第37話 手放したくない
翌朝、私はベルセの資料を、机から少し離して置いた。
読み直しても、数字は変わらない。
館があり、町が近く、暮らしに残せる収入も多い。私が最初に望んだ条件に近かった。
北領へ来る前にこの提案を受けていたら、喜んだかもしれない。
リュシーが湯を持ってきて、机の紙へ目を向けた。
「お返事を、お考えですか」
「ええ。ベルセへ移れば、冬の支度も、今より楽になるかもしれないわ」
彼女は頷いた。
「王都へ行くにも、近くなりますね」
「そうね」
私は顔を洗い、布で拭いた。
リュシーは朝の髪を整えてくれた。北へ来た頃は、いつもほど結い上げない支度に慣れなかった。今は、外へ出る予定に合わせて頼める。
「リュシーは、ベルセへ行きたい?」
尋ねると、彼女の手が止まった。
「王都へ戻るのでなければ、私もベルセの暮らしは知りません。町が近いのは、便利だろうと思います」
私は頷いた。
「北領の方がよいと、言ってくれるかと思っていたわ」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
リュシーは鏡の中で私を見た。
「お嬢様は、そう思っていらっしゃるのですか」
私は膝の上の布を見た。
皆のために残ると言えば、立派な理由になるだろう。北領へ戻ってきてと声を掛けてくれた人もいる。
けれど、父の管理に戻っても、モーリスたちは働ける。村の人の暮らしも、すぐに消えるわけではない。
それなら、より条件のよい土地へ移るべきだろうか。
「手放したくないの」
言ったあと、少し息をついた。
「ここに、私がいたいわ」
リュシーは櫛を持ったまま頷いた。
「でしたら、そのことも、お返事に書くのですね」
正しい土地の選び方だと、保証してくれたわけではなかった。
私は鏡を見た。
北領へ来たときと同じ顔なのに、ここにいたいと言った人が映っている。
朝食のあと、モーリスへ、ベルセについて尋ねた。
「交換をお断りしても、北領の生活を続けられるか、もう一度確かめたいです」
彼は冬の備えを書いた紙を出した。
館の修理と橋の費用を支払っても、予定した食料や薪は残せる。ただ、大きな故障が重なれば、何かを延期したり、別の支出を減らしたりする必要はあるという。
私は頷いた。
大丈夫ですと一言で終わる話ではない。
来年も同じ値で豆が売れると決まってはいなかった。雪で荷が遅れることもある。冬の連絡について、ペランさんに確かめたいことを手帳へ書いた。
「ベルセへ移る方が、余裕はあるのでしょうね」
「資料の通りでしたら。ですが、こちらで暮らすことができないという状況ではございません」
モーリスが答えた。
私は紙を受け取った。
北領にいたいから、困らないことにしてもらうのではない。困ることが起きたら、ここで判断する必要がある。
昼前、村へ行った。
交換の話はしなかった。まだ父に返事をしていないのに、皆へ、この土地を失うかもしれないと知らせたくなかった。
上の村では、冬に使う薪を積んでいた。ルネが私に気づき、通り道へ枝を落としたので気をつけてくださいと声を掛けた。
私は足元を見て礼を言った。
水路のところで、決めた見回りが続いているか確かめた。前の修理だけで終わりではなく、落ち葉を取る人も必要だという。
帰りには、館へ持っていく小さな袋を預かった。アンヌが頼んだ香草で、いつもの受け渡しの日に来られないため、ついでならと頼まれたものだった。
私は持って帰り、台所へ渡した。
立派な仕事をしたわけではない。
けれど、どの家へ行けばよいか分かり、誰に渡せばよいかも分かる。
ここで暮らしている時間が、私の中にあった。
午後、机で父への手紙を書いた。
『ご提案の条件は、拝見しました。ベルセでの暮らしに利点があることも分かります。ただ、北領との交換はお受けしません』
ペンを止めた。
お父様は、辺境伯家との話のためかと尋ねるだろうか。
それが何も関係ないとは、言えない。フェルナン様が近くにいることは嬉しい。
でも、彼が明日から遠くへ仕事に行くとしても、北領の鍵を父へ渡したいとは思わなかった。
最初にここへ住むと決めたとき、彼の名も知らなかった。
私は続けた。
『私は、ここで暮らし続けたいと思っています。北領を管理する責任も、引き続き引き受けます』
窓の外で、布を払う音がした。
リュシーが戻ってきて、洗ったものは夕方に取り込むと言った。私の上着の紐が緩んでいたので、繕うために預かりたいという。
「針入れは、ここにあるわ」
私が示すと、彼女は、それなら道具を取ってきますと答えた。
祭りで選んだものが、日々の支度に使われている。
ベルセへ行っても、針入れは持っていける。それだけを残したいのではなかった。
私は手紙を読み返した。
お礼の文は、最後に短く添えた。交換を断る言葉を、お礼の中へ隠さないようにした。
封をする前に、モーリスへ、返事をしたことを伝えた。
「北領で暮らし続けたいと、書きました」
彼は少し黙り、承知しましたと答えた。
喜んでくれる顔を待っていたのだと、私は気づいた。
でも、彼が喜ぶかどうかで、返事を変えたいわけではなかった。ここにいたいと決めたのは私だ。
「これからも、分からないことは相談させてください」
そう伝えると、モーリスは、もちろんですと答えた。
「私からも、お確かめいただきたいことは、お持ちします」
水路のことを聞きに行った日から、何度もそうして話してきた。明日からも、その続きを頼めると思うと、肩の力が少し抜けた。
「来週の品を預かる日は、予定通りにお願いします」
私が言うと、彼は頷いた。
「村へも、そう伝えます」
手紙を折るとき、前にベルセを願った自分のことを考えた。
あのときの望みが、間違っていたのではない。私は暮らせる館と土地を探していて、知っている中から名を挙げた。
今は、北領の冬をまだ知らない。それでも、夏にどこへ日が差し、雨の日にどの道を避けるかは知っている。
知らなかった場所で暮らしたから、選びたいものが変わった。
お父様が、最初にお前が欲しいと言ったではないかと尋ねても、今も同じですとは答えなくてよかった。
私は手紙を封筒へ入れた。
引き出しにはベルセの資料を残した。断ったからといって、条件の良さまで忘れたことにはしたくなかった。
迷った上で、北領を選んだ。そのことを、父の返事が届いたときにも思い出せるように。
私は封筒を便へ渡した。
お父様の返事を待つ間も、北領での予定は進む。
手放したくないという言葉を、リュシーだけに言って終わらせずに済んだ。




