第5話 いつ帰るの
台所の入り口で立ち止まると、アンヌが振り返った。
「お湯が足りませんでしたか」
「いいえ。昨日のお食事のお礼を言いたくて」
彼女は手を拭き、こちらへ向き直った。
「お召し上がりいただけて、よかったです」
「毎日、あのように用意していただかなくても……」
言ってから、言葉を選び直した。
「皆様が食べるものを、私もいただきたいです」
アンヌは、すぐには頷かなかった。
「では、足りなければおっしゃってくださいませ」
戸棚の前には、畑で見た女性がいた。袖をまくり、豆の莢を外している。
私は挨拶をした。彼女は驚いたように手を止めて、頭を下げた。
「作業中に、ごめんなさい」
何を話せばよいか分からず、そこまでで台所を出た。
廊下には、モーリスが待っていた。
「領内へお出かけになると、伺いました」
「案内をお願いできますか」
「馬車なら、上の村までご覧になれます。下の村は道が狭いので、途中から歩くことになりますが」
私は歩ける靴を持ってきてよかったと思った。
館の庭にも、モーリスは仕事を残していた。出かける前に使用人へ二つ用件を伝え、私たちを小さな馬車へ案内する。
窓から、昨日見えなかった畑が広がった。
よく茂っているところもあれば、土が白く乾いているところもある。馬車が通ると、畑仕事をしていた人が顔を上げた。
私が会釈すると、帽子を取って頭を下げる。
笑いかけてはくれなかった。
上の村は、細い道に家が寄り添うように並んでいた。井戸のそばで洗濯をしていた女性たちが、桶を端へ寄せる。
「新しい領主様でございます」
モーリスの紹介を受け、私は名乗った。
「オデットと申します。こちらのことを、少しずつ教えていただければと思います」
一人が、承知しましたと答えた。
ほかの人たちは、私とリュシーの服を見ていた。飾りの少ないものを選んだつもりだったが、村の女性たちの袖には、もっとたくさん継ぎがあった。
「何か、困っていることはありますか」
誰も答えなかった。
モーリスが、この時間は仕事がございますので、と私に言った。
頷いて道を空けると、桶の水音が戻ってきた。
村を出る途中、家の軒先に布が干されていた。
腰を曲げた男性が籠を持ち上げようとしている。モーリスが手を貸し、短い言葉を交わした。
相手は彼には普通に話していた。
私が立っていることに気づくと、口を閉じた。
馬車へ戻ってから、モーリスに尋ねた。
「お邪魔になってしまいましたか」
「作業の多い時期ですので」
それ以上の言葉はなかった。
下の村までは、途中で馬車を降りた。
リュシーが裾を上げ、私も真似をする。石に靴底が滑りかけると、彼女が腕を差し出した。
「大丈夫ですか」
「ええ」
足元を見て歩いていたので、横を流れる溝に気づいたのは、しばらくしてからだった。
水が細く流れている。
溝の先で、少年が木の棒を持って遊んでいた。棒に引っ掛かった葉を、しゃがんで取っている。
「こんにちは」
声を掛けると、少年は私を見た。
泥のついた膝と、日に焼けた頬。七つか八つくらいだろうか。
「新しい領主様?」
「ええ」
「いつ帰るの?」
私は、笑おうとしていた顔のまま止まった。
「こちらへ、住みに来たのよ」
「でも、おうちは王都なんでしょ」
後ろから女性が出てきた。
「何を言ってるの。失礼しました、領主様」
少年の肩を引き、頭を下げる。
「いえ。大丈夫です」
そう言ったが、少年の問いには、うまく答えられなかった。
王都の部屋は、そのままだ。
お母様は妹の式に戻ってくるかと尋ね、お父様は次の縁談の連絡をすると言った。
私にも、いつまでここにいるのか、はっきり言えるだけの暮らしはなかった。
「お名前を、聞いてもいい?」
少年は母親を見た。
「ニコ」
「ニコ。私は、オデットです」
名乗っても、彼は知ってるという顔をしただけだった。
その家を離れてから、モーリスが口を開いた。
「以前も、本家からお越しになる方はいらっしゃいました」
「お父様ですか」
「ご当主がお見えになることは、ほとんどありません。代わりの方が、館の様子を確かめに」
彼は少し間を置いた。
「滞在は、長くても数日でした」
村の人たちには、私もその一人に見えるのだろう。
お父様の娘で、綺麗な服を着て、初めてこの土地を見に来た。
その通りだった。
北領を知らなかったのは、来るまで必要がなかったからだ。王都の屋敷で暮らし、食卓の皿が足りないと思ったこともない。
「先ほど、困っていることを尋ねましたが」
モーリスが私を見た。
「いきなり答えるのは、難しかったかもしれませんね」
彼は否定しなかった。
私も続きを急がなかった。
帰りは道が上りになり、話すより歩くことに気を取られた。
途中で一度、腰を下ろせる石があり、休ませてもらった。モーリスは少し先で、畑から戻る女性に呼び止められていた。
籠の中の豆を一つ手に取り、彼女の話を聞いている。私の方を見ると、女性は声を落とした。
「聞こえない方がいいお話かしら」
リュシーへ言うと、彼女も二人を見た。
「私には聞こえませんので、分かりません」
私は靴先についた土を、草に擦った。
妹とお母様が二人で話しているときも、近づくと声が小さくなることがあった。聞かなくても分かるつもりでいたけれど、あとで知らない予定を告げられ、頷くことになった。
ここでも、自分に関係がないと決めてしまえば、同じだろうか。
モーリスが戻ってきたところで、尋ねた。
「今の方は、何のお話を?」
「豆を採る手が、明日一人足りなくなるそうです。村の中で頼める人がいないか、と」
「そうですか」
すぐに手伝える人を思いつくわけではなかった。
それでも、声を落とされたからといって、私の悪口とは限らない。話を聞く前に、自分が嫌われたことばかり考えていたのだと気づいた。館に着く頃には、足の裏が痛かった。
リュシーが靴を脱ぐのを手伝いながら、言った。
「明日はこの靴の紐を、もう少し緩めましょう。跡がついています」
「そんなに歩いていないと思ったのだけれど」
「慣れていないですから」
水差しを受け取り、喉を潤した。
歓迎されなかったことを、悲しいと思っていた。
でも、村の人たちは、私に何かを言っても、数日後には王都へ帰るのだと思っている。
それなら、桶を運び、畑の仕事を続ける方が大事だろう。
夕方、モーリスが明日の予定を確認しに来た。
「今日はお疲れでしょう。しばらく館でお休みになられては」
私は窓の外を見た。
下の村へ続く道が、木立の中へ消えている。
「明日は、館の仕事を教えてください」
モーリスが少し眉を動かした。
「どのようなことを」
「まだ、何があるのかも分からないので。いつもなさっていることから」
今日一日歩いても、領主として何かをしたとは言えなかった。
それでも、明日もここで目を覚ます。
ニコにはうまく答えられなかったけれど、そのことから始めようと思った。




