第25話 当人のいない話
お父様が辺境伯家へ手紙を送っていたと知ったのは、晩餐から戻って五日後だった。
その日はフェルナン様が、道の報告を受け取りに来た。
モーリスと話を終えると、彼は私へ、もう一つお話ししておきたいことがありますと言った。
「お父上から、当家へお手紙が届きました」
私は頷いた。
夜会で辺境伯に挨拶したと、お父様から聞いていた。隣領との付き合いを大切にとも言われたので、何か連絡があったのだと思った。
「北領のことでしょうか」
「それだけではありません。あなたと私の縁談について、考える余地があるかと」
机の上の地図が、急に遠くなった。
私とフェルナン様。
その二人が、縁談という言葉で並べられた。
「……お父様が、そう書かれたのですか」
「はい。正式な申し入れではなく、当家の意向を確かめたいという内容です」
フェルナン様の声は、いつもと大きくは違わなかった。
それが、かえって聞き間違いではないと分からせた。
「父は、あなたにそのお話が伝わっているか確かめました。私も、伺っていないと答えました」
私は頷いた。
お父様は、辺境伯家がどう思っているかを先に知りたいのだろう。
昔の婚約でも、相手の家の話を聞いてから、私に会わせる日が決まった。
家同士で何も話さずに、いきなり当人へ聞くものではないことは、習っている。
けれど、今度の相手は、既に知っている人だった。
「サヴェル家では、何と……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
何と答えられたのか、聞くのが怖かった。
「まず、当人抜きに進めないよう、返事をすることになりました」
フェルナン様は私を見た。
「私が了承したと受け取られる形で、先に話を決めてほしくないと、父にも伝えています。あなたの考えも、私は伺っていませんでしたから」
断られたのだろうか。
それとも、まだ何も決まっていないということだろうか。
私は膝の上で指を重ねた。
「ご迷惑を……」
言いかけると、フェルナン様が首を振った。
「まだ、何を望まれるかも分からないお話です。あなたが謝ることではありません」
私は顔を上げた。
「北領のことも、結婚のことも、同じではないので」
彼は続けた。
「隣領の調整で相談を受けることと、結婚相手を考えることは、別の話です。私の仕事を理由に、あなたが了承しなければならないとは思っていません」
私は息をついた。
取引を続けるために、結婚する。そんなことまでは考えていなかった。
でも、彼が当家との関係を悪くしたくないと思っていたら、私も困らせてはいけないと考えるかもしれない。
先に別だと言ってもらえて、少しだけ手が緩んだ。
「あなたは、どうお考えですか」
フェルナン様に尋ねられ、私は黙った。
嫌なのか。
そうではない。
彼が北領へ来ると、嬉しい。祭りで話している時間も、楽しかった。
けれど、結婚したらどこで暮らすのか。北領をどうするのか。彼は仕事を続けるのか。
考えたことのないものが、一度に浮かんだ。
「分かりません」
口にすると、情けなく聞こえた。
「お父様からも、まだ伺っていませんでしたし。結婚するということを、フェルナン様と、考えたことがなくて」
最後の言葉が冷たく聞こえたかもしれないと思い、私は彼の顔を見た。
フェルナン様は少し間を置いて、頷いた。
「そうですね。突然、その返事を求める話ではありません」
彼は卓の地図を畳んだ。
仕事の話は終わっている。今日の帰る時間も決まっていた。
私は、今まで通り門まで見送ってよいのかさえ、迷った。
フェルナン様が立ち上がり、書類入れを取る。
「次の道の確認は、モーリスと予定通りにいたします。こちらのお話は、急いで決めなくて構いません」
今まで通りでよいと、分かる言葉だった。
私は一緒に玄関へ向かった。
廊下の窓の下に、リュシーが布を置いていた。二人で歩いてくるのを見て、会釈をし、壁際へ寄る。
いつもなら、祭りで買った針入れを見せる話などができたかもしれない。
今日は、門まで何も言えなかった。
「お父上からお話があれば、ご自身の考えでお返事ください」
フェルナン様はそう言って、手袋をはめた。
私は頷いた。
馬が門を出たあと、しばらく立っていた。
嫌ではない。
そう答えれば、何かが違ったのだろうか。
でも、私が嫌ではないと言えば、そのまま結婚することになるのかもしれない。お父様が、では話を進めるとおっしゃる姿を思い浮かべてしまった。
庭の角では、リーズが干した布を外していた。私を見ると、針入れを台所に置き忘れていないかと尋ねた。
「昨日、縫ったあと、棚の端へ置かれたので」
私はそのことをすっかり忘れていた。
「ありがとう。持ってきます」
台所へ行くと、葉の模様の蓋が見えた。買ったときには、しまう場所を決めたつもりだったのに、使ったあとに戻していなかったらしい。
アンヌは窓の近くで野菜を洗っていた。フェルナン様はお帰りになりましたかと聞かれ、はいと答えた。
縁談の話は、ここではしなかった。
別の家へ相談の手紙が届けば、北領にも何かが変わるのだろうか。館へ来る理由まで変わってしまうのだろうか。
針入れを持ち、しばらく戸口で立った。
フェルナン様は、次の道の確認を予定通りにすると言っていた。私が分からないと答えたからといって、モーリスとの約束を取り消すことはなかった。
それなら、今日の私がすべきことは、夕方の報告を聞き、明日の予定を確かめることだった。
私はモーリスへ、道の連絡は今まで通りお願いしたいと伝えた。彼は頷き、今日受け取った報告を渡してくれた。
紙には、私の知らない縁談のことは何も書かれていない。
必要な仕事まで、全部が変わったわけではなかった。私は報告を受け取り、二階へ上がった。
部屋へ戻ると、リュシーが上着を受け取ってくれた。
「少し、お顔が赤いですね。外が暑かったですか」
「いいえ」
私は椅子へ座った。
「お父様が、フェルナン様との縁談を、お尋ねになったそうなの」
リュシーも、少し驚いた顔をした。
「お嬢様には、まだお話がなかったのですね」
「ええ。私は、分からないとしか答えられなかったわ」
彼女は頷き、私の返事を言い直そうとはしなかった。
私は窓の外を見た。
明日の予定には、水路の見回りがある。次の便で売る品も、まだ確かめることがある。
そのどれとも違うところに、フェルナン様の名前が残っていた。




