第9話「王命という名の暴威と、精霊の森が静かに牙を剥く夜」
アルフレートが去ってから数日。
ヴァルト領には再び平穏な日々が戻ってきたかに見えた。
台所では相変わらずヴィオラが竈の前に立ち、ヨハン爺とエルナがその周りで笑顔を見せている。
しかし、その平穏は、薄氷の上に築かれた脆いものに過ぎなかった。
王都からの二度目の使者が到着したのは、冷たい雨が石畳を打ち付ける夕暮れ時のことだった。
今度の使者は、王家の紋章だけでなく、精霊神殿の最高位を示す白金の杖を掲げていた。
応接室に招き入れられた使者は、濡れた外套を脱ぐこともせず、レオンハルトの前に分厚い羊皮紙を突きつけた。
「王太子殿下の個人的な感情は、もはや関係ありません。これは、国王陛下ならびに精霊神殿長連名による、絶対の『王命』です」
使者の声は、底冷えするような高圧的な響きを持っていた。
「ヴィオラ・ヴァルトラーフ嬢を、ただちに王都へ召還します。彼女は大愛し子として、国家の庇護下に置かれなければならない。辺境の地で野放しにしておくなど、神への冒涜に等しい」
「彼女は私の妻だ」
レオンハルトの低く凄絶な声が、室内の空気を一瞬で凍らせた。
暗銀色の瞳には、かつて戦場で無数の敵を葬ってきた猛獣のような殺気が宿っている。
使者は一瞬怯んだが、すぐに神殿の権威を盾に薄笑いを浮かべた。
「辺境伯爵。貴族の婚姻など、王命の前では紙切れ同然です。逆らえば、ヴァルト領全体が反逆の罪に問われることになりますぞ。愛し子を差し出せば、領地には莫大な恩賞が下賜される。賢明な判断をなさいませ」
レオンハルトの巨大な手が机の上の羊皮紙を掴み、ギリギリと握り潰す。
破れる寸前の羊皮紙の音が、静かな応接室に不気味に響き渡った。
「……返答は、保留する。下がれ」
使者が退出した後、レオンハルトは一人、暗い執務室で額を押さえていた。
王命に逆らえば、領民を戦火に巻き込むことになる。
しかし、ヴィオラを手放すことなど、自分の心臓をえぐり出されるよりも耐え難いことだった。
その夜、城館の空気はひどく重く、息苦しかった。
領民や騎士たちの間にも、王都からの理不尽な圧力に対する怒りと、避けられない破滅への不安が影を落としている。
ヨハン爺も台所でため息をつき、エルナは何かを感じ取ったのか、レオンハルトの足にすがりついて離れようとしなかった。
ヴィオラは、そのすべての感情の変化を肌で感じ取っていた。
『私のせいで』
夜更けの台所。
ヴィオラは一人、小さな鍋の前に立っていた。
翌日のためのスープを仕込んでいるはずなのに、手が震えて木べらをうまく動かせない。
いつもなら楽しげに舞う精霊の光も、今夜は不安げに明滅を繰り返し、鍋の周りを彷徨っているだけだ。
味見をしても、舌の上が麻痺したように何も感じない。
過去のトラウマが、黒い泥のように胸の奥から湧き上がってくる。
自分はいつも、他人の平穏を壊す存在だった。
侯爵家でも、王宮でも。
そして今、この温かい居場所すらも、自分の存在そのものが原因で壊れようとしている。
ならば、自分が消えればいい。
王都へ戻り、再び心を殺して、人形のように生きれば。
そうすれば、レオンハルトもエルナも、この領地の優しい人々も、皆傷つかずに済む。
ヴィオラが木べらを置き、両手で顔を覆ったその時。
背後から、静かな足音が近づいてきた。
「……こんな時間に、何をしている」
レオンハルトだった。
彼は上着を羽織らず、シャツの胸元を開けたまま、ヴィオラの背中を痛ましげに見つめている。
ヴィオラは顔を上げず、震える声でつぶやいた。
「旦那様。私は……明日、王都へ戻る準備をします」
「……」
「私のせいで、皆様にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいきません。私が去れば、すべて丸く収まるのです」
その言葉を言い終える前に、レオンハルトが大きな歩幅で距離を詰め、ヴィオラの華奢な肩を力強く掴んだ。
乱暴ではない。
しかし、決して逃がさないという絶対的な意志のこもった強さ。
「誰が、迷惑だと言った」
地鳴りのようなその声に、ヴィオラはゆっくりと顔を上げた。
彼の暗銀色の瞳が、かつてないほどの熱を帯びてヴィオラを射抜いている。
「あなたは、何もわかっていない。あなたが去ることが、この場所にとってどれほどの喪失になるか」
レオンハルトの呼吸が荒い。
言葉を持たない男が、自らの内にある巨大な感情の塊を、どうにかして伝えようと必死に足掻いている。
窓の外。
夜の闇に包まれた中庭で、突如として無数の精霊草が爆発的に発光し始めた。
それはまるで、二人の行き場のない感情に呼応するかのように、城館全体を青白い光の奔流で包み込んでいく。




