第4話 北領の夜
北領の館に着いたとき、馬車の窓には夕暮れの空が映っていた。
王都を出てから、宿で二度眠った。最後の町を過ぎると道が細くなり、リュシーと二人、何度も座席から浮き上がった。
膝の書類入れを抱え直しているうちに、御者が到着を告げた。
館の前にいたのは、灰色の上着を着た男性だった。五十くらいだろうか。片足を少し引いて、馬車へ歩み寄ってくる。
「管理をお預かりしております、モーリスです」
地面へ降りると、彼は深く頭を下げた。
「オデットです。これから、お世話になります」
「長旅、お疲れでございましょう。お部屋は整えてございます」
彼は私の言葉に答えるより先に、荷物を運ぶ者へ指示を出した。
館は、王都の屋敷よりずっと小さかった。
石造りの壁には蔦が這っている。玄関の敷石は真ん中が窪み、廊下に敷かれた絨毯は、端だけが元の色を残していた。
お父様が以前使っていた狩猟用の館に似ている。
ただ、こちらには磨かれた武具も、客を迎える大きな花瓶もなかった。
「二階の南側をご用意しました」
案内された部屋では、窓辺の小卓に白い花が挿してあった。
寝台の布は繕われているが、清潔だった。窓を開けると、庭の向こうに木立が見える。
「このお花は?」
「妻が庭で摘みました。足りないものは、お申し付けください」
足りないもの。
王都なら、髪を整える鏡がもう少し大きい方がよかった。椅子も、座ると軋んだ。
けれど、旅の間ずっと揺られてきた私は、寝台が動かないだけでほっとしていた。
「今は、大丈夫です。ありがとうございます」
モーリスは一度頷き、夕食の時間を告げて出ていった。
扉が閉まると、リュシーが椅子の座面を押した。
「こちら、脚が緩んでいるようです。今夜は窓の方の椅子を使いましょう」
「直せるかしら」
「明日、伺ってみます」
彼女は椅子を壁際へ寄せた。私が座っていたら、モーリスに別のものを持ってきてもらっていたかもしれない。
窓辺の椅子には、小さな座布団があった。表と裏で布が違う。触れると、綿が片側へ寄っていた。
手で均して座る。窓から入る風が、旅で熱くなった頬に触れた。
「私の部屋は、廊下の向こうだそうです」
リュシーが戸口を指す。
「ご用があれば、呼んでください。こちらには呼び鈴がありませんので」
「夜中にも?」
「必要なら。ですが、できれば寝る前にお願いします」
率直な返事に、少しだけ肩の力が抜けた。
鏡の前で帽子を外すと、髪に埃がついていた。王都を出る朝に整えた形は、もう残っていない。
リュシーが櫛を出してくれた。私は窓辺の椅子に座り、いつものように目を閉じた。
彼女が髪を梳く音だけは、王都と同じだった。
リュシーがトランクを開ける。
「先にお着替えになりましょう。お湯をお願いしてきます」
「一人で全部しなくてもいいのよ」
「まず誰に頼めるか、聞いてきます。私もまだ、分かりませんから」
彼女が戻るまで、窓の外を眺めた。
庭の隅に薪が積まれている。畑の方から籠を持った女性が戻ってきた。やがて玄関の下で話す声がし、台所から何かを炒める音が聞こえた。
馬車が着いても、この館の仕事は続いていた。
夕食の部屋には、四人掛けの卓が一つあった。
私の前へ置かれたのは、野菜の煮込みと、薄く切られた鶏肉、褐色のパンだった。
温かい湯気が上がっている。煮込みには豆がたくさん入っていた。
「お口に合えばよろしいのですが」
給仕をしてくれたのは、モーリスの妻のアンヌだった。私を見て、皿の位置を少し直す。
「旅のあとは、お腹に優しい方がいいかと思いまして」
「ありがとうございます」
鶏肉には、少しだけ香草が添えてあった。
王都の食卓なら、前菜のあとに出る一皿くらいの量だ。次の料理を待ちそうになり、アンヌがもう台所へ戻るところなのを見て、スプーンを取った。
豆は柔らかく、塩気がちょうどよかった。
パンは硬いが、汁に浸すと食べやすい。
リュシーの分も持ってきてほしいと頼むと、アンヌが少し困った顔をした。
「使用人の夕食は、もう用意してございます」
「では、私はそちらで」
戸口にいたリュシーが答えた。
「あとでお部屋へ参りますね」
王都でも、食事は別だった。
一緒に旅をしたので、ここでも隣に座るような気がしていた。私は頷き、残りの煮込みを食べた。
皿を下げるとき、アンヌが尋ねた。
「召し上がれましたか」
「ええ。温かくて、美味しかったです」
彼女は、ようやく少し笑った。
部屋へ戻ってしばらくすると、リュシーが燭台を持ってきた。
「身体を拭くお湯は、このあと持ってきてくださるそうです。湯浴みは明朝でもよろしいですか。到着が遅かったので、今から浴槽の分まで沸かすには、時間が掛かるそうで」
「ええ。今日は、もう眠りたいわ」
リュシーは頷いて、窓掛けを閉めた。
「お食事は、召し上がれましたか。台所で、気にされていました」
「美味しかったわ。そういえば、旅のあとなので、あの献立にしたとおっしゃっていたわね」
「あの鶏は、お嬢様をお迎えするために用意したそうです」
私は彼女を見た。
「私が来たからなの?」
「鶏を用意したのは、久しぶりだとおっしゃっていました」
リュシーは燭台の位置を直しながら続けた。
「私たちの夕食は、豆と野菜の煮込みでした。パンは同じです。明日の分もあるので、鶏は皆で少しずついただくそうです」
足りないと思った皿を思い出した。
あれでも、普段より用意してくれていたのだ。
「何か、言った方がいいかしら」
「何をですか?」
ありがとう、とは言った。
少なくてよい、と言えば、味が気に入らなかったと思われるかもしれない。もっと出してほしいなどとは、もちろん言えない。
「……明日の朝、もう一度お礼を言うわ」
リュシーは頷いた。
モーリスから渡された館の鍵が、小卓に置かれていた。王都では、自分の部屋の鍵さえ侍女に任せていた。
私は鍵を手に取った。
真鍮の表面が、指にひんやり触れる。
台所の燃料も、食事も、この寝台の布も、北領の収入から出ている。来る前に家令から聞いたときには、紙の上の話だった。
今は、鶏肉の薄さや、繕われた布目になって目の前にあった。
「お父様へ、到着のお手紙を書かなくては」
紙を出してもらい、無事に着いたことを記した。
不自由はない、と書こうとして、ペンを止めた。
それはまだ、分からない。
『館の皆様に迎えていただきました。明日は領内を拝見する予定です』
そこまで書いて封をした。
リュシーが寝台の掛布を整える。
「明日は、もう少し道が平らだといいですね」
「館の中なら、馬車ほど揺れないわ」
彼女が笑った。私も、少し笑えた。
灯りを消す前に、窓を細く開けた。
王都の部屋では、夜にも馬車の音がしていた。ここでは、葉の擦れる音がする。遠くで犬が一度吠えた。
寝台に横になると、急に旅の疲れが押し寄せた。
明日の朝食には、何が出るのだろう。
今日は、出してもらうものだけを見ていた。
明日は、台所の方にも行ってみようと思った。




