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妹に婚約者を譲った私ですが、今度の結婚は譲りません  作者: 黒咲かぐら


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第3話 北へ行く馬車

 家令が持ってきた北領の資料は、薄かった。


 館の部屋数と、畑、林、二つの集落。管理人の名前はモーリス。冬に雪が積もり、王都への道は天候によってさらに日数が掛かるという。


「館には現在、管理人夫妻と使用人が二名おります。お嬢様が生活されるなら、身の回りをお世話する者は、こちらからお連れになる必要があります」


 私は隣にいるリュシーを見た。


 彼女を連れていくつもりでいたことに、そのとき気づいた。


「リュシー。あとで、話してもいい?」

「はい」


 家令の説明は続いた。


 収入の多くは館の維持や管理人たちの給金に使われ、残りは少ない。私の質素な生活と、侍女一人の給金までは賄えるという。けれど、大きな修繕をすれば余裕はなくなる。本家へまとまった金を送れるほどではなかった。


「これまで大きな修繕は、必要が生じた都度、本家へ申請しております。譲渡後は、その判断もお嬢様にしていただくことになります」

「私が、ですか」

「はい。所有されるのであれば」


 紙の上の館を指でなぞった。


 静かに暮らす場所が欲しかった。


 けれど、そこには既に暮らしている人がいて、私が行かなくても給金が要る。屋根が壊れれば誰かが困る。


「知らないことは、管理人に聞いてもいいのでしょうか」

「現地のことなら、彼が最もよく知っております」


 私は資料を借り、一晩読んだ。


 数字を見ても、どれくらいの暮らしになるかは想像できなかった。分かったのは、北領を持つことが、別邸の一室を使うこととは違うということだった。


 翌朝、リュシーに尋ねた。


「北へ一緒に来てくれる? 今までと同じようには暮らせないと思うの。仕事も増えるかもしれない」


 彼女は少し目を丸くしてから、私の寝台に畳んだ服を置いた。


「私は、お嬢様付きですから」

「でも、王都を離れることになるわ」


 リュシーには王都で働く姉がいる。休みの日に会いにいくことも知っていた。


「一度、姉に話す時間をいただけますか」

「もちろん」


 その晩、彼女は行きますと答えてくれた。


「姉には、手紙を寄越しなさいと言われました。給金がどうなるかは、家令様に確認いたしました」


 私も家令に聞かなければならなかった。彼女の給金は、出発後、北領の収入から払う。


「ありがとう」

「冬の服だけは、こちらで用意していきましょう。北で探しても、すぐ揃うとは限りませんから」


 私は頷いた。


 次にお父様の書斎へ呼ばれたのは、四日後だった。


 机には二組の書類が置かれていた。家令のほか、領地の移転手続きを扱う登録官が座っている。侯爵家からは家令が訪れていた。


 アラン様も、妹もいた。


 今日は二人の間を見ないようにした。


「北領への譲渡について、条件を確認する」


 お父様が一組目を私へ寄せた。


「館と付属地を含め、記載された土地をお前個人へ渡す。収入はお前に帰属する。その代わり、本家から毎年の生活費は出さない。管理と維持もお前の責任だ」


 私は読みながら頷いた。


 家令が先に用意してくれた写しと、同じ内容だった。出発の費用と最初の生活に必要な品は、本家が用意する。そのあとを、私は北で考えなければならない。


 登録官が私へ向き直った。


「十七歳からは、財産の契約も、婚約や婚姻も、ご自身の意思で結べます。親御様の承認を成立の条件とはいたしません。譲渡後は、この土地の管理や雇用についても、オデット様が契約の当事者になります」


 私は頷いた。リュシーの給金も、館の修繕も、私が確かめて決めることになる。


 登録官が一か所を示した。


「この譲渡には、返還期限も買戻しの条項もございません。また、将来ご婚姻されても、婚姻だけを理由に配偶者の所有へ変わるものではありません」


 貴族の娘として、婚姻のあと財産をどう扱うかの話は習っていた。けれど、今、その説明を受けているのは、私自身の土地だった。


 書類を指で押さえ、返還を求める権利を本家に残さないことも、もう一度確かめた。


 お父様が言った。


「承知している。半端な貸与にして、本家へ管理費の申請が続く方が面倒だ。譲渡でよい」


 登録官が頷き、もう一組を机へ並べた。


 私とアラン様の婚約を解消し、アラン様とフィオナが正式に婚約するための書面だった。


 侯爵家の家令が、お父様と私を交互に見た。


「正式な婚約も、その解消も、ご本人の同意なしには進められません。当家としては、今回の変更を繰り返すことは望んでおりません。当人方の意思に加え、贈り物の返却や両家で引き受けた支度についても合意を整え、今日の手続きを迎えております」


 アラン様の顔が硬くなった。


「分かっています」


 妹も頷いた。


 家令は私へ向き直った。


「オデット様。この書面は、以前のお返事にかかわらず、今日のご意思でお確かめください」


 机の上には、まだ誰の署名もなかった。


 私はお父様を見た。


「土地の譲渡も、今日、成立するのでしょうか」

「そうだ。こちらの希望で婚約を変えるのだから、お前の処遇も同じ日に整える。先方にも、そのように話してある」


 お父様は登録官へ目を向けた。


 登録官が、両方の署名を確認し、ここで一緒に手続きを完了すると説明した。


 どちらかだけを先に終わらせるのではない。そのことを確かめ、私はもう一度、北領の書面を読んだ。


「そちらで暮らすことを、望みます」


 お父様がペンを取った。


 私も、そのあとに名前を書いた。


 婚約の書面へ移ると、アラン様がこちらを見た。


「君には、悪いことをしたと思っている」


 何と答えればよいのか、分からなかった。


 気にしないでください、と言えば、話は早く終わる。


 けれど、今日はそれを言えなかった。


「婚約の解消に、同意いたします」


 私は書面に視線を戻した。


 ペン先が紙に引っ掛かり、名前の最後が少し太くなった。


 署名が揃うと、登録官が書類を確かめ、日付を記した。侯爵家の家令も写しを受け取る。署名と登録の済んだ北領の譲渡契約書の一通は、私へ渡された。


 薄い紙なのに、持った手が重かった。


「お姉様」


 妹が声を掛けた。


「そんな遠くへ行かなくても、よかったのに。お部屋は、そのままにしておくわね」


 私は頷いた。


 妹は私が戻ると思っている。私も、戻らないと言えるほど、北の暮らしを知ってはいなかった。


 ただ、次の縁談の日まで別邸で待つことは、選ばなかった。


 出発は三日後の朝だった。


 トランクは二つ。リュシーが荷造りをやり直してくれなければ、使わないドレスばかり詰めていたと思う。


 アラン様の手紙は、王都の机に残した。


 緑のドレスは迷って、持っていく方へ入れた。まだ一度も着ていない服まで、置いていく必要はない気がした。


 玄関でお母様に抱き寄せられた。


「無理をしてはいけませんよ。困ったらお父様に手紙を書きなさい」

「はい」

「フィオナの式には戻ってくるでしょう? あなたがいないと、支度のことも困るわ」


 その日はまだ決まっていなかった。


「日程が決まりましたら、知らせてください」


 お母様は少し不思議そうな顔をして、ええと言った。


 お父様は馬車の横に立っていた。


「管理人には知らせてある。着いたら報告を寄越せ」

「承知しました」

「次の縁談についても、いずれ連絡する。北へ行けば何もかも終わると思うなよ」


 私は返事をした。


 胸が縮んだが、それでも馬車へ乗った。


 リュシーが隣に座る。向かいの座席には毛布と小さな籠が置かれていた。道中の宿は家令が手配してくれている。


 門を出るとき、妹が手を振った。


 私も振り返した。屋敷が角の向こうに隠れるまで、窓の方を向いていた。


「窓を閉めましょうか」


 リュシーに言われて、顔を戻した。


 膝の上には、契約書を収めた革の書類入れがある。


 北には、私を待っている館がある。


 私を歓迎してくれる人がいるかは、分からない。


 暮らせるのかも、役目を果たせるのかも、まだ分からなかった。


「もう少し、開けていて」


 私はそう頼んだ。


 馬車が王都の門を抜けた。建物が途切れ、畑の向こうまで空が見える。


 行き先は、私が願った場所だった。


 風で髪が乱れても、しばらく、そのまま外を見ていた。


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