第1話 今度も、妹に
「オデットとの婚約を解消して、フィオナと結婚したい」
アラン様は私を見て、そうおっしゃった。
お父様の書斎に呼ばれたときから、何かあるのだとは思っていた。いつもはお母様の隣に座る妹が、今日はアラン様の隣にいる。二人の間には、もう一人が座る余地がなかった。
私だけが、机を挟んで立っていた。
「フィオナも、同じ気持ちなの?」
「……ごめんなさい、お姉様」
妹は膝の上で両手を重ねた。白い指に、見覚えのある青い石の指輪が光っていた。
アラン様のお母様が、いずれ私にと話していたものだ。
まだ受け取っていなかった。だから、私のものではない。
そう考えてから、私は妹の顔に視線を戻した。
「いつから?」
声が思ったより細くなった。
妹が答える前に、アラン様が口を開いた。
「昨冬、君が風邪で舞踏会を欠席しただろう。あのときから、何度か話すようになった」
あの夜、妹の支度を手伝ったことを覚えている。私が着るはずだった薄青のドレスは、妹には少し長くて、侍女が裾を仮縫いしていた。
楽しんできてね、と言った。
帰ってきた妹は頬を赤くして、ずっと踊っていたのだと話した。誰と、とは尋ねなかった。
「先に君へ話すべきだった。それは分かっている」
アラン様は机の端を見た。
「ただ、君との結婚について話しても、いつも、承知しましたと言うだけだった。君が本当はどう思っているのか、僕には分からなかったんだ」
分からなかったのは、私も同じだった。
婚約が決まったのは十三のときだった。お父様に尋ねられて、私も頷いた。断るという選択があるとは考えなかったけれど、望まないとも思っていなかった。
それから四年、侯爵家に伺う日は決められていた。お茶を飲み、近況を話し、言われた本を読んだ。結婚するのだから、きちんとしなければと思っていた。
会いたくないわけではなかった。
次の約束をもらえれば嬉しかったし、帰りの馬車では、もっと上手に話せたはずだと後悔した。
けれど、それを本人に言ったことはない。
「フィオナは、僕が来るのを楽しみにしてくれる」
妹がアラン様を見上げた。彼はその目を見てから、ようやく私の方へ向き直った。
「彼女となら、互いの気持ちを確かめながら暮らせると思う」
お父様が机の上の封書を指で押さえた。
「アラン殿からの申し出を受け、先方の侯爵とも話した。あちらは最初、婚約相手を変えるなど認められないと言っていた」
封蝋には、私が何度も手紙に見てきた紋章があった。
「だが、両家の縁をなくすより、妹との婚姻で保つ方がよい。アラン殿の意思は変わらず、フィオナも望んでいる。お前が同意するなら、今回に限り変更を認めるという返事だ」
「侯爵様は、ご存じなのですね」
「当然だ。二人の気持ちだけで決められる話ではない」
私の気持ちだけでも、決められない。
机の向こうにはお父様がいて、その横にはお母様がいる。妹の隣にはアラン様がいた。
私がここで嫌だと言えば、皆が困るのだろう。
アラン様の訪問日が近づくと、何を話すか紙に書いていた。先月は庭の薔薇のことを書いたのに、彼が妹の新しい刺繍を褒めたので、結局話さなかった。
あのとき、私にも見てほしいものがあると言えばよかったのだろうか。
それとも、言ったところで、今日の話は変わらなかったのだろうか。
目の前の彼に尋ねる勇気はなかった。妹の指輪に触れそうになった彼の手が、途中で膝へ戻るのを見てしまったから。
「オデット」
お母様は困ったように眉を下げた。
「あなたが悪いということではないのよ。相性というものがあるでしょう。無理に結婚したって、二人とも幸せになれないわ」
お母様の言う二人には、私とアラン様が入っている。さっきから二人と言えば、妹と彼のことばかり考えていた。
「フィオナは、昨夜も眠れなかったの。あなたを傷つけたくないって」
「お母様」
妹が小さく制した。涙がまつげに溜まっている。
泣かれると、何か言わなければならない気がした。
幼い頃もそうだった。妹が欲しいと言った絵本。先に選んだリボン。庭で使う小さな椅子。私が手を放せば、妹は笑い、お母様は優しい子ねと言ってくれた。
でも、目の前の人は絵本ではない。
アラン様は自分で妹を選び、私に別れてほしいと話している。
引き留めて、そのあと、どんな顔で隣に座ればいいのだろう。
「……分かりました」
口にすると、書斎の空気が緩んだ。
妹が息を吐いた。アラン様の肩がわずかに下がり、お母様が私へ微笑んだ。
「ありがとう、オデット」
お父様だけは微笑まなかった。
「正式な解消と変更には、当人の署名が要る。書面は両家で整えてからだ。今日はその意思を確認した」
私は頷いた。
今ここで名前を書かずに済むことに、ほっとしていた。ペンを握っても、指がうまく動かない気がしたから。
「お姉様、本当にごめんなさい」
妹が立ち上がった。
そばへ来ると思ったが、アラン様が彼女の袖に触れると、そこで足を止めた。
「怒っている?」
私は答えを探した。
怒っている、と言えば、妹はまた泣くだろう。怒っていないと言うには、胸の内側にあるものが邪魔をした。
「今日は、少し疲れたの」
それだけ言うと、お母様が頷いた。
「ええ。休みなさい。式までまだ時間があるのだから、落ち着いて考えればいいわ」
誰の式なのかは、尋ねなかった。
お辞儀をして、書斎を出た。
廊下の窓は開いていた。庭師が刈った枝葉の匂いがする。晩春の日差しに照らされた床を、いつもよりゆっくり歩いた。
部屋の前に、侍女のリュシーがいた。
「お茶をお持ちしましょうか」
「お願い」
彼女は何も尋ねず、扉を開けてくれた。
机の引き出しには、アラン様からの手紙がしまってある。どれも短く、次の訪問日か、読んでほしい本の名が書かれていた。
最初の一通だけ、結びに、あなたとお話しできる日を楽しみにしています、とあった。
そのときの私は、何と返したのだろう。
手紙を取り出しかけて、引き出しを閉めた。
リュシーがお茶を置く。湯気の向こうに、彼女の袖口が見えた。私より四つ年上の彼女は、普段なら茶菓子を食べなければもったいないと言う。今日は皿を私の手元へ寄せるだけだった。
「アラン様は、フィオナと結婚なさるそうよ」
彼女の手が止まった。
「私は、分かりましたと言ったの」
「……そうでしたか」
慰めを言われなかったことが、ありがたかった。
妹の方が可愛らしい。素直に笑い、好きなものを好きと言える。私にも、二人が並んでいる姿は似合って見えた。
そうリュシーに話そうとして、やめた。
今は、妹を褒めたくなかった。
お茶に口をつけたが、味が分からない。
カップを戻した拍子に、受け皿が小さく鳴った。
「少し、一人にしてもらっていい?」
「はい。隣におります」
扉が閉まってから、私は机の前に座った。
次の訪問日に着るつもりだったドレスが、衣装掛けにある。アラン様が以前、緑が似合うと言ってくださったので、仕立て直したばかりだった。
もう着ていく必要はない。
それを見ているうちに、一粒だけ涙が落ちた。
妹に渡したものを、返してほしいと言ったことはなかった。
今回も、そうするのだと思っていた。
けれど、誰もいない部屋で、私はしばらく顔を上げられなかった。




