第十七話 揉めに揉めての休日。
神楽が名前を呼んだその瞬間、空気が変わった。
先程まで浮かべていた優しい笑みは消え、その表情からは温かさが消えていた。
冷たい視線。
普段の穏やかな彼からは想像できないほど鋭い目だった。
お面の隙間から見ていた時雨には、少し恐ろしく感じた。
(ん?待てよ…。澪って…どこかで聞いたことあったような?)
でも、思い出せない。
記憶力が壊滅的に悪い時雨には難しいようだ。
少女――澪は、少し困ったように口を開く。
「兄上こそ…今日は桜さんとの約束が……。」
「質問に質問で返すな。僕は今、何をしているのか聞いている。」
(こいつ…怒ってる?)
「私は隣町に用があり、その帰りです。」
「なら、日が落ちる前に早く戻れ。」
「私は兄上の質問に答えました!兄上こそ、ここで何をしているのですか!」
「……見て分からないか?」
神楽はそう言うと、隣にいた時雨の肩へ手を回した。
「えっ…?」
(肩を抱かれてる!?)
あまりの衝撃に時雨が固まってしまう。
「逢瀬だよ。」
「なっ……!?」
その言葉を聞き、澪の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
「お…おい…。」
「?」
時雨は小声で神楽に問いかけた。
「逢瀬って何だよ…。」
「……驚いた。知らないの?」
「知るわけねぇだろっ。」
「じゃあ知らないままで話を進めるね。」
「お、おい。」
時雨が突っ込む間もなく、澪が先に声を上げた。
「兄上!桜さんという方がいながら……あなたは一体何をしているのですか!」
先程から何度か名前が出ているが、きっと神楽の彼女か何かなのだろう。
「僕は断っているよ。好いてもいない人と共にする気はないと。」
「そんなっ…桜さんは兄上のことを慕っているのですよ!?」
澪の懸命な訴えも虚しく、神楽は表情を変えなかった。
「そりゃそうだろうね。」
「……え?」
「家同士の縁談が進めば、彼女の家は安泰だ。」
淡々とした言葉。
それを聞いた澪は、信じられないものを見るような顔をする。
「なんてこと……。」
その反応に、時雨は二人の会話を聞きながら首を傾げた。
そして、小声で神楽へ尋ねる。
「な、なぁ…結局逢瀬ってなに…。」
「……。」
神楽は答える気がないのか、時雨の言葉を無視している。
「そこのあなた!!」
「!!?」
突然声を掛けられ、時雨は驚き固まった。
そんなものお構い無しと、澪はわざと足音を立てて近付いてくる。
「兄上に近付いて……何のつもりですか!!」
(近付いてきたのは、どちらかというと神楽なんだが!?)
「逢瀬など…兄に婚約者がいることを分かってしているのですか!?」
(だから逢瀬ってなに!?)
目の前に来た澪と面越しに目が合う。
澪の態度は大きいが身長はあまり高くない為、自然と時雨が見下ろす形になっている。
「あなた…女性のくせに、随分背が高いのね。」
「……?」
(え?俺…もしかして女と間違えられてる?)
女性と間違えられるなど、人生で一度もなかった。
神楽と比べたら、時雨は少し華奢に見えてしまうが、俺は立派な男だ!と口を開こうとしたその時、
「あなたねぇ…さっきから何ですか、そのお面。人と話す時くらい、それを取りなさいよ!」
澪が時雨の顔へ手を伸ばすが、その手が届くことはなかった。
ぱしっ。
神楽が澪の手首を掴んだのだ。
「……。」
「あ…兄上…。」
「いい加減にしろ。」
低く、冷たい声。
普段の穏やかな神楽からは想像もできない声色だった。
自分に向けられた言葉ではない。
それでも時雨は思わず息を呑む。
空気が重い。
肌が粟立つような威圧感だった。
「礼儀がなっていないな。それでも名家の娘か?」
「……っ。」
澪はゆっくりと手を下ろした。
「……申し訳、ありません。」
「僕はこの子を送るから、君はもう帰れ。」
神楽は時雨の肩へ軽く手を添える。
「兄上……!」
澪が呼び止めが、神楽は振り返らない。
そのまま進みながら、澪に向けて言葉を投げる。
「あの人からの指示なんだろうけど…。」
「…!」
「余計な詮索はするな。…目障りだ。」
その一言を残し、神楽は時雨を連れて歩き出す。
「お、おい……。」
時雨は神楽へ声を掛けようとした。
しかし横顔を見た瞬間、言葉が止まる。
普段の優しい笑顔はどこにもない。
張り詰めた空気をまとったその表情に、時雨はそれ以上何も言えなかった。
♢♢♢
結局、神楽は店へ向かおうとはしなかった。
そのまま馬車へ向かい、時雨を先に乗せる。
神楽自身はすぐには乗らず、一度周囲へ目を向けた。
人混みの中を静かに見回す。
…先程の澪が追って来ていないか確認しているのだろう。
やがて安心したように馬車へ乗り込み、扉をゆっくり閉めた。
そして馬車が静かに動き出す。
神楽は窓の外へ視線を向けたまま、一言も話さない。
その横顔はどこか険しく、普段の穏やかな笑みは消えていた。
(……なんで俺が気ぃ遣わなきゃならねぇんだ。)
時雨は小さくため息をつき、持っていた紙袋を開けた。
「……おい。」
「ん?どうしたの?」
「これ。」
時雨は一枚の手ぬぐいを差し出す。
「やるよ。」
「……え?僕に?」
神楽は目を丸くした。
差し出されたのは、翡翠色の手ぬぐいだった。
「綺麗だけど…でも何で?」
「あいつの買うついで。お前のおかげで買えたしな。」
神楽は受け取った手ぬぐいを眺める。
「……どうして、この色にしたの?」
「んー…お前見てたらこの色が思い浮かんだから。」
「翡翠色ってこと…?」
「ひすい?詳しい色の名前は知らねぇけど…似合うと思ったからその色にした。」
「……。」
神楽はしばらく黙ったまま手ぬぐいを見つめる。
やがて、小さく笑った。
「ありがとう。大事にするよ。」
「おう。」
先程まで張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ気がした。
“澪”に対しての対応。婚約者だと言っていた“桜”の約束を放棄した神楽。
兄弟や彼女がいない時雨にとって、何故あのような態度を…?
気にならないといえば嘘になるが、この話をしてまた空気が重くなるのは辛い。
(たぶん…妹と婚約者と仲が悪いんだろ。うん。)
きっと何か事情があるのだろう…と勝手な解釈で納得し、そして馬車は朝霧家へ向かってゆっくりと進んで行った。
♢♢♢
「本当にここでいいの?」
神楽が窓の外を見ながら尋ねた。
屋敷までは、まだ少し距離がある。
「あぁ。少し歩きたいからな。」
「……十分歩いたでしょ?」
「いいだろ、別に。」
「ふふ。分かった。でも、気を付けて。今日は付き人くんもいないし。」
「分かってるって。じゃあな!」
「うん。今度は僕の行きたいところに付き合ってもらうよ。」
そう言うと馬車の扉が閉まり、ゆっくりと走り去っていく。
時雨はその背中を見送ると、少し伸びをした。
「んんー…。さてと…。」
地面を軽く蹴る。
身体は自然と宙へ舞い、近くの大木へ飛び移った。
「やっぱ着物じゃ登りにくいな。」
枝へ腰を下ろし、足をぶらぶらと揺らす。
目の前には、夕日に染まる空が広がっていた。
橙色から茜色へ。
ゆっくりと色を変えながら、太陽が山の向こうへ沈んでいく。
時雨は何も言わず、その景色を眺めた。
(前の世界にいた頃は、こうやって景色をゆっくり見たことなんてなかったな。)
思い返してみると、常にスマホを握っていた気がする。
暇さえあれば画面を見るか、バスケばかりしていた。
今はスマホもネットもない。
動画もゲームも。
なのに、不思議と退屈ではなかった。
風が木々を揺らす音。
鳥の鳴き声。
そのどれもが心地良く感じる。
「こういうのも悪くないな。」
夕焼けに照らされた横顔は、どこか穏やかだった。
「ふぁぁ……。」
心地よい風が頬を撫で、思わず大きなあくびをしてしまう。
枝にもたれ掛かるように座り、ぼんやりと夕焼けを眺めているうちに、瞼が少しずつ重くなっていく。
(ちょっとだけ……。)
そのまま、ゆっくりと目を閉じた。
――どれほど眠っていただろうか。
気付けば、空はすっかり夜へと姿を変えていた。
「……様!」
遠くから誰かの声が聞こえる。
「若様!!」
(ん……?)
聞き慣れた声にゆっくりと目を開く。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「……あれ。今何時…。」
身体を起こそうとした瞬間。
「うわぁっ!!」
足を滑らせ、そのまま木の上から落ちる。
だが、地面へ叩き付けられることはなかった。
「っ……!」
ふわりと身体が止まる。
目を開けると、御影がしっかりと抱き止めていた。
「おぉ。ナイスキャッチ。」
「何を言っておられるのですか!ずいぶんと探したのですよ!」
珍しく御影が声を荒げている。
その表情には焦りが滲んでいて、いつも冷静沈着な御影とは思えないほどだった。
「お前も怒るんだな。」
「……若様。」
「ごめん、ごめん。つい眠たくなって…。」
そう言って笑う時雨だったが、御影の額に視線を移すと額には汗が浮かんでいた。
きっと日が沈んでから長いこと自分を探し回っていたのだろう。
「……。」
時雨は静かに地面へ降ろしてもらうと、紙袋を開けた。
「ほら。」
中から取り出したのは、鮮やかな黄色の手ぬぐい。
それを御影の額へそっと当てる。
「これは……?」
「今日、お前に買ってきたやつ。」
「……若様。」
「いつも世話になってるからな。たまには礼ぐらいさせろ。」
御影は手ぬぐいを見つめたまま固まっていた。
やがて、小さく微笑む。
「……ありがとうございます。」
その声は、いつもより少しだけ優しかった
「……しかし、何故この色味を?」
「俺の好きな色だから!」
「若様の……?」
「あぁ。お前の好きな色なんて知らねぇし、いつも黒ばっか着てるだろ?だから、たまには明るい色もあった方がいいかなって。」
「……そうですか。」
御影は山吹色の手ぬぐいを静かに見つめた。
この人は……不思議なお方だ。
見知らぬ世界へ突然放り込まれたというのに。
戸惑いながらも、その世界を受け入れ、笑い、楽しもうとしている。
誰かを喜ばせようと自然に贈り物を選び、相手のことを考える。
――以前の若様にはなかった一面だ。
いや…これが本来の朝霧家次期当主の姿なのかもしれない。
♢♢♢
広大な屋敷は夜の静寂に包まれていた。
廊下に人の気配はなく、灯りがともるのは一室だけ。
神楽は自室へ戻ると、今日時雨から渡された手ぬぐいを取り出した。
淡い翡翠色。
それをしばらく眺めたあと、そっと机の引き出しへしまう。
「楽しかったな…。」
城下町を走り回る時雨。
次々と店へ入っていっては出ての繰り返し。
最後にぶっきらぼうに手ぬぐいを差し出してきたこと…。
思い返すだけで自然と頬が緩んだ。
ギシッ――。
「!」
廊下の床が鳴る。
その瞬間、神楽は笑みを消した。
「もう寝るところなのですが…何か御用ですか?」
閉ざされた扉へ向かって、冷たく言葉を投げる。
「……桜殿に会わなかったそうじゃないか。」
扉の向こうから低い声が返ってくる。
「向こうが勝手に決めた約束です。」
「お前から誘うことがないからだろう。」
「誘う必要がありますか?」
互いに一歩も譲らない。
顔を合わせていないのに、どちらも睨んでいるのが分かる。
「……もう寝ますので。」
「話はまだ終わっておらん。」
「あなたと話すことなどありませんよ。」
「なに…?」
「お暇でしたら、澪とでも話してあげてください。」
「……ずいぶんと偉くなったな。」
神楽は何も答えない。
そのまま寝台へ向かおうとしたが、次の一言でその足が止まった。
「朝霧家の息子と、城下町を歩いていたそうだな。」
「!」
澪には朝霧時雨だと気付かれていないはずだ。
今日の出来事は報告されているだろうが、逢瀬と言った時点で時雨の事は女性だと思っているはず。
だとすれば…
「…追っ手ですか。随分と良い趣味をお持ちで。」
「黙れ。朝霧時雨などとつるみよって…あんな没落しかけた家の者と関わる必要があるのか。」
「お言葉ですが…彼は朝霧家の秘術を扱いました。」
「…なんだと?。」
「それだけではありません。見よう見まねの印で、火遁まで放っています。」
「……初耳だな。」
「ここ数日の話ですから。」
早く会話を切り上げたいのだろう。神楽は少し早口になる。
「ですので、これ以上朝霧家を侮辱するような発言はお控えください。」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。
やがて扉の向こうにいる男が口を開く。
「……そうか。婚約を白紙にしたのは……早計だったかもしれんな。」
「……何?」
神楽は思わず扉の方へ振り返る。
「もう寝るのだろう。良い夢を見たまえ。」
「ちょっ……待て!」
神楽が急いで扉を開ける。
だが既にその場にはいなかった。




