第6話 帰る馬車
モーリスの仕事を見せてもらう朝は、薪の確認から始まった。
冬に使う分を乾かすため、雨が入り込むところを塞ぐ。修理のために呼ぶ職人は、館の仕事だけをしているわけではない。
「村の屋根の方を先に頼まれているそうです。こちらは、覆いを掛ければしばらく持ちます」
モーリスはそう言い、私へ板の端を見せた。
帳面を読むより、どこが傷んでいるかがよく分かった。
ただ、だから何を決めればよいのかは、まだ分からない。
午前の半ば、門の方で蹄の音がした。
使用人が、隣領からの訪問者だと知らせに来る。
「フェルナン様でございます」
モーリスの声が、少し変わった。
玄関へ戻ると、若い男性が手袋を外していた。砂色の髪に、濃い灰色の上着。胸元の留め具には、辺境伯家の紋章がある。
お父様の書斎にあった地図で、北領の西側を広く占めていた家だ。
「フェルナン・サヴェルです。父に代わり、この辺りの交易路や商人の巡回について調整を担当しております」
彼は簡潔に名乗り、私へ一礼した。
年は二十を少し過ぎたくらいに見える。
「オデット・ヴェランです」
「領地の譲渡について、当家にも連絡が届きました。今後の窓口を確かめたく、伺いました」
お祝いを言われるのかと思ったが、彼は続けてモーリスを見た。
「前にお願いした、北の道の報告は」
「こちらに。昨夜、ようやく届きました」
二人の間では、既に話が進んでいたらしい。
私は応接室へ案内し、同席してよいか尋ねた。
フェルナン様は少し不思議そうにした。
「こちらの領主は、あなたでしょう」
「はい」
「でしたら、伺っていただく方が助かります」
座る場所を選ぶだけで、少し緊張した。
モーリスが地図を広げる。北領を通る道は、隣領の町からさらに東の集落へ続いていた。
「こちらの林沿いは、雨のあとに車輪が沈みます。巡回の荷馬車が一度、引き返しました」
「人馬は?」
「怪我はありません」
フェルナン様が頷き、道の一か所へ指を置いた。
「林の先の迂回路は使えますか」
「小さい荷馬車なら。ただ、所要が延びます」
話を聞きながら、私は地図の線を目で追った。
北領の道が使えなければ、隣領の商人も困る。地図では別の色で塗られていても、道はそこで切れていない。
「こちらで、修理をする必要があるのですね」
尋ねると、フェルナン様は私を見た。
「北領内ですから、まずはこちらの判断になります。今すぐ全部を直すという話ではありません。通れる幅や、避けるべき箇所が分かれば、巡回する者に伝えられます」
モーリスが、次の晴れ間に確かめると答えた。
私が何か言う前に決まったことへ、フェルナン様は異を唱えなかった。
任せてよいことなのか、自分が口を出すべきことなのか。その違いも、まだ分からなかった。
「これまでも、こちらへよくいらしていたのですか」
私が尋ねると、フェルナン様は首を振った。
「私がこの周辺の担当になってからは、まだ一年ほどです。以前は父の家臣が窓口でした。今も、判断に迷うことは持ち帰ります」
モーリスが地図を畳みかけた手を止めた。
「林の境のことで、先日お尋ねした件はいかがでしょう」
「古い記録を確認中です。境が定まらなければ、こちらで木を切る許可は出せません。返答は、もう少し待ってください」
「承知しました」
フェルナン様が来れば、すべてその場で決まるわけでもないらしい。
私は地図の林を見た。境の向こうは辺境伯領だった。同じ木立でも、頼む相手も、決める人も違う。
「こちら側の記録も、必要でしょうか」
「あるなら、写しを。そちらと照らせれば助かります」
私はモーリスへ視線を向けた。彼は館にあるものを探すと答え、フェルナン様は持参した手帳へ短く記した。
こちらを見上げて、礼を言う。私は何も探していないのに、頷くだけで終えてよいのか少し迷った。
お茶を運んできたリュシーが、戸口で私を見た。
私は頷いてみせた。大丈夫かと尋ねられたわけではないのに、そうしたくなった。
報告が終わると、フェルナン様は地図から手を離した。
「今後、急ぎの連絡は館へお送りしてよろしいですか。王都へ回すと、その間に巡回日が過ぎてしまいます」
「こちらへ、お願いします」
「分かりました。留守になさる日があれば、モーリスに受け取ってもらえれば」
モーリスが承知しましたと答えた。
フェルナン様はカップに一度口をつけ、窓の外へ目を向けた。
「ご到着は、一昨日でしたか」
「はい」
「王都からは、道中も長かったでしょう。お帰りの馬車も、こちらで手配されるのですか」
カップを持つ手が止まった。
ニコにも、いつ帰るのと聞かれた。
そのときは、住みに来たと答えたが、今日は相手が子供ではない。譲渡の連絡を受け、領主として私に話をしに来ている。
「帰る馬車は、手配していません」
フェルナン様がこちらを見た。
「今は、ここで暮らすつもりです」
「そうでしたか」
彼はすぐ頷いた。
「失礼しました。以前は本家の方の滞在に合わせて、報告をまとめていましたので」
言い訳を長くすることも、私の決意を褒めることもなかった。
私はカップを受け皿へ戻した。
ここで暮らすと言っても、何もできていない。そのことは、自分で分かっている。
けれど、帰る日を先に尋ねられるのは、嫌だった。
「道の確認には、私も行きます」
モーリスが口を開きかけた。
フェルナン様の方が先に言った。
「雨のあとですから、足元にはお気をつけください。歩いて分かることもありますが、車輪が通れるかは、御者にも確かめてもらうとよいと思います」
私は頷いた。
それ以上、彼は私に何をすべきか教えようとはしなかった。
玄関まで見送ると、門の内側で待っていた従者が馬を連れてきた。
「このあとも、別のところへ?」
「東の町へ。巡回日を変更する商人がいるので、出発前に話しておきたいのです」
彼は手袋をはめた。
「次に北領を通る日程は、手紙でお知らせします。皆さんの予定もありますから」
「分かりました」
馬に乗り、簡単に会釈をして出ていった。
門が閉まってから、私はモーリスを見た。
「道を見に行くとき、御者にもお願いしていただけますか」
「承知しました」
彼の声は、いつもと同じだった。
リュシーが空の盆を抱えて廊下へ出てきた。
「お茶は、冷めてしまいましたね」
「私、変なことを言ったかしら」
「どれでしょう」
「帰る馬車はない、と」
彼女は少し考えた。
「手配していませんから、その通りだと思います」
私は、そうねと答えた。
その通りのことを言っただけなのに、胸がまだ、少し速く動いていた。




