第42話 好きです
フェルナン様は、自分のカップも卓へ置いた。
窓には、庭の木の影が映っていた。外の風が枝を揺らしているが、直した窓からは冷たい空気が入らない。
私は彼を見た。
「私も、あなたに会いたいと思っていました」
彼が言った。
「北領へ来る用事がない日にも、今なら何をしているだろうと考えることがあります。道を見て戻ったあと、あなたから手紙が届いて、嬉しかった」
私は膝の上の指をほどいた。
私の手紙を、彼も嬉しいと思ってくれた。
「前に、もっと親しくなりたいとお伝えしました。その気持ちは、変わっていません」
フェルナン様は少し間を置いた。
「今は、もう少し、はっきりお伝えしたいです」
私は頷いた。
「あなたが好きです。仕事で会う相手としてだけでなく、私自身が、あなたと一緒にいたいと思っています」
好き。
耳に入った言葉を、すぐには返せなかった。
彼と話すのが好きだと、自分では言ったことがある。
でも、その人を好きだと言うのは、まだ違うところにあった。
「……私を、ですか」
聞き返すと、彼は頷いた。
「はい」
冗談のように軽く言い直してくれることも、聞かなかったことにしてくれることもなかった。
私は彼の顔を見たまま、息をついた。
「うまく答えられるか、分かりません」
「急に、整った言葉にする必要はありません」
私は頷き、少し考えた。
彼が北領へ初めて来たときには、王都へ戻る馬車を調べましょうかと聞かれた。
私は、ここで暮らすつもりだと答えた。
あの頃の彼は、私を特別な人として見ていなかっただろう。
私も、隣の家から仕事で来る人だと思っていた。
それから、水路の話を聞いてもらい、商人を紹介してもらった。私が何もかも知らないことを、隠さずに話せた。
祭りでは針入れを選び、何も当たらなかった輪投げを笑った。
仕事で間違いをしないように話すだけではない時間が、少しずつ増えた。
彼が家へ戻って相談すると言ったこともあった。北領で何でも決められる人ではなく、兄へ報告し、予定を変えられない日もある。
私が会いたいと言っても、すぐに来る人ではない。その人の四日後を、私は待っていた。
「お仕事から戻られたと聞いて、どんなところへ行かれたのか、知りたかったです。疲れていないかも、気になりました」
私は彼へ言った。
「何かしていただきたいことがなくても、お顔を見たいと思いました」
フェルナン様は、小さく頷いた。
「そのお手紙をいただいて、次は私からも、用事がなくても伺いたいとお伝えしようと思いました」
私は少し笑った。
「そうしてくださると、嬉しいです」
彼が私を助けるために来る時間だけを、待っていたわけではなかった。私も、彼が話したいことを聞ける人になりたかった。
「私も、あなたが来られる日を待っていました」
私は言った。
「前は、話したいことがあるからだと思っていました。でも、今日も、何を話すかより先に、会いたいと思ったのです」
フェルナン様は黙って聞いていた。
私は息を吸った。
「私も、フェルナン様が好きです」
言えたあと、身体が少し熱くなった。
顔を伏せたくなったけれど、彼がどんな顔をするのか見たかった。
フェルナン様は笑った。
いつも挨拶をするときの笑みより、息をついて、安心したように見えた。
「ありがとうございます」
私は首を振りかけ、やめた。
お礼を言われるほどのことではないと、消してしまいたくなかった。
私も嬉しいと答えた。
少しの間、二人とも黙った。
隣室から、布を動かす小さな音がした。リュシーが縫い物を続けている。
私は卓の上のカップを見た。
昔の婚約では、相手の名を聞いたあと、会う日と、教わることが決まった。
今は、好きだと答えたあとに、自分から話したいことがあった。
「私も、結婚のことを考えたいです。でも、その返事は、暮らし方をお話ししてからにしたいと思います」
フェルナン様は頷いた。
「はい。今日、結婚まで決めていただくつもりでお伝えしたのではありません。まず、私の気持ちを知ってほしかったのです」
私は息をついた。
彼を好きだという返事を、先の約束までできるか分からないからと引っ込めずに済んだ。
「北領のことも、お仕事のことも。お互いに、確かめたいことがありますね」
「ええ。その話も、あなたとしたいです」
私はもう一度頷いた。
これからの暮らしについても、彼と話していきたかった。
彼は少し身体を起こし、私の手へ目を向けた。
「手を取っても、よいですか」
私は自分の手を見た。
膝の上で、指がまた重なっていた。
「はい」
返事をして、片方を差し出した。
彼は隣の椅子へ移ってよいか確かめ、私が頷くと、卓の角を回った。触れる前に、もう一度私の顔を見た。
私は手を引かなかった。
彼の手が、私の指を包んだ。
地図へ伸ばすところを、何度も見てきた手だった。いまは私へ差し出され、私の指に触れている。
私も少し指を曲げた。
彼が、冷えていませんかと聞いたので、私は、もう温かいですと答えた。
言ってから、少し笑った。
彼も笑い、握る力を強めずに、手を重ねたままでいた。
私は重ねた手へ目を落とした。
「こんなふうに、手を取っていただくのは、少し緊張します」
言うと、フェルナン様が私を見た。
「離しましょうか」
「いいえ。もう少し、このままがよいです」
私は答えた。
彼は頷き、手を動かさなかった。
触れてもよいかを尋ねられる前には、どう返事をするか決めていなかった。触れたあとにも、離したいか、このままがよいかを話せる。
私は彼の手袋が卓へ置いてあるのを見た。玄関で外して、部屋まで持ってきたものだった。
帰るときには、またその手へはめるのだろう。
その前に、自分からもう少しと言えたことが嬉しかった。
窓の外で、枝がまた揺れた。
この部屋に私が残ったことと、彼を好きになったことは、同じ日に決まったものではない。
けれど、北領で暮らしてきた時間の先に、今、彼の隣へ座っている私がいた。
帰る時刻を確かめると、まだ少し余裕があった。
私はもう一杯、お茶をお願いした。
リュシーが入ってきて、空のカップを取り替えた。彼が隣へ移っていることには何も言わず、湯が熱いのでお気をつけくださいと伝えた。
手を離してカップを取ったあとも、隣の椅子は空かない。
私は、次に会える日を尋ねた。
彼は手帳を出し、仕事の予定を確かめた。
もう少し寒くなる前に、また会おうと話した。二人の予定が合う日を決めるのに、今日は、前より迷わなかった。




