第7話 水の行く先
上の村から人が来たのは、道を見に行く支度をしているときだった。
モーリスを呼んでほしいという声が、玄関から聞こえた。
私も廊下へ出ると、泥のついた長靴の男性が立っていた。帽子の縁を両手で握っている。
「水路のことで、どうしても決めていただきたいんです」
モーリスの顔を見たまま、彼は言った。
「上の畑を先に止めろと、下から言われまして」
「まだ、止めたわけではないですね」
「はい。ただ、今日もこのままなら、向こうが口を塞ぐと」
モーリスが私を振り返った。
「先に、水路の方を確かめてまいります。道の確認は、午後へ延ばしてもよろしいでしょうか」
「私も、伺います」
男性が初めて私を見た。
歓迎とは違う、戸惑った表情だった。
馬車を使えるところまで行き、あとは歩いた。リュシーもついてくる。昨日は乾いていた道に、薄い泥がついていた。
昨夜、短く雨が降ったのだ。
「雨が降っても、足りないのですか」
尋ねると、男性が肩越しに答えた。
「一晩の雨では。今は川の水も減っていますから」
彼の名はルネといい、上の村で畑を作っているそうだった。
水路は、林の端で枝分かれしていた。
上の村へ流れる口には、木の板がはめられている。もう一方の水は、畑沿いを下の村へ向かっていた。
下へ向かう水路の途中で、石積みの一部が崩れ、外へ水が漏れていた。その少し先にも細い分かれ道があり、ルネが、上の村の外れの畑へ引いていると教えてくれた。
村ごとに、別々の水路を使っているわけではないらしい。
何人かが立っていた。こちらを見て頭を下げたが、すぐにルネへ顔を向ける。
「まだ、閉じていないのか」
「だから、話をしに来てもらった」
下の村の男性が、モーリスへ歩み寄った。
「下まで水が来ません。上を半日止めれば、こちらへ回せるはずです」
ルネがすぐに言った。
「こっちだって、昨日の分が足りてない。漏れてるのを塞ぐ方が先だろう」
「直すまでの話だ。上へ行く分を回せば、漏れても、今よりは下へ届く」
マルクが、細く流れる水を指した。
「ずっと閉じろと言ってるんじゃない。今日の分を欲しいんだ」
「その間、待てと言うのか」
私は二人を見た。
畑にどれだけ水が必要なのか、半日止めて困るのか、判断できなかった。
モーリスが片手を上げた。
「まず、崩れたところを直す手はあります。石は近くで用意できますが、人が要ります」
「下だけで直せってことですか」
下の村の男性は、マルクと名乗った。
「ここは、下への水路でしょう。前に伯爵家の方が来たときも、下が面倒を見ろと言われました。だから、去年も自分たちで直した」
「上は分ける口を見ていればいいと言われたんです」
ルネは板を指した。
「そこへ人を出して、さらにこっちもとなれば、畑の手が足りません」
モーリスが唇を結んだ。
私は、前に来た人のことを知らない。二人の話だけ聞けば、どちらも言われた通りにしている。
「そのときのお話は、書面に残っていますか」
尋ねると、二人は私を見た。
「こちらに、書いたものはありません」
「館には、報告があると思います」
モーリスが答えた。
「では、そちらも確かめて……」
「水は、今日欲しいんです」
マルクの声が強くなった。
リュシーが私の半歩後ろで動いたが、何も言わなかった。
ルネも、こちらを見ている。
「どちらを先にするか、決めていただけませんか。前の方は、すぐ決めてくださいました」
私は濡れた石を見た。
命じれば、上の口は閉じられるだろう。私には、その判断をする立場がある。
けれど、閉じたあと何が起きるのかを知らない。
「今すぐ、どちらかを止めるとは言えません」
マルクが息を吐いた。
私は急いで続けた。
「故障したところへ、今日、水を流したまま手を入れられるかは、確かめたいです。詳しい方はいらっしゃいますか」
「石を組めるのは、下の村のセザールです。ただ、今は別の家の修理に行っています」
モーリスが答えた。
「今日、話を聞けますか」
「夕方には戻るはずです」
私は二人へ向き直った。
「夕方まで今のままだと、間に合わなくなる畑はありますか」
マルクは水路の先を見た。
「今日一日で枯れるわけではありません。ただ、明日もこれなら、困る家が増えます」
ルネも、上の畑は今夜までは待てると答えた。モーリスに尋ねると、村で聞いている状況も同じだという。
「では、夕方に方法を確かめて、明日の作業を決めさせてください。急に水が減るなど、様子が変われば、館へ知らせてもらえますか」
マルクは少し迷ってから頷いた。
それだけでは、皆が納得しないことも分かっていた。
「それまでは、今の口を動かさずにいてください。漏れているところに草や枝が溜まっているので、取れるものだけ、お願いできますか。危ないところには触れずに」
言い終えて、モーリスを見た。
彼は崩れた石を見直し、今の水量なら脇の枝は取れると答えた。
マルクはしばらく黙っていた。
「今日中に、もう一度話をしていただけるんですね」
「はい」
その返事だけは、はっきりできた。
ルネが帽子を被り直した。
「では、畑へ戻ります。夕方には来ます」
人が散ると、水の音が聞こえるようになった。
マルクだけが残り、溜まった枝を棒で引いていた。足元の石が動くと、一度離れ、安全な場所から棒を伸ばし直す。
私も枝を拾おうとして屈んだ。
「そこは、乗らないでください」
彼に言われ、手を止めた。私の前にある石は、下の土が流れていた。
「踏むと崩れます。さっき話していたところです」
「すみません」
私は乾いた土の方へ退いた。
役に立ちたいと思っただけでは、作業の邪魔になることもある。リュシーも裾を寄せて、同じ場所まで下がった。
棒が届かない枝を、モーリスが反対側から動かす。やがて水が少し滑らかに流れ始めた。
「これで、下まで戻りますか」
「少しは。ただ、漏れるところは残っています」
マルクは濡れた枝を道の端へ置いた。
「決めてくれれば、それに合わせて動けます。畑を空けるにも、家で話さないといけないので」
私は頷いた。
夕方にもう一度話すという返事が、彼の今日の予定を変えている。館へ帰ってから、やはり疲れたので明日にと言える約束ではなかった。
「先に知っておいてほしいことがあれば、モーリスへ伝えてください。私にも聞かせてもらいます」
マルクは棒を肩に担ぎ、短く礼をして去っていった。
私は、どこへ漏れ、どこへ流れているのか、もう一度見た。
外へこぼれる水を、手で戻すことはできない。
簡単なことのはずなのに、どちらへ先に渡すかと聞かれると、何も言えなくなった。
館へ戻る途中、モーリスが言った。
「こちらで手配をしておきます。お嬢様はお疲れでしょうから」
私は足を止めかけた。
任せてしまえば、部屋で待っていられる。
誰も、それを責めないかもしれない。
「書面を、私にも見せてください」
モーリスがこちらを見た。
「先ほどは、決められませんでした。けれど、夕方にお話しすると言ったので」
彼は少しだけ間を置き、承知しましたと答えた。
午後に見るはずだった道は、翌日へ延ばした。御者にはモーリスから事情を話してもらった。
書庫で古い報告を探す間、私は机に水路の形を描いた。
上の村へ向かう線と、下の村へ向かう線。
モーリスに確かめると、私が下の村だけへ行くと思っていた細い水路から、上の村の外れの畑にも水を引いているという。
私は線を一本、書き足した。
窓の外では、まだ日が高かった。
夕方までに何が分かるのか、心細かった。
それでも紙を畳まず、モーリスが持ってくる書類を待った。




