第十四話 この世界の元婚約者
雪斗の付き人だと分かり、月城は構えをやめ御影をまっすぐ見る。
「…ここは学校です。生徒以外の立ち入りは禁止されています。たとえそれが付き人であっても…。」
静かに怒っているのが分かる。
御影は表情を変えずに再び頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、若様がなかなかお見えにならなかったもので。」
「あぁ…ごめん。言っとけばよかったな。」
「いえ。若様は何も悪くありません。」
一ミリも申し訳なさそうにしてない御影の態度に、時雨は少し焦り、月城は小さくため息をついた。
「はぁ…。門の入り口に受付がいたでしょう?その者に話を通してから――…」
「その時間が惜しかったもので。」
御影の反論に、月城の眉がぴくりと動く。
「それと、失礼ながら一つ。もし私が若様の付き人ではなく、敵であったなら…この学校の警備は、少々甘いかと存じます。」
「……。」
「私程度の忍びが、ここまで容易く侵入できてしまう…これでは、若様を安心して預けることはできません。今後は校内でも、私が常に付き添うべきかもしれませんね。」
「それはやめて。」
時雨がぼそりと呟くが、御影は聞こえていない振りをしている。
御影の忠告に月城は真面目な顔で答えた。
「……警告、感謝します。警備体制については、こちらでも見直しますので。」
「差し出がましいことを申しました。」
「いえ…。」
「では、若様をお連れしてもよろしいでしょうか。」
月城は時雨へ視線を向け少し悩んだ後、小さく頷いた。
「……分かりました。朝霧、また都合がついた時に改めて話そう。」
「……はい。」
御影は最後にもう一度だけ月城に頭を下げた。
「失礼いたします。さぁ若様、参りましょう。」
「う、うん…。」
(いい所に来てくれたけど…さすがに喧嘩腰過ぎないか…?)
時雨は少しだけ月城を気にしながら、御影に連れられ職員室を後にした。
そしてそのまま廊下を抜け、校舎を出る。
門を越えた瞬間、時雨はいつものように近くの木へ視線を向けた。
「じゃ、帰るか。」
軽く膝を曲げ、枝へ飛び移ろうとしたその時。
御影が静かに腕を伸ばし、時雨の行動を制止した。
「本日は違います。」
「え?」
「今日は馬車です。」
「馬車!?」
時雨は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「なんでまた…」
「旦那様がお待ちですので。」
御影に促されるまま歩いていくと、門から少し離れた場所に、一台の黒塗りの馬車が静かに停まっていた。
朝霧家の家紋が刻まれた立派な馬車だ。
「本当にいた……。」
時雨が呟くと、御影は馬車の扉を静かに開いた。
「若様。」
中を覗き込むと、そこには足を組みながら穏やかな笑みを浮かべた父――宗一郎が座っていた。
「おかえり。遅かったじゃないか。」
「えっと…なんで…?」
「迎えに来たんだ。一緒に帰ろう。」
宗一郎は隣の席を軽く叩き、優しく微笑んだ。
「さあ、乗りなさい。」
宗一郎に促され、時雨は素直に馬車へ乗り込んだ。
「私も失礼します。」
続いて御影も一礼し、向かいの席へ腰を下ろす。
扉が閉まるのを確認し、御者が手綱を鳴らした。
そして馬車はゆっくりと走り始める。
車輪の音が規則正しく響き、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
宗一郎は外を眺めながら、時雨に対して穏やかに微笑んだ。
「たまにはこうして、ゆっくり帰るのも悪くないだろう?」
「……まぁ。」
時雨は短く返事をする。
だが、それ以上言葉は続かない。
(気まずい……。)
男三人だけの密室は、妙に落ち着かなかった。
御影は姿勢良く座ったまま無言。
宗一郎だけが、いつも通り穏やかな表情を浮かべている。
「今日、九条家へ行ってきたんだ。」
「……え?」
時雨は思わず顔を上げる。
「あいつの家に?なんで?」
「決闘の件だ。親として、一度顔を出しておこうと思ってな。」
「あぁ…。」
(御影が話したのか…。)
「君は覚えていないだろうが…。朝霧家と九条家は、昔から深い付き合いがあるんでな。」
(ふーん…。)
時雨はしばらく黙っていたが、少し考えた後小さく口を開いた。
「……そっか。迷惑かけたな。」
「迷惑だなんて思っていない。親というものは、子が起こしたことに向き合うのも務めだからな。」
(子…ね。)
宗一郎の言葉に返事をせず、ただ窓の外へ視線を向ける。
夕暮れに染まる街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
家まではもうすぐだ。
♢♢♢
九条家――。
バシンッ!!
重く鈍い音が屋敷中に響き渡る。
正臣の顔が大きく横へ弾かれ、そのまま床へ膝をつく。
じんじんと熱を帯びる頬へ、自分の手をゆっくり添える。
「……。」
義宗は怒りに震えた拳をおろし、正臣を見下ろしていた。
「お前は…私の顔に泥を塗ったのだぞ。」
「………。」
「朝霧家を見下していた結果がこれか!」
「……。」
「温情で退学を免れたなど…恥を知れ。」
客間に重苦しい沈黙が流れる。
正臣は唇を噛み締めたまま俯いていた。
「まさかとは思うが…神楽家まで巻き込んではいないだろうな。」
その一言に、正臣の肩がぴくりと震えた。
「……。」
正臣から答えは返ってこない。
だが、その表情だけで十分だった。
「あの家と深く関わるなと、何度言えば分かる!」
「うるさい!!」
神楽の事を言われ、正臣が初めて声を荒げた。
「誰と仲良くしようが……俺の勝手だろう!」
「お前っ……!!」
バシィッ!!
二度目の平手が正臣の頬を打ち抜く。
正臣の身体は勢いよく畳の上へ転がり、肩を強く打ち付けた。
先程よりも強い力だ。
「勘違いするな。私が怒っているのは、お前が敗れたことではない。九条家の名を背負う者としての自覚を失い、自ら火種を撒き、他家まで巻き込もうとしたことだ。」
「……。」
「己の力を過信するな。今のお前は――弱い。」
義宗はそれだけ言い残し、部屋を後にした。
襖が静かに閉まると、広い部屋には正臣だけが残された。
「……。」
拳を強く握り締める。
爪が掌へ深く食い込み、一筋の血がぽたりと畳へ落ちた。
「朝霧……。」
悔しさを押し殺すように名を呟いた。
拳の痛みよりも、胸の奥に残る敗北の方が遥かに大きかった。
♢♢♢
一方その頃――。
朝霧家では、湯浴みを終え着替えも済ませた時雨が、自室でごろりと寝転がっていた。
「あー……暇だ。」
布団の上を転がりながら天井を見上げる。
やることが、本当にない。
寝れば良いのだろうが、目がさえて眠れない。
そしてふと、机の上へ目をやる。
――時雨の日記だ。
「そういえば…最近のは読んだけど、もっと前のは見てねぇな。」
暇つぶしにはちょうどいい。
時雨は日記を手に取ると、布団へ寝転んだままページをめくる。
「人の日記を読むとか…なんか変な感じだなぁ。」
そう思いながらも、ぱらぱらとページをめくっていく。
そこには術の失敗談や、その日にあった出来事、父や母への想い、御影との何気ない会話まで、様々なことが丁寧な文字で綴られていた。
「何年かかっても…こんな字書けねぇぞ。」
同じ"時雨"とは思えないほど几帳面な文章に、思わず感心する。
ページをめくる手は止まらない。
そして、一枚のページで指先がぴたりと止まった。
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〇月〇日
初めて婚約者に会う日。
親同士が勝手に決めたことだから、あまり乗り気ではない。
向こうもきっと同じだろう。
実際に会ってみると――。
ものすごく睨まれた。
既に嫌われているみたいで少し傷つく。
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「……え?」
もう一度、日記の内容を確認する。
見間違いではない。
確かに“婚約者”と書かれている。
「彼女じゃなくて婚約者?」
親同士…ということは政略結婚的なアレだろう。
この内容は気になるなと、再び日記に視線を落とした。
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○月○日
嫌われていると思っていたが、何故か会おうと誘われた。
二人で会うのは初めての為、少し緊張する。
近くには御影もいるが……。
だが、会ってみれば意外と普通だった。
緊張すると表情筋が固まってしまい、睨んでいるように見えるとか何とか。
嫌われていないようで良かった。
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○月○日
今日は街を歩いた。
途中で寄った店に、気になる物があったようだ。
彼女は髪飾りをじっと見つめていた。
僕が贈っても良いのだろうか。
少し悩んだが、彼女が他の商品を見ている間に買い、それを渡した。
驚き、喜び、照れ。
表情がころころと変わる姿が面白かった。
贈れて良かったと思う。
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○月○日
彼女と会うのは楽しい。
学校での辛い出来事や、自身の境遇を忘れられるから。
これが"好き"ということなのだろうか。
目の前で頬を膨らませながら、美味しそうに食べる姿に思わず笑ってしまう。
親同士が勝手に決めた婚約だが、それでも。
彼女を大切にしていこうと誓った。
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「青春謳歌してんじゃねぇか…。」
その後も日記は続く。
街を歩いた日。
美味しいものを食べに行った日。
季節の祭りへ行った日…。
何気ない思い出が、何ページにもわたって丁寧な文字で綴られていた。
そのどれもが幸せそうで。
読んでいるこちらまで、自然と笑みが零れてしまう。
――だが。
次ページを開いた瞬間、時雨の笑みは消えた。
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○月○日
もう婚約者と会うなと父上に言われた。
納得できず、御影に頼み父上に内緒で彼女に会った。
話を聞くと、婚約破棄は彼女の父が言い渡したようだ。
いつまで経っても術が扱えない僕に、失望したからだそうだ。
君は、それでいいのかと聞いた。
嘘でもいい。
「嫌だ」「一緒にいたい」と言ってほしかった。
だが。
返ってきた答えは、あまりにも残酷だった。
「構いません。元々、親同士が勝手に決めた婚約ですもの。」
その言葉に思わず彼女の肩を掴んだ。
縋るように、もう一度だけ僕は尋ねたんだ。
「本当に…そう思っているの?」
結局、彼女は最後まで僕と目を合わせようとはしなかった。
「えぇ。術も使えない貴方と結婚する理由はありませんもの。これで…お互い自由になれますね。」
その言葉は、今でも一言一句覚えている。
僕はこんなにも嫌われていたのだろうか。
そしてそのまま静かに彼女の肩から手を離した。
「……ごめん。」
その一言しか言えなかった。
その瞬間、空から雨が降り始めた。
ちょうど良かった。
これなら涙なのか雨なのか、誰も分からない。
僕はその場から走り出した。
後ろで彼女が何かを叫んでいるが、僕は走り続けた。
激しく降る雨音にかき消され、何一つ聞き取ることは出来なかった。
そして彼女が見えなくなると、突然腕を掴まれた。
――御影だった。
振り払おうとしても、御影は離さない。
「……今だけは、お許しください。」
そのまま、何も言わず僕を抱き締めてくれた。
私は堪えていたものが溢れ、声も出せないまま涙を流した。
御影は何も聞かない。
何も言わない。
ただ静かに、雨の中で共に濡れ続けてくれた。
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「……。」
時雨は日記を閉じることもできず、そのページを見つめたまま動けなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「……なんだよ、これ。」
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○月○日
今日で婚約者のことを書くのはやめにする。
でも、彼女と過ごした日々は、僕にとってかけがえのないものだった。
だから、このページを破ることはしない。
今日、正式に彼女との婚約破棄が決まったようだ。
父上は酷く怒っていた。
でも、仕方のないことだ。
彼女も名家の娘だから。
やはり、信じられるのは朝霧家の人間だけだ。
――さようなら、澪。
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「……。」
静かにページをめくる。
その先には学校での出来事や御影との鍛錬。
父や母との何気ない会話に術の練習。
そんな日常が綴られているだけだった。
もう、婚約者――澪の話は一切出てこない。
日記の中で、澪との時間は終わっていた。
時雨は本を閉じ、天井を見上げる。
「……澪、か。俺は覚えてねぇけど……。九条くらい腹立つな。」
事情があったのかもしれない。
家の決まりだったのかもしれない。
それでも…日記を書いた時雨の気持ちを思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「ほんと…不憫すぎるだろ。お前。」
窓の外では虫の声が聞こえていた。
ふと、別の世界のことが頭をよぎる。
「……雫。元気かな。」
俺の…好きな人。誰にも言わなかったが初恋だ。
…陽斗は何故か気付いてたみたいで、よくからかっていたが。
そして――。
この世界から向こうへ行ってしまった"もう一人の時雨"は――。
「何してっかな……。」
誰に聞かせるでもなく呟き、時雨は静かに日記を胸へ抱えた。




