第十一話 初めての座学
♢♢♢
忍の世界では、朝食を終えた時雨が屋敷の中を一人歩いていた。
「広いなぁ……。」
実家の何倍あるのだろうか。
廊下を進み中庭へ出ると、軒先に革でできた球が無造作に置かれていた。
「おっ、ボールじゃん!」
見つけるやいなや、懐かしさのあまり手に取り軽く地面へ突いてみる。
トン。
「んー……。」
トン。
やはり思ったほど跳ねない。
「これじゃドリブルは無理かぁ…。」
バスケがしたかったが、ここまで跳ねないとなると難しい。早々に諦め、時雨は球を足元へ落とした。
「サッカーならいけるか?」
軽く蹴り上げる。
一回。
二回。
三回。
膝、足の甲、太もも。
球を一度も落とすことなく操り、そのまま地面へ落とすと、今度は軽快な足さばきで庭を駆け回る。
「ははっ!やっぱこの身体すげぇわ!」
前の世界にいたときも、サッカーはしたことがある。
だが運動神経が良くない為、シュートも決められないし、パスも空振っていた。
しかし今は思った通りに足が動く。
走るだけで楽しい。
ボールが変な方向へ飛んでいかない。
夢中で球を追い掛けていると、不意に後ろから声がした。
「若様。」
「うわっ!」
振り返ると、いつの間に現れたのか御影が静かに立っていた。
「だから急に出てくんなって…。」
「何をしておられるのですか。」
「え?サッカーだけど」
「……さっかぁ?」
「教えてやるから、あっち行って!ほら、早く!」
時雨に言われるがまま、御影は数歩後ろへ下がる。
時雨はにやりと笑い、御影に向かって球を軽く蹴った。
球は地面を転がり、御影の足元まで届く。
御影はそれを静かに拾い上げ、しげしげと眺めた。
「若様。これは本来、投擲の鍛錬に用いる球でございます。そのように蹴って使うものではございません。」
「細けぇことはいいんだよ。いいから俺みたいにその球蹴ってくれ。」
御影は困ったように球と時雨を見比べる。
「……蹴る、のでございますか。」
「そうそう!やってみ!」
御影は半信半疑のまま、人生で初めて球を足で蹴ろうと構えた。
御影はしばらく球を見つめると、小さく息を吐いた。
「……失礼いたします。」
恐る恐る足を振る。
コロコロ、と球は時雨の足元へ転がった。
「おっ!いいじゃん!」
時雨は嬉しそうに笑うと、軽く足で受け止め、そのまま御影へ蹴り返す。
「…失礼いたします。」
「はっはっ!いちいち言わなくていいって!」
時雨の楽しそうな声が中庭に響く。
間もなく出発の時間。
身支度を整え学校へ向かわなければならない。
しかし――。
「……。」
御影は何も言えなかった。
目の前で笑う時雨を見ていると、もう少しだけこの時間が続けばいいと思ってしまったからだ。
前にこの世界にいた朝霧時雨は、あまり笑わない人だった。
感情を表へ出すことはほとんどない。
嬉しくても小さく微笑む程度だった。
だからこそ、自分はその小さな変化を誰よりも大切にしてきた。
だが、今目の前にいる時雨は違う。
「ははっ!もっと強く蹴ってもいいぞ!」
この方は…よく笑い、よく驚き、そしてよく怒る。
その姿を見ていると、不思議と心が温かくなる。それと同時に、胸の奥が少しだけ締め付けられた。
「………。」
以前の時雨ではない。その中にいるのは別の時雨だ。
この人と過ごす時間が増えるほど。
笑い合う時間が増えるほど。
自分の中にある、前の時雨との思い出が少しずつ上書きされていく気がした。
御影は静かに球を拾い上げると、もう一度だけ時雨へ蹴り返した。
しばらく球を蹴り合ったあと、時雨は大きく息を吐いた。
「楽しかったー!」
額の汗を腕で拭い、満足そうに笑う。
御影も小さく微笑むと、球を元あった場所へ戻した。
「若様。そろそろお時間でございます。」
「あ、もうそんな時間か。」
「では、行きましょう。」
御影について行き、自室へ入ると御影が衣装を差し出した。
「本日はこちらを……。」
「ん?これ着るの?何か昨日と違くない?」
時雨は受け取りながら首を傾げる。
昨日着ていた忍装束とは違い、黒を基調とした制服だった。
動きやすそうな立ち襟の上着に、細身の袴風のズボン。
一見すれば学生服のようにも見えるが、袖や裾は戦いやすいよう工夫されている。
胸元には、小さく朝霧家の家紋が刺繍されていた。
「普段はこの格好で学校へ通われます。訓練や実戦のみ、忍装束へ着替える決まりとなっております。」
「へぇ。」
時雨は制服に袖を通しながら鏡を見る。
「昨日は座学もなく、試験のみでしたので忍装束のまま向かいましたが…。」
「なるほどなぁー。まぁ俺は何でもいいけど。」
鏡の前で髪の毛を整えていると、御影が「失礼します」と横から入り、時雨の代わりに襟を整えてくれた。
「…母ちゃんかよ。」
「付き人でございます。」
「知ってる…。」
ボケても自分の期待しているツッコミがこない。
(陽斗なら、何て返すだろうなー…。)
「若様。整いましたので、向かいましょう。」
「はーい。」
二人は並んで部屋を後にし、影陰忍術学校へ向かった。
♢♢♢
影陰忍術学校へ到着すると、時雨は校門の前で足を止めた。
「じゃあ、また夕方な。」
そう言って振り返る。
御影は一礼すると、静かに口を開いた。
「本日は夕刻頃、お迎えに参ります。」
「今日は一日いないのか?」
「はい。少々、別の用事がございますので…。何かございましたら、鳩を飛ばしてください。」
「……鳩?」
「はい。屋敷から預けております忍鳩がおりますので、文を結び届けていただければ、すぐに駆け付けます。」
(この世界の連絡手段って鳩なのか…?)
「では、失礼いたします」
「あ、お、おう。」
返事をした次の瞬間、ふわりと風が吹く。
時雨が目を瞬かせた時には、そこに御影の姿はなかった。
しばらく校門の前で立ち尽くす。
「で……?その鳩どこだよ。」
思わず頭を掻きながら苦笑した。
「その辺で捕まえるとかじゃないよな……?」
そう呟き、時雨は校門をくぐった。
廊下を歩き教室へ向かっていると、やはり生徒たちの反応は昨日とは違っていた。
「……朝霧だ。」
「あっち行こう……。」
廊下を歩くだけで、人が自然と道を空ける。
昨日まで向けられていた嘲笑や侮蔑の視線はない。
代わりにあるのは、畏怖と警戒。
(昨日の朝とは大違いだな。)
卒業してしまえば、こいつらと関わることもない。
そもそも、この世界で新しく人間関係を築くつもりなどなかった。
教室内も同じだった。
談笑していた生徒たちは時雨を見るなり口を閉ざし、さりげなく距離を取る。
時雨は気にも留めず、空いている席へ座りそのまま机へ突っ伏す。
「かあぁ…寝よ…。」
心地よい風が窓から吹き込み、いつの間にか意識が遠のいていく。
――どれくらい経っただろうか。
ふわり…と、頭の上に何か柔らかいものが乗った感覚がした。
「ん……?」
時雨はゆっくりと顔を上げる。
すると頭の上に乗っていたそれは、小さく羽ばたきながら机の上へ降り立った。
「……。」
丸い瞳でこちらを見つめる白い鳥。
「……鳩?」
雪のように白い羽毛に包まれた、美しい忍鳩。
陽の光を受ける首元の羽はわずかに銀色へと輝き、凛とした気品を漂わせている。
足首には朝霧家の家紋が刻まれた小さな銀色の足環が。
忍びの世界で古くから使われてきた伝令用の鳩だ。
各家で大切に育てられ、一度覚えた行き先は決して忘れない。
主人からの文を運び、時には緊急の知らせを届ける、忍びにとって欠かせない存在であった。
「朝言ってた鳩って、お前のことか。」
鳩は小さく首を傾げる。
「そういや、名前聞いてなかったな…。ってか、お前名前あんのか?」
もちろん、返事が返ってくるはずもない。
鳩は丸い瞳で時雨を見つめるだけだった。
「ずっと鳩って呼ぶのもなぁ…。名前…名前…白いからシロとか…?いや、それはさすがに安直すぎるか。うーん……。」
しばらく唸ったあと、時雨は小さく頷いた。
「よし。今日からお前は――ハク。それでいいや。」
その名を口にした瞬間だった。
バサッ――。
白い羽が大きく広がり、ハクは勢いよく羽ばたく。
「うおっ!」
次の瞬間には、時雨の頭の上へちょこんと乗っていた。
「グルル……グルッ。」
嬉しそうに喉を鳴らし、何度も頭へ頬を擦り寄せてくる。
「お、おいおい…。そんなに気に入ったのかよ。」
時雨は苦笑しながら、ハクのする行動を止めはしなかった。
ガララ――。
教室の扉が勢いよく開き、担任の月城が教室へ入ってくる。
「席に着けー。」
いつものように教室を見渡し――その視線がぴたりと止まった。
「……。」
頭の上に白い忍鳩を乗せた時雨と、ばっちり目が合う。
「朝霧。」
「え?はーい。」
「なぜ頭に忍鳩が乗っている。」
「いや、そんなこと言われても……。」
時雨は困ったように肩をすくめる。
月城は深いため息をつくと、時雨の席まで歩み寄った。
「授業中は忍鳩を教室へ入れてはいけない。ほら、降りなさい。」
そう言ってハクへ手を伸ばす。
しかし――。
ハクはぷいっと顔を背け、時雨の頭へさらにしがみついた。
「グルル。」
「……。」
月城はもう一度手を伸ばす。
するとハクは抵抗するように足へ力を込めた。
「いたたたたたっ!」
時雨が頭を押さえて悲鳴を上げる。
「爪! 爪刺さってる!!」
時雨の悲鳴も虚しく、ハクはまったく動こうとしない。
これ以上は怪我をしてしまう…と、月城も思わず手を止めた。
「仕方ない…今日は特別に許可を出すが、次回からは忍鳩を教室へ入れないように。」
「俺に言われても……いや、すみません…。」
時雨は苦笑しながら頭の上を見上げる。
「次からは外で待っててくれよ…?」
「グル。」
返事だけは立派だった。
そして月城は教壇へ立つと、黒板へ大きく五つの文字を書いた。
火・水・風・土・雷。
「本日の授業は復習の意味も兼ねて、五大遁術を基礎から学ぶ。」
月城の言葉に反応し、生徒たちが静かに教科書を開く。
時雨はキョロキョロしながら真似て同じページを開いた。
月城は五つの文字を順に指し示した。
「忍術の基本となるのが、この五大遁術。火遁、水遁、風遁、土遁、雷遁。どれほど優れた忍であろうと、この基礎を疎かにしてはいけない。」
そう言うと、月城はゆっくりと時雨へ視線を向けた。
「朝霧…。君は特に聞いておきなさい。」
「えっ?俺?」
「もう忘れたのか?昨日、君は見よう見まねで火遁を発動させただろう?」
「あー…。」
「術は威力だけを求めるものではない。制御できなければ、自分だけでなく周りにいる者たちまで危険に晒してしまうんだ。」
「はい……。」
「覚えておきなさい。」
時雨も頭の上のハクを気にしながら、小さく頷いた。




