方に、お会いする。
何を解決できるかは、まだ書けない。
けれど、誰かが決めた訪問日を写すのではなく、自分が出席したい約束を書いていた。




