第39話 これは私のもの
朝、応接室へ入ると、お父様はもう座っていた。
私は契約書を持ち、向かいの椅子へ座った。
モーリスがお茶を置き、下がろうとしたので、少し待っていてくださいと頼んだ。お父様へも、北領の管理に関わる話なので、一緒に聞いてもらいたいと伝えた。
父は私の手元を見てから、頷いた。
「一晩、考えたか」
「はい」
「ベルセへ行って、説明を聞く気にはなったのか」
私は紙を膝へ置いたまま、首を振った。
「北領との交換は、お受けしません」
父はカップを置いた。
「お前が暮らすための土地は、別に用意すると言っている。北領を戻せば、本家でできることがある。お前も、この家の娘だろう」
その言葉を聞くと、肩に力が入った。
お前のためだと言われて、昨日は返事をした。
家のためだと言われると、私だけの望みで断ってはいけない気がした。
「家の利益を考えず、気に入ったから手放さないというのでは、困る」
父の声は大きくなかった。
「北領を本家へ戻しなさい。ベルセを望まないなら、ほかの暮らし方も相談する」
私は、膝の紙を見た。
北へ来るとき、自分の暮らす場所を持ちたいと言った。
借りている館なら、出ていくように言われれば、出ていかなければならない。だから、土地を譲り受けた。
その書面を持っていても、父の声を聞けば頷きたくなる。
私は紙を机へ置いた。
「いいえ」
父がこちらを見た。
「北領は、私のものです。本家へ戻すことには、同意しません」
言い終えたあと、指が少し震えた。
父へ、こんなふうに答えたことはなかった。
私は契約書を開いた。
土地の範囲と、館。収入と、管理の責任。名前を記す前に、私にも確かめてもらった内容だった。
「お父様も、この条件で譲ると署名してくださいました。私は、ここで暮らすために受け取りました」
父は紙へ目を落とした。
譲渡の範囲は、館だけではない。北領の土地と、そこから受け取る収入も、私へ移すと書かれている。期限を定めて預かったものではなかった。
私は署名のある頁を示した。
「本家の都合で買い戻せるという条件も、ついていません。別の土地をいただく約束と引き換えに、今の北領を戻すかどうかは、私が返事をすることです」
声を急がずに出した。
この文を作ったのは、私だけではない。お父様が家令へ整えさせ、説明を受けたあと、双方で名を記した。
そのときは、父が与えてくださったという気持ちの方が強かった。今も、その事実は変わらない。
けれど、受け取ったあとまで、父が使い方を決めるとは書かれていなかった。
「それは承知している。だから、交換を提案した」
「はい。ですから、私が望まないまま、戻すことにはできません」
モーリスは椅子の後ろで黙っていた。
父が契約書を取り上げ、署名のある頁を見た。
何が書かれているか、今初めて知ったわけではない。私は、父が紙を読む間も、膝の上の手をほどかなかった。
「お前は、本家の考えを断るのだな」
「この土地を戻すことについては、お断りします」
私は答えた。
もう家族ではないと言いたいのではない。これから何を頼まれても断ると決めたわけでもない。
でも、家族だからという言葉で、今回の返事を変えたくなかった。
「こちらの収入で、生活と管理を続けます。分からないことは、北領の人や、必要な方へ相談します」
モーリスが、はいと答えた。
父は彼へ目を向けたが、私の返事を取り消すようには求めなかった。
契約書が、机へ戻された。
「今回の交換の話は、取り下げる」
父は、昨日の荷の計画も手元へ寄せた。
「こちらを本家の土地として使う案も、進められない。家令には、町の倉を借りる方で見積もりを取り直させる」
紙の端に記された費用へ、父の目が止まった。
「お前に渡さずにおけば、要らなかった相談だ」
私は膝の上の指を握った。ではお貸ししますと、言いそうになった。
「譲る範囲を確かめた上で、お父様がお決めになったことです」
声を出すと、父が顔を上げた。
「私は、北領で暮らすとお伝えしました」
父は何も答えず、荷の計画を裏返した。
私がベルセへ移れば使えると見込んでいた場所を、父は持ち帰る紙の中へ戻した。
私はすぐには手を伸ばせなかった。
父は、ベルセの図も畳んだ。
「本家へ戻す書面を作らせることもない。お前が選んだ管理だ。後で、思っていた暮らしと違うとは言うな」
私は息を吸った。
「困ることがあれば、考えます。それでも、今は北領を選びます」
言えた言葉は、それだけだった。
父は図を自分の書類入れへ戻した。
私は契約書をこちらへ引いた。取り下げると言われた提案に、もう一度お礼を足して、父の機嫌を確かめる言葉を探した。
結局、口には出さなかった。
父は、私が悪くない選択をしたとは思っていないだろう。それでも、交換を進めないという返事は聞けた。
父は時計を見て、出発の支度をすると言った。王都へ戻る途中の宿は、既に手配してある。
モーリスが、御者へ知らせますと一礼した。
私は契約書を閉じた。
父が戸口へ向かうとき、立ち上がって頭を下げた。返事を変えなかったあとでも、見送る支度はできた。
馬車が出る前、デュランさんが来て、泊めていただいた礼を言った。
「ご当主から、今回の交換の件は進めないと伺いました」
「はい」
私は頷いた。
誰かが父のあとから書面を持ってきても、もう決まった話だと受け取る必要はない。父が側近にも伝えていることを聞き、ようやく少し手が温かくなった。
玄関で父を見送った。
「冬の道には気をつけるように」
父が言った。
「はい。お父様も、道中お気をつけください」
私は答えた。
抱きしめてもらうことも、よくやったと言われることもなかった。
馬車が門を出ると、リュシーが館の戸を押さえてくれた。
私は中へ入り、応接室へ戻った。
父が座っていた椅子を、少し元の位置へ寄せる。机の上には、私の契約書だけが残っていた。
モーリスが、こちらへ保管しましょうかと尋ねた。
「私の部屋へ戻します。必要なときには、お持ちします」
彼は頷いた。
「では、昼からの品の受け渡しは、予定通りに」
「はい。お願いします」
私は紙を抱え、二階へ上がった。
部屋へ入ると、リュシーが湯を用意していた。私は椅子へ座り、カップを両手で持った。
「お話は、終わったのですね」
「ええ。交換は、しないことになったわ」
言った途端、肩から力が抜けた。
「戻しなさいと言われて、いいえと答えたの」
リュシーは頷いた。
「お返事を、そのまま伝えられたのですね」
「怖かったわ」
私が言うと、彼女は、もう少し湯を足しましょうかと聞いた。
私は頷き、カップを差し出した。
契約書は、引き出しへ戻した。
紙がなければ、言えなかったかもしれない。でも、紙があるだけでも、父へ返事はできなかった。
私が、ここにいたいと思っていた。
午後、館の戸を叩く音がした。
村から、品を預けに来た人だった。私は手帳を持ち、階下へ降りた。
この館で、次の用件を聞ける。
そのことが、今日の私には嬉しかった。




