第三十一話 神楽龍馬の婚約者
「…………。」
「…………。」
重苦しい空気が二人の間を包んでいる。その二人とは――神楽と婚約者である桜だ。
妹の澪が半ば強引に日程を決め、二人は城下町にある高級料理亭へと来ていた。
「あ、あの…今日は会ってくださり、ありがとうございます。」
「あぁ…父と妹がうるさくてね。」
神楽は湯のみに口をつけ、ボー…と外を眺めている。桜とは一度も目を合わせない。どうやらあまり乗り気ではないらしい。
「…………。」
桜は困ったように膝の上で手を握る。何か話さなければ…。そう思うのに、目の前の神楽からは話しかけるなと言わんばかりの空気が漂っている。
「……あの。」
「ん?何かな。」
「えっと……その…。」
「…………。」
神楽がようやく顔を上げ桜と目を合わす。優しそうな表情とは裏腹に目は笑っていない。桜はその視線に少しだけ怯みながらも、言葉を続けた。
「龍馬様は…お好きな料理など、ありますか?」
「僕?特にないかな。出されたものは何でも食べるから。」
「そ…そうですか…。」
「うん。」
再び沈黙になり、桜は思わず俯いた。今日ここへ来たのは、ただ食事をするためではない。二人の仲を深めようと澪にわざわざ頼んだのだ。けれど、神楽はまるでこの時間が早く終わってほしいと言わんばかりの態度。さすがに心が折れそうになってしまう。
「がっ…学校はいかがですか?」
「んー……そうだね。少し楽しくなってきたかな。」
「!」
神楽の思いがけない返事に桜は目を丸くした。今まで何を尋ねても、どこか素っ気なく返されることが多かった。それが今日は珍しく話題に乗ってきたのだ。
「た、楽しいとは?何か良いことでも…?」
「最近仲良くなった子がいてね…。」
龍馬は湯のみに目を落としながら、ふっと口元を緩めた。その表情を見て、桜は少しだけ息を止めた。柔らかな笑顔…それは自分に向けられたことのないものだった。
「…………。」
胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。最近知り合った子。一体、どんな人なのだろう。
「……その方は、どのような方なのですか?」
「ん?」
「いえ…その…楽しそうにお話しされていたので。」
「そうだなぁ…見ていて飽きない子だね。」
そう言ってまた少し笑う。一体その子は誰なのだろう。私よりその子がいいのかな?もしかして女性…?そんな考えが浮かんだことに自分でも驚いてしまう。
「りょ……龍馬様……まさか、そのお方……女性ではありませんよね……?」
「え?」
「その…龍馬様が、あまりにも楽しそうにお話しされているもので……少し心配に……。」
「…違うよ。男だから。」
「……本当ですか?」
「本当。」
「そ…そうですか…。」
桜はホッと胸を撫で下ろす。その様子を見て神楽はまた冷たい表情に戻った。
「はぁ……君は僕に何を求めているの?」
「えっ……?」
「僕らの婚約は、互いの家にとって利があるから決まったものだ。……違うかい?」
「いえ……。」
「なら、それ以上を僕に求められても困る。」
「…………。」
胸の奥がズキリと痛んだ。分かっている。この婚約が自分たちの意思だけで決まったものではないことくらい。
「私は…龍馬様ともう少し、お話ができればと思っていただけです…。」
「………。」
桜…。目の前にいる彼女は、言葉にせずとも何を考えているのか手に取るように分かる。親同士が勝手に決めた婚約。名家に嫁ぐとなれば、婚約者の家柄も当然重要になる。よほどのことがない限り、僕らの婚約が白紙になることはない。それなのに、彼女は僕との仲を少しでも良くしようと必死になっている。正直、そんな努力をしたところで何になるのかと思う。僕らの間に、今さら何かが生まれるわけでもない。
「……そろそろ出ようか。送るよ。」
「……はい。」
本当は、もう少しだけ一緒にいたかった。けれど、神楽はこれ以上一緒にいたいとは思っていない。そう考えると、引き止める言葉なんて出てこなかった。何度こちらから歩み寄っても、その距離はなかなか縮まらない。
――桜ばかりが、神楽との距離を縮めようとしていた。
料理亭を出ると、城下町の大通りにはまだ多くの人が行き交っていた。二人は店先から少し離れた場所にある、名家専用の馬車待機所へ向かい歩き出した。
「今日はありがとうございました。」
「僕の方こそ。」
神楽はそれだけ言うと、再び歩き始める。
“帰りたくない”
そう思う気持ちとは裏腹に、馬車待機所との距離は少しずつ縮まっていく。ふと、道の先にある団子屋へ目を向ける。城下町でも評判の店で、以前から一度食べてみたいと思っていた。けれど――神楽はきっと、見向きもせずに帰るのだろう。
「…………。」
次に会えるのは、いつになるのだろう。そんなことを考えているうちに、馬車待機所が見えてきた。ほんの少し手を伸ばせば届く距離にいる。
それなのに――
どうしてこんなにも、遠く感じるのだろう。
「…はぁ。」
やっと、この時間から解放される――。
馬車が見え、桜との別れが近いことを知ると神楽は少しだけ安堵した。彼女のことが嫌いなわけではない。ただ、どうも苦手だった。将来、結婚するのであれば彼女と仲良くしていて損はない。桜が自分に気を遣っていることも分かっている。それでも、こうして親に決められた婚約者と向き合っていると、まるで自分まで親の言いなりになっているような気がして、どうにも気分が悪かった。
ふと、隣を歩く桜へ視線を落とす。彼女は浮かない顔をしたまま俯いていた。
……何か話しかけた方がいいのだろうか。
そう思いはしたものの、龍馬から声をかけることはなかった。いっそのこと――こんな無礼な自分を嫌ってくれればいいのに。
特に会話もなく馬車へと歩いていた時、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「兄上!!」
嫌な予感がして振り返ると、今日の食事会をセッティングした張本人が立っていた。
「はぁ…澪か。城下町に何か用かい?」
「用もなにも…兄上と桜さんの様子を見に来たんです」
「わざわざ見に来なくたって、ちゃんと食事はしただろう?」
「“食事は”って…桜さんは兄上の婚約者なのですよ?ここは城下町です。どこか甘味屋に寄ったり、雑貨屋を見たり……なぜしないのです?」
「なぜって……」
神楽は言葉に詰まる。食事をしに来ただけでも感謝して欲しいぐらいだと思っているからだ。もちろん、そんなことは口に出して言わないが…。
「澪さま。私は大丈夫ですから…。」
「大丈夫じゃありません!桜さんは優しすぎます!」
「はぁ…。」
面倒な奴に見つかってしまった。
いや――見つかったというより、ずっと尾行していたのだろう。どうしてこうも、僕の周りにいる女性はこんなにも“その先”を求めるのだろうか。
婚約者なら婚約者として、妹なら妹として。今ある関係をそのまま保っていれば、それで十分ではないのか。
「澪。僕は暇じゃないんだ。今日だって課題があったのに、それを放り投げて食事会へ来たんだよ。」
「……嘘をつかないでください。兄上ほどの人が、学校の課題につまずくわけありません!」
「何を根拠に嘘だっていうの…。」
「兄上はその日のうちに課題を済ませて、予習まで行う人じゃないですか!日をあけようと思えば、いつだってあけられるはずです!」
「澪……君の通っているくノ一学校と一緒にしないでくれ」
「なっ……!」
「影陰忍術学校の課題は、そんなに簡単じゃないんだよ」
「お、お二人とも……落ち着いてくださいませっ……。」
桜が慌てて二人の間に入るが、その制止も虚しく二人はなおも言い合いを続けていた。
「そもそも兄上は――!」
「君こそ――」
道行く人々が何事かと振り返る。




