第8話「すれ違う二つの愛の形と、決して交わらない過去と現在」
城館の客間には、淹れたての香草茶から立ち上る淡い湯気が漂っていた。
重厚なオーク材のテーブルを挟んで、アルフレートとヴィオラが向かい合って座っている。
レオンハルトは扉の外に立ち、中に入ることはなかった。
しかし、その気配は確実にそこにある。
まるで、彼女をあらゆる外敵から守るための不可視の盾のように。
アルフレートは陶器のカップを見つめたまま、なかなか口を開くことができなかった。
喉の渇きは限界に達しているのに、一口のお茶すら喉を通らない。
目の前に座るヴィオラは、姿勢を正し、静かに彼が言葉を発するのを待っている。
その佇まいは、かつて王宮で見ていた彼女と何も変わらないはずなのに、内側から放たれる温度がまるで違っていた。
アルフレートは震える両手を膝の上で強く握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
「……ヴィオラ。俺は、取り返しのつかない過ちを犯した」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「シャルロットの証言が嘘だと知った。俺は、彼女の涙に目を曇らせ、君の真実を何も見ようとしなかった。君がどれほど傷ついていたか、想像することすら放棄していたんだ」
アルフレートは頭を深く下げた。
王太子としての矜持もすべて投げ捨て、ただ一人の愚かな男としての懺悔だった。
「すまなかった。どんな言葉を並べても許されることではないとわかっている。だが、もし君が望むなら……王都へ戻ってきてほしい。俺のすべてを懸けて、君の名誉を回復し、生涯君を守り抜くと誓う」
客間に、重苦しい沈黙が降りた。
窓の外から、風に揺れる木々の葉擦れの音だけが微かに聞こえてくる。
ヴィオラはゆっくりとカップをソーサーに置き、アルフレートを見つめた。
その瞳に、怒りはなかった。
憎しみも、蔑みも、そして歓喜の感情も。
「殿下」
透き通った水面のような、穏やかな声。
「殿下は、間違えただけです」
その言葉に、アルフレートは弾かれたように顔を上げた。
「殿下は、虐げられている令嬢を守ろうとされた。それは、王族としての正義感と、持ち前の優しさゆえの行動だったのだと、私は理解しております。だから、殿下を憎んだことは一度もありません」
「ヴィオラ……」
「ですが、それはもう、終わったことなのです」
ヴィオラの言葉は、決して鋭い刃ではなかった。
だが、その徹底した「過去」としての扱いは、アルフレートの胸をいっそ切り裂かれるよりも深くえぐった。
彼女はもう、アルフレートのいる世界には生きていない。
彼が手を伸ばしても、指先一つ触れることのできない、遠く離れた場所に立っているのだ。
「俺は……君を信じなかった。君が一度も嘘をついたことがない人だと、知っていたはずなのに」
「私は、ここでたくさんのことを学びました」
ヴィオラは微かに目尻を下げ、窓の外へと視線を向けた。
「凍えるような冬の寒さも、土の匂いも、薪が爆ぜる音の温かさも。そして、言葉がなくても伝わるものがあるのだということも」
アルフレートは、彼女の視線の先を追った。
中庭の芝生の上で、レオンハルトが小さな少女——エルナを肩車している。
無愛想な辺境伯の顔には、微かな、しかし確かな柔らかな皺が刻まれ、少女の高く澄んだ笑い声が青空に響いていた。
ヴィオラがその光景を見つめる横顔には、アルフレートが王都でついぞ見たことのない、深い慈しみと愛情が溢れていた。
「ヴィオラ……あなたは……幸せですか、ここで」
恐る恐る尋ねたその問いに、彼女はゆっくりと振り返った。
そして、花のつぼみが春の陽差しを浴びて一斉に開くような、眩しいほどの笑顔を見せた。
「はい。とても」
その瞬間、アルフレートの胸の中で、何かが完全に砕け散った。
彼が守りたかった笑顔。
彼が引き出すことのできなかった笑顔が、ここにある。
これ以上の言葉は、自らの惨めさを際立たせるだけの無意味なノイズに過ぎない。
アルフレートはゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。
「……そうか。君が、幸せでよかった」
客間を出ると、廊下にはレオンハルトが立っていた。
アルフレートは彼に向き直り、何かを言おうと口を開きかけたが、喉の奥で言葉が溶けて消えてしまった。
ただ、無言で深く頭を下げる。
『大切にしてやってくれ』という、敗者の最後の一言すら、口にする資格はない。
レオンハルトは小さく顎を引き、王太子の背中が完全に見えなくなるまで、その場から一歩も動かなかった。
馬のいななきが遠ざかり、辺境の城館に再び静かな時間が戻ってくる。




