第17話 空けてある部屋
王都の屋敷に着くと、玄関の花が入れ替わっていた。
北へ発った朝にはなかった白い花が、左右の花瓶から垂れている。
出迎えた使用人は、荷物を私の部屋へ運ぶと告げた。
「お部屋は、そのままにしてございます」
妹が言った通りだった。
机の位置も、寝台の掛布も、壁の絵も同じ。引き出しを開けると、アラン様の手紙が残っていた。
閉める音が、静かな部屋に響いた。
廊下の向こうから、妹の笑う声がする。
リュシーが戸口へ目を向け、先にお湯を頼んでまいりますと言った。
私は帽子を外し、小卓へ置いた。
鏡に映る顔は、旅の疲れで少し赤い。北領では小さかった鏡が、ここでは肩の先まで映している。
見慣れたはずなのに、自分の姿を長く見ていられなかった。
お母様へ到着を知らせに行くと、居間に妹とアラン様がいた。
卓の上には、布の見本と、紙へ描かれた花飾りが並んでいる。
「お姉様、お帰りなさい」
妹が立ち上がった。
薄桃色のドレスの胸元に、小さな青い石がある。指輪と揃えたのだろう。
「お帰り、オデット。道中はどうだった?」
アラン様にもそう言われ、私はお辞儀をした。
「無事に着きました」
お母様が隣の椅子を示す。
「ちょうどいいわ。式の花を決めているの。フィオナは青を入れたいのだけれど、この時期に揃うか、花屋に尋ねていて」
式は翌春を予定していた。遠方の親戚にも知らせるため、夜会で婚約を披露したあと、招待状を出すという。衣装や会場の手配は、今から始めるそうだった。
私は紙を見た。
結婚の支度が進んでいる。
北領で袋の札を確かめていた間にも、こちらでは違う予定が決まっていた。
「この布、どう思う?」
妹が見本を私の膝へ置いた。
柔らかく、指から滑りそうな布だった。
「綺麗ね」
「でしょう。アラン様が、こちらの方が似合うって」
彼女が彼を見る。アラン様は、よく映えると思うと答えた。
私は布を卓へ戻した。
似合うものを、相手に選んでもらう。私が覚えている緑のドレスの話は、二人の会話には入らない。
「北は、どうだったの?」
アラン様が尋ねた。
「館で暮らしています。水路の修理がありましたが、今は水が戻りました」
「大変だったね。そういうことは、管理人に任せればよかったのでは」
私は返事を探した。
任せていることも多い。私一人で直したわけでもない。
「分からないことは、教えてもらっています」
そう答えると、お母様が、無理をしてはいけませんよと言った。
「せっかくお父様が静養させてくださったのだから。日焼けも気をつけないと」
私は袖口へ目を落とした。
昼間に外へ出ることが増え、手の甲が少し色づいている。
北領をいただいた話は、ここでは静養の話なのだ。
「お姉様がいないと、衣装の相談ができなくて困ったわ」
妹が別の見本を開いた。
「私、この飾りもつけたいの。でも、重くなると言われて」
お母様が、両方つける必要はないでしょうと笑う。アラン様は、歩きにくくならなければよいと答えた。
私は呼ばれるまで、見本の端を押さえていた。
ここにいる私が何をしたのかより、ここにいない間に何を決めたかを、皆が話している。
次の縁談について尋ねられるよりはよいはずだった。
それでも、布が重く感じた。
居間を出る前に、お母様が夜会の衣装のことを尋ねた。
「青いドレスがあったわね。あなたはあちらにしてはどう?」
「確認してみます」
階段を上がり、部屋へ戻った。
リュシーがお湯を用意していた。私は手を洗い、布で拭いた。
汚れていたわけではない。何も触れていないのに、手の中に見本の滑る感じが残っていた。
「お休みになりますか」
「少しだけ」
寝台の端に座ると、身体が深く沈んだ。
北領の寝台より柔らかい。食卓の料理も、きっとこちらの方が多い。
なのに、帰ってきたという気持ちになれなかった。
「リュシー」
「はい」
「北の荷車は、今日、薪に使う予定だったかしら」
彼女は少し驚いたあと、手帳を開いた。
「その予定でした。ペランさんの便は、明日か明後日と伺っています」
「そう」
私は頷いた。
モーリスは、品を確かめてくれるだろう。アンヌは、前掛けの残りを縫っているかもしれない。
勝手に王都へ来たのではない。それでも、仕事を残してきたことが気になった。
昼の食卓には、私の好きな杏の菓子が出た。お母様は覚えていてくださったのだと思い、一切れを取った。
妹は違う菓子を選び、アラン様へ味を勧めていた。二人の会話は、私が席に着く前から始まっていた。
「北でも、甘いものは食べられるの?」
妹に聞かれ、私はスプーンを置いた。
「アンヌが、木の実を煮てくれることがあるわ」
「それだけ? やっぱり大変なのね」
かわいそう、という顔をされると、詳しく話しにくかった。
館の庭で採れたものを煮た日は、パンへつけて食べた。私が美味しいと言うと、アンヌは今年はよく実ったのだと話してくれた。
そのことを言えば、妹も美味しそうと言ってくれるかもしれない。けれど、食卓では、もう別の話が始まっていた。
アラン様が夜会で挨拶する相手を確かめ、お父様が侯爵家の親戚について教えている。妹は名前を覚えようと真剣に聞いていた。
私はその人たちの名前を知っている。結婚したあと会うからと、以前覚えたのだ。
妹が一人の続柄を間違え、訂正しかけた。その前に、アラン様が優しく教え直した。
私の知っていることは、今ここでは、言わなくてもよかった。
菓子を口に入れる。好きだった味は、ちゃんと覚えていた。それなのに、最後の一口を食べるまで、ずいぶん時間が掛かった。
食事のあと、お母様に休んでいなさいと言われ、素直に部屋へ戻った。
荷物の中の布を出し、少しだけ針を進めた。前に曲がった端は、ゆっくり縫えば揃えられた。
アンヌに見せたとき、今度は直さずに使えるといい。そう思っている間は、階下の声を聞かずに済んだ。
夕方、妹が部屋へ来た。
扉が開くと、私は机の引き出しから手を離した。
「お姉様、明日の仮縫い、少し見てくれる?」
「私も、夜会の支度があるのだけれど」
妹はきょとんとした。
「同じ部屋でできるでしょう。前も、そうしたもの」
確かに、前もそうした。
妹の袖や裾を先に見て、私の支度はあとになった。そのことを、誰も特別とは思わなかった。
「分かったわ。時間を教えて」
妹は嬉しそうに頷いた。
私はまだ、断れなかった。
彼女が出ていったあと、机の上の手帳を開いた。北領で書いた予定の最後に、王都へ移動、とある。
その次は、空いていた。
そこへ夜会の日を書き、もう一行、北へ戻る、と書いた。
日付は、まだ入れられなかった。
リュシーには見せず、手帳を閉じた。




