第8話 分かりません
古い報告書には、石積みの修理を下の村へ頼んだと書かれていた。
上の村については、分水口の確認を依頼、とある。
その下に、双方了承と記されていた。
「これなら、二人のお話と同じですね」
私は書類を机に戻した。
モーリスは頷かなかった。
「当時、私は冬の薪の手配で、隣の町へ出ておりました。戻ったときには、処置は済んだと聞いております」
「水路のことは、そのままになったのですか」
「翌年も下の村で手を入れたので、分担が決まったのだと思っていました。去年は継ぎ目を塞ぐ程度で、水も足りていましたので」
「去年から、不満があったのでしょうか」
「下の村からは、人手が掛かったと聞きました。負担が軽くなるよう、館の荷車を貸したのですが、上の村とどう分けるかまでは、聞き直しませんでした」
モーリスは私の図を見た。
「今年は川の水が少なく、昨夜の雨のあと、石積みも大きく崩れました。水の取り分で争ったのは今朝が初めてです。ですが、去年のうちに確かめていれば、違ったかもしれません」
彼の指が、報告書の端へ触れた。
「こちらから確かめるべきでした」
責めるつもりで聞いたのではなかった。
でも、何も言わずにいた人を前にすると、私も黙りそうになる。モーリスが申し訳ございませんと頭を下げかけたので、私は別の紙を出した。
「今日見た水路を描いてみました。違っているところを、教えていただけませんか」
彼は紙を見た。
最初に、上の畑へ向かう線の位置を直した。次に、私が書き足した分かれ道を指し、崩れた場所との間を少し広げた。
「畑への分かれ道は、もう少し先にございます」
「先ほど聞いた、上の村の方が使う畑ですね」
「はい。家は上の村ですが、畑はこちらに」
村の名前で線を分けていた私の紙は、何度も直された。
リュシーがお茶を置いた。
私は礼を言い、カップへ手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。
「どうかなさいました?」
「夕方、何を言えばいいのか分からないの」
モーリスが書庫へ戻ってから、そう話した。
リュシーは空いた椅子の背に手を置いた。
「先ほどのお二人は、よく知っていらっしゃるようでしたね」
「ええ。だから私が尋ねると、また説明しなければならなくなるでしょう」
「私も、こちらの台所で何度も聞いています。どの桶を使うかも、最初は分かりませんでしたから」
彼女は少し笑った。
「同じことを二度聞いたら、さっき言ったでしょうと言われました」
「怒られたの?」
「少し。今朝は間違えませんでした」
私は冷めかけたお茶を飲んだ。
分からないまま頷くと、あとで困る。
そのことなら、私にも経験があった。
夕方は館へ集まってもらった。
ルネとマルクのほか、石積みを直せるセザールが来た。日に焼けた首の後ろに、白く細い古傷がある。
彼は応接室の椅子へ座るのを遠慮し、入口に立ったまま水路の話を始めた。
「崩れたところは、石を積み直せば塞げます。ただ、水を落とさないと、下の土が見えません」
「上を閉じるのですか」
私は尋ねた。
「いえ。壊れたところへ入る前の、主水路を短い間だけ。分水口の手前です」
ルネが眉を寄せた。
「どれくらい止める?」
「石と人を先に揃えれば、明日の午前のうちには。土の具合は、見てみないと分からない」
私は、自分が描いた図を卓へ出した。
「すみません。私は水路のことも、畑のことも、まだ分かりません。どこを止めるのか、こちらに示していただけますか」
三人が図を覗き込んだ。
セザールが一か所を指す。マルクが、畑へ続く線が一本足りないと言った。
書き足すと、ルネも別の線を直した。
誰も、最初の図を笑わなかった。
ただ、説明が速いので、私は何度か待ってくださいと頼まなければならなかった。
「この修理で、上の村の畑にも水が戻るのですね」
「そこの二軒は、そうです」
ルネが答えた。
マルクが顔を上げる。
「なのに、人を出すのは下だけだと言うのか」
「だから、こっちは分水口を見てるんだ。そう決めたのは、そっちじゃない」
私は報告書を出した。
読めるよう向きを変えたが、二人とも文字へ目を落とすより、私の顔を見た。
「前の方から頼まれたことを、もう一度教えていただけますか。これには、どちらがどこを確認したかはあるのですが、これから毎年そうするとまでは書かれていないので」
マルクが言った。
「そのときは、下から人を出して直してくれ、と。急ぐので、分水口の方は上に任せると言われました」
私はルネを見た。
「こちらには、下が修理するから、上は口を見てくれと。次に壊れたときも、下へ話せばいいと思いました」
セザールが帽子を膝に置いた。
「修理のあと、人を出した家で話になったんです。毎回こちらでやるのか、と。もう上の役目も決まったというので、それ以上は」
私は報告書を見直した。
双方了承。
その言葉の中に、今聞いた話は入っていない。
「その日、急いで修理するための分け方を、これからの分担として受け取っていたのかもしれませんね」
言うと、マルクはすぐには頷かなかった。
「じゃあ、去年出した手間は?」
私は口を閉じた。
前の報告を確かめたからといって、去年の仕事が消えるわけではない。
「去年、どなたが、何をなさったのかも聞かせてください。今日ここで、なかったことにするつもりはありません」
マルクはルネを見てから、指を折って話し始めた。
石を運んだ家。土を掘った人。畑を休んだ時間。
モーリスが別の紙に書き留める。途中でセザールが一人の名を足した。
私は、話の終わりまで待った。
「明日の修理に必要な人は、何人でしょう」
セザールが作業を分けて説明した。
村全員が出る必要はない。石を運ぶ者と、口を見て水を止める者、崩れた場所に手を入れる者が要る。
ルネが畑の仕事の予定を口にし、マルクも自分の村の都合を話した。
セザールが、石を運ぶ荷車も要ると言った。下の村のものは車軸を直している最中だという。
「館の荷車は、使えますか」
私がモーリスに尋ねると、彼は明日の薪の運搬に使う予定だと答えた。
「薪は、一日延ばしても困りませんか」
「天候が持てば。覆いは先に掛けておけます」
私は窓を見た。今は晴れていても、明日も同じかは分からない。
「では、覆いを今日のうちにお願いできますか。荷車は、水路へ回したいです」
モーリスが頷いた。
何かを使えば、別の仕事では使えなくなる。その調整まで聞いてからでなければ、館から貸しますと言うだけでも済まないのだ。
ルネが、荷車を引く人間はこちらで相談すると言った。セザールは修理に使う道具を持ってくるという。私は紙の余白へ、それぞれの申し出を書いた。
初めて二人が、相手の言葉を途中で遮らずに聞いていた。
「今夜、村で人数を確かめてもらえますか。館から出せる手と、修理に使えるものも、こちらで確認します」
私が頼むと、ルネが頷いた。
マルクは、去年の分も含めて明日話すということでいいですね、と念を押した。
「はい。実際の作業に無理のない形で、決めたいです」
皆が帰る頃には、外が暗くなっていた。
卓に残った図は、書き直した線でいっぱいだった。綺麗な地図ではないけれど、朝より水の流れが分かる。
モーリスがその紙を見た。
「明朝、現場へお持ちしましょう」
私は頷いた。
どちらかの村へ我慢してほしいと命じる言葉を、ずっと考えていた。
けれど、今日聞いた話は、それだけではなかった。
私は図の端に、明日尋ねることをもう一つ書き足した。
直したあと、誰が、何を確かめるのか。
今度は、皆が同じように分かっているか、確かめたかった。




