第三十三話 兄妹と時雨
「……澪。帰るぞ」
先ほどまで時雨が帰るのを引き止めていた神楽が、今度は自分から帰ろうとしている。しかも時雨の顔を一度も見ることなく、馬車待機所へ向かって歩き出していた。
「あ……兄上。その……。」
「話は帰ってから聞く。……桜さん。悪いけど、この通り妹と話があるから先に帰っててくれるかな。」
「あ…は、はい…。」
桜は戸惑いながら頷く。何が起きているのか、彼女にもまだ理解できていないのだろう。
「…朝霧くん。」
神楽に名前を呼ばれ、時雨が顔を上げるが目は合わない。こちらを一切見ていないのだ。
「……ごめん。」
「え?」
それだけ言うと、神楽は澪とともにその場を後にした。神楽たちの姿が見えなくなるまで、御影は黙ってその場を見つめていた。やがて見えなくなると、ゆっくり時雨を地面へ下ろした。
「なんか……兄妹喧嘩始まりそうだけど…ほっといていい感じ?」
「えぇ。神楽家の問題ですので。こちらには関係ないかと。」
「え?神楽家?あいつの苗字って神楽なわけ?」
「はい。神楽龍馬様です。」
「えぇ!?マジで!?」
時雨が目を丸くする。そんなカッコイイ苗字が存在しているのかと驚きを隠せない。
「ずっと下の名前だと思ってたわ、俺。」
「聞かなかったことにします。」
「じゃあ妹は神楽澪って名前なのか…。」
時雨は先ほどの澪を思い出す。
「…ってかお前、めちゃくちゃ睨んでたよな。顔、怖かったぞ」
「気の所為です。」
「いや、絶対睨んでたって…。」
御影は何事もなかったかのように踵を返し、いつもの表情に戻っていた。
「若様、そろそろ戻りましょう。あまり遅くなると旦那様が心配いたします。」
ほんとはまだ団子くらいなら食べられる…。そんなことを思ったが、今日は大人しく帰ったほうがいいかもしれない。
「……帰るか。」
「はい。」
時雨は御影と並んで歩き出す。こうして二人は、城下町を後にして屋敷へと戻っていった。
♢♢♢
「……寝ましたか。」
御影は襖の隙間から部屋の中を覗く。時雨は布団の中で、すやすやと眠っていた。先ほどまで城下町で騒いでいたのが嘘のような寝顔だ。御影はしばらくその姿を見つめた後、そっと襖を閉め足音を立てないよう廊下を歩き、屋敷の奥へ向かった。今日あった出来事を、時雨の父へ報告するためだ。
「……若様には、会わせたくなかったですね。」
小さく独り言つぶやくと同時に、脳裏にあの日の記憶が蘇った。家族以外の人間をようやく信じられるようになった矢先…いきなり婚約破棄をされ、時雨は他人に対して完全に心を閉ざすようになった。
しかし、いまの時雨は違う。魂が入れ替わったせいで澪の事は何も覚えていない。そのせいで、兄である神楽とも深く関わってしまったのだ。
「それにしても、妹君の元婚約者が若様だったことをご存じなかったのは意外でしたね…。」
神楽家は朝霧家とは違い、家族仲が良くないというのは有名な話だ。だからといって妹の婚約者を知らないなんておかしな話すぎる。
「まだ喧嘩の途中ですかね…。」
神楽が時雨を気に入っているのは見ればわかる。最初はからかっているのだと思った。妹の元婚約者と仲良くして、最後に盛大な裏切りでも仕掛けてくるのかと…。もちろん、その時は御影も黙っていないが。しかし神楽が見せる表情に悪意を感じることはなかった。彼は純粋に友として、時雨と仲良くしたいのだと感じた。
「まぁ…あのような事があったんじゃ、もう若様とは関われませんかね…。」
♢♢♢
――神楽家
「…………。」
「…………。」
互いの部屋に入るほど親しいわけではない二人は、客間で向かい合っていた。部屋には重苦しい沈黙が漂っている。先ほど侍女が運んできた茶も、とうに冷めてしまっていた。普段なら何かしら口を開く澪が今日は何も言わない。神楽もまた、妹へ視線を向けようとはしなかった。ただ静かに湯呑みを見つめている。
――先にこの空気に耐えられなくなったのは澪の方だった。
「兄上……。」
「…………。」
「その……婚約者の件、黙っていて申し訳ありませんでした。まさか、兄上の友人が時雨さんだったとは思わず……。」
「澪……僕は君の婚約者に興味はないよ。どうせ父上が、家柄や神楽家との関係を考えて決めた相手なんだろう?」
「は、はい…。」
「でも……一つ気になることがある。」
「えっ…?」
「父上に色々言われたんだろう?朝霧くんの家の評判が良くないだの、彼は術が使えないだの…だから婚約破棄しろと。」
「……は、はい。」
「じゃあ…なんて言って彼を傷つけたの?」
「……え?」
「父上に命じられて彼をフったんでしょう?それは分かった。で?君は朝霧くんに何と言ったんだ?」
澪は膝の上で両手を強く握る。もう何年も前の話だ。それでも、あの日のことだけは忘れたことがない。
「朝霧家は、名家として相応しくない家になっているから、婚約をなかったことにしてほしいと…。あなたと一緒にいたら、神楽家の何も傷がついてしまう…と。」
「それだけ?」
「…………。」
「……違うんだね」
「本当にそう思っているの?と、時雨さんに聞かれて…術も使えない貴方と結婚する理由はない。これで…お互い自由になれますね…と…。」
「はぁ…なかなかキツいこと言うね。」
「私だって……あんなこと、言いたくありませんでした。でも父上の命令でしたので…。」
「朝霧くんは?なんて言ったの?澪のこと罵倒した?」
「いえ……ただ、ごめんと一言だけ…。」
あの日のことを思い出しているのか、澪の目が少し赤くなっている。泣くのを堪えている顔だ。きっと澪本人も、時雨のことを悪く思っていなかったのだろう。
「そうか…。」
妹を責めたいわけではない。自分だって、父親に逆らえる立場ではない。実際、神楽自身も家の都合で桜との婚約を続けているのだから。
「…部屋に戻ろう。」
「え、兄上……?」
「君を責めても仕方がない。僕だって、父上に逆らえるほど強くはないからね。」
そう言って席を立つ神楽を見て澪は慌てて声をかけた。
「兄上は…!今後、時雨さんとのお付き合いはどうするのですか……?」
「僕?そうだなぁ…。」
少しだけ考えるように、神楽は天井を見上げた。頭に浮かんだのは、今日出会ったばかりの少年の姿だった。くだらないことで笑い、団子を頬張り、何を言われても妙に前向きで――。
「……初めてなんだ。こんなに面白い人がいるんだぁって…。」
龍馬の口元に、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。
「彼といると楽しいし…なんていうか、自然と勇気ももらえた。」
ほんの数日前まで、話したこともないただの同級生だった。それなのに、気づけばもう一度会いたいと思ってしまう。もっと話したい。もっと、彼がどんな人間なのか知りたい。そんな感情が芽生えていた。
――でも。
「……朝霧くんだって、元婚約者の兄と仲良くなんてしたくないだろう?運良く僕たちは組が違うから、会わないでいようと思えば、いくらでもできるしね。」
「兄上……。」
「じゃあ、僕はもう行くよ。」
澪は何も言えなかった。ただ、遠ざかっていく兄の背中を見つめる。いつも堂々としていて、何でも一人で決めてしまう兄。
その背中が――今だけは、ひどく小さく見えた。




