↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者を譲った私ですが、今度の結婚は譲りません  作者: 黒咲かぐら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/50

第4話 北領の夜

 北領の館に着いたとき、馬車の窓には夕暮れの空が映っていた。


 王都を出てから、宿で二度眠った。最後の町を過ぎると道が細くなり、リュシーと二人、何度も座席から浮き上がった。


 膝の書類入れを抱え直しているうちに、御者が到着を告げた。


 館の前にいたのは、灰色の上着を着た男性だった。五十くらいだろうか。片足を少し引いて、馬車へ歩み寄ってくる。


「管理をお預かりしております、モーリスです」


 地面へ降りると、彼は深く頭を下げた。


「オデットです。これから、お世話になります」

「長旅、お疲れでございましょう。お部屋は整えてございます」


 彼は私の言葉に答えるより先に、荷物を運ぶ者へ指示を出した。


 館は、王都の屋敷よりずっと小さかった。


 石造りの壁には蔦が這っている。玄関の敷石は真ん中が窪み、廊下に敷かれた絨毯は、端だけが元の色を残していた。


 お父様が以前使っていた狩猟用の館に似ている。


 ただ、こちらには磨かれた武具も、客を迎える大きな花瓶もなかった。


「二階の南側をご用意しました」


 案内された部屋では、窓辺の小卓に白い花が挿してあった。


 寝台の布は繕われているが、清潔だった。窓を開けると、庭の向こうに木立が見える。


「このお花は?」

「妻が庭で摘みました。足りないものは、お申し付けください」


 足りないもの。


 王都なら、髪を整える鏡がもう少し大きい方がよかった。椅子も、座ると軋んだ。


 けれど、旅の間ずっと揺られてきた私は、寝台が動かないだけでほっとしていた。


「今は、大丈夫です。ありがとうございます」


 モーリスは一度頷き、夕食の時間を告げて出ていった。


 扉が閉まると、リュシーが椅子の座面を押した。


「こちら、脚が緩んでいるようです。今夜は窓の方の椅子を使いましょう」

「直せるかしら」

「明日、伺ってみます」


 彼女は椅子を壁際へ寄せた。私が座っていたら、モーリスに別のものを持ってきてもらっていたかもしれない。


 窓辺の椅子には、小さな座布団があった。表と裏で布が違う。触れると、綿が片側へ寄っていた。


 手で均して座る。窓から入る風が、旅で熱くなった頬に触れた。


「私の部屋は、廊下の向こうだそうです」


 リュシーが戸口を指す。


「ご用があれば、呼んでください。こちらには呼び鈴がありませんので」

「夜中にも?」

「必要なら。ですが、できれば寝る前にお願いします」


 率直な返事に、少しだけ肩の力が抜けた。


 鏡の前で帽子を外すと、髪に埃がついていた。王都を出る朝に整えた形は、もう残っていない。


 リュシーが櫛を出してくれた。私は窓辺の椅子に座り、いつものように目を閉じた。


 彼女が髪を梳く音だけは、王都と同じだった。


 リュシーがトランクを開ける。


「先にお着替えになりましょう。お湯をお願いしてきます」

「一人で全部しなくてもいいのよ」

「まず誰に頼めるか、聞いてきます。私もまだ、分かりませんから」


 彼女が戻るまで、窓の外を眺めた。


 庭の隅に薪が積まれている。畑の方から籠を持った女性が戻ってきた。やがて玄関の下で話す声がし、台所から何かを炒める音が聞こえた。


 馬車が着いても、この館の仕事は続いていた。


 夕食の部屋には、四人掛けの卓が一つあった。


 私の前へ置かれたのは、野菜の煮込みと、薄く切られた鶏肉、褐色のパンだった。


 温かい湯気が上がっている。煮込みには豆がたくさん入っていた。


「お口に合えばよろしいのですが」


 給仕をしてくれたのは、モーリスの妻のアンヌだった。私を見て、皿の位置を少し直す。


「旅のあとは、お腹に優しい方がいいかと思いまして」

「ありがとうございます」


 鶏肉には、少しだけ香草が添えてあった。


 王都の食卓なら、前菜のあとに出る一皿くらいの量だ。次の料理を待ちそうになり、アンヌがもう台所へ戻るところなのを見て、スプーンを取った。


 豆は柔らかく、塩気がちょうどよかった。


 パンは硬いが、汁に浸すと食べやすい。


 リュシーの分も持ってきてほしいと頼むと、アンヌが少し困った顔をした。


「使用人の夕食は、もう用意してございます」

「では、私はそちらで」


 戸口にいたリュシーが答えた。


「あとでお部屋へ参りますね」


 王都でも、食事は別だった。


 一緒に旅をしたので、ここでも隣に座るような気がしていた。私は頷き、残りの煮込みを食べた。


 皿を下げるとき、アンヌが尋ねた。


「召し上がれましたか」

「ええ。温かくて、美味しかったです」


 彼女は、ようやく少し笑った。


 部屋へ戻ってしばらくすると、リュシーが燭台を持ってきた。


「身体を拭くお湯は、このあと持ってきてくださるそうです。湯浴みは明朝でもよろしいですか。到着が遅かったので、今から浴槽の分まで沸かすには、時間が掛かるそうで」

「ええ。今日は、もう眠りたいわ」


 リュシーは頷いて、窓掛けを閉めた。


「お食事は、召し上がれましたか。台所で、気にされていました」

「美味しかったわ。そういえば、旅のあとなので、あの献立にしたとおっしゃっていたわね」

「あの鶏は、お嬢様をお迎えするために用意したそうです」


 私は彼女を見た。


「私が来たからなの?」

「鶏を用意したのは、久しぶりだとおっしゃっていました」


 リュシーは燭台の位置を直しながら続けた。


「私たちの夕食は、豆と野菜の煮込みでした。パンは同じです。明日の分もあるので、鶏は皆で少しずついただくそうです」


 足りないと思った皿を思い出した。


 あれでも、普段より用意してくれていたのだ。


「何か、言った方がいいかしら」

「何をですか?」


 ありがとう、とは言った。


 少なくてよい、と言えば、味が気に入らなかったと思われるかもしれない。もっと出してほしいなどとは、もちろん言えない。


「……明日の朝、もう一度お礼を言うわ」


 リュシーは頷いた。


 モーリスから渡された館の鍵が、小卓に置かれていた。王都では、自分の部屋の鍵さえ侍女に任せていた。


 私は鍵を手に取った。


 真鍮の表面が、指にひんやり触れる。


 台所の燃料も、食事も、この寝台の布も、北領の収入から出ている。来る前に家令から聞いたときには、紙の上の話だった。


 今は、鶏肉の薄さや、繕われた布目になって目の前にあった。


「お父様へ、到着のお手紙を書かなくては」


 紙を出してもらい、無事に着いたことを記した。


 不自由はない、と書こうとして、ペンを止めた。


 それはまだ、分からない。


『館の皆様に迎えていただきました。明日は領内を拝見する予定です』


 そこまで書いて封をした。


 リュシーが寝台の掛布を整える。


「明日は、もう少し道が平らだといいですね」

「館の中なら、馬車ほど揺れないわ」


 彼女が笑った。私も、少し笑えた。


 灯りを消す前に、窓を細く開けた。


 王都の部屋では、夜にも馬車の音がしていた。ここでは、葉の擦れる音がする。遠くで犬が一度吠えた。


 寝台に横になると、急に旅の疲れが押し寄せた。


 明日の朝食には、何が出るのだろう。


 今日は、出してもらうものだけを見ていた。


 明日は、台所の方にも行ってみようと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。