第2話 私が欲しいもの
翌朝、食卓に妹はいなかった。
「昨日のことで気を張っていたのでしょう。まだ眠っているの」
お母様はそう言って、ジャムの小皿を手元に寄せた。
私の好きな杏だった。パンを取ろうとしたとき、お母様が給仕へ、フィオナの分を残しておいて、と言った。
手を止めるほどのことではない。いつものことだ。
私は皿に置かれたバターを塗った。
「お前についても、いつまでもこのままにはしておけない」
お父様が新聞を畳んだ。
向かいの椅子に、アラン様はいない。当然だった。朝食をご一緒することはほとんどなかったのに、昨日から、いない場所にまで気づいてしまう。
「次の縁談を考えている。まだ先方へ申し入れてはいないが、候補はある」
「もう、ですか」
思わず口にすると、お父様が私を見た。
「お前は十七だ。侯爵家との話がなくなった以上、改めて考える必要がある。しばらく休ませるが、無駄に長引かせるつもりはない」
お母様が頷いた。
「次は、もっと落ち着いた方がいいかもしれないわね。あなたは静かだもの」
私は膝の上で、ナプキンの端を折った。
アラン様と会う日のために覚えたことが、頭に浮かんだ。侯爵家の親戚の名前。好まれる茶葉。領内で作られる織物の柄。
今度は、別の家について覚えるのだろう。
「顔合わせまでに気持ちを整えておきなさい。先方に今回の事情を説明するのは、こちらでやる」
「はい」
食事を終えて部屋へ戻ると、リュシーが緑のドレスを片づけていた。
「こちらは、奥へしまってもよろしいですか」
「ええ」
彼女は布を掛け、衣装戸棚を閉めた。
「お父様が、次の縁談をお考えなんですって」
リュシーは戸棚の取っ手から手を離した。
「お嬢様は、どうなさりたいですか」
「どう、というのは?」
「次の方に、お会いになりたいですか」
答えられなかった。
嫌だと言うには、まだ誰かも知らない。会いたいと言える理由もなかった。
「分からないわ」
「そうですか」
彼女は窓辺の花瓶を持ち上げた。水を替えるつもりらしい。
「リュシーなら、どうする?」
「私ですか?」
少し考えてから、彼女は困った顔をした。
「お相手を知らないので、決められません。私は、知らない方と暮らすのは怖いですけれど」
怖い。
その言葉は、私にも分かった。
「前の方のお話が終わったばかりなら、すぐ次のお話を聞くのも、私は嫌です」
リュシーはそう言い、言い過ぎたと思ったのか、花瓶を抱え直した。
「申し訳ありません。私の話になりました」
「いいの」
私の話ではないから、聞けたのかもしれない。
窓の外で、妹の声がした。庭へ出てきたらしい。誰かに、青い花をもっと切ってほしいと言っている。
昨日の指輪も青かった。
私は窓から離れた。
「……少し、ここを離れたいわ」
リュシーがこちらを見た。
口にしてしまうと、ひどいことを言った気がした。
「誰かが嫌だからではなくて」
続けようとして、言葉が出なくなる。
妹の声を聞きたくなかった。お母様に、妹は幸せそうだと話されたくなかった。今度の相手について、よかったわねと言われるのも怖かった。
誰かが嫌ではない、とは言えない。
「ここにいると、次の話が始まってしまうの」
リュシーは黙って聞いていた。
彼女は逃げた方がいいとも、残った方がいいとも言わなかった。
私は椅子に座り直した。机の上には、今月の予定が記された手帳がある。侯爵夫人への訪問。礼法の授業。衣装の仮縫い。
いくつかは、もうなくなる。
その空いたところに、自分で何かを書けたらと思った。
午後、お父様の書斎を訪ねた。
用件を聞かれたあとも、しばらく扉の近くから動けなかった。
「何だ。具合でも悪いのか」
「いえ。お願いがございます」
お父様は読んでいた書類を伏せた。
「申してみなさい」
「しばらく、王都を離れさせていただけませんか」
言い終えると、手の中のハンカチが湿っていた。
「静養したいということか」
「……はい。少し、落ち着いて暮らしたくて」
「南の別邸なら、夏の終わりまで使える」
家族で何度も訪れた別邸だった。妹は毎年、湖で舟に乗りたいと言う。夏にはお母様の客も来る。
私が先に行けば、皆が来る前に部屋を整えることになるだろう。
「別邸ではなく、私が暮らす場所をいただくことは、できませんか」
お父様の目が細くなった。
「暮らす場所?」
「小さくても構いません。土地と、住める家を」
「土地を持って、どうする」
答えは用意できていなかった。
領地を持てば自由になるなどと、誰かに教えられたわけではない。ただ、別邸では、滞在を許されているだけだと思った。
「自分の暮らすところを、自分で持ちたいのです」
声が小さくなった。お父様は聞き返さなかった。
「お前は領地の管理をしたことがない」
「はい」
「費用も掛かる。家を与えれば終わる話ではないぞ」
「はい。分かっていないことが多いと思います」
お父様は椅子の背にもたれた。
廊下で時計が鳴った。いつもなら、お仕事の邪魔をして申し訳ありませんと、ここで話を切り上げる。
机の脇に置かれた呼び鈴を見て、足を引きかけた。けれど、部屋へ戻れば、また窓の下から妹の声が聞こえる。翌朝には、お母様が次のお相手の話をするかもしれない。
それを思うと、扉の方へ向けた足を動かせなかった。
お父様はまだ、出ていけとはおっしゃっていない。私はハンカチを握り直して、立っていた。
私は壁の地図を見た。伯爵家の土地は、同じ色で塗られている。王都に近い丘の領地には、親戚の家があった。畑と町が近く、幼い頃に遊んだこともある。
「ベルセの土地は……」
「駄目だ」
言い終える前に、答えが返ってきた。
「あそこは本家の収入を支える土地だ。まとまった領地を割く理由がない」
「失礼いたしました」
諦めてお辞儀をしかけると、お父様が待てと言った。
「北なら、考えられる」
地図の端に、小さな飛び地があった。
「ロシュの北領ですか」
「あそこには館がある。管理人もいる。お前と侍女一人が質素に暮らす程度の収入はあるが、本家から人を往復させるだけで費用を食う。隣領との調整も面倒だ」
訪れたことはなかった。
冬の報告書が届くたび、お父様が顔をしかめていたことだけ知っている。
「王都まで、一日では着かないぞ。お前が南の別邸と同じ暮らしを望んでいるなら、やめておけ」
遠い。
そのことに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「そちらを、いただけるのでしょうか」
「話を聞いてから決めろ。家令に資料を出させる」
お父様は机の封書に目を落とした。侯爵家の紋章が見えた。
「婚約変更の書面も、まだ整っていない。土地の処置を含め、先方へ余計な誤解を与えない形にする必要がある」
私は頷いた。
書斎を出るとき、いつものように、何でも構いませんとは言わなかった。
北の土地がどんな場所なのか、まだ知らない。
それでも、部屋へ戻ってリュシーに伝えた。
「地図を、一緒に見てもらえる?」




