第7話「砂を噛むような後悔と、青き瞳に映る辺境の陽だまり」
北へ向かう街道は、馬の蹄が蹴り上げる冷たい泥と、容赦なく吹き付ける凍てつく風に支配されていた。
マグノリア王国の王太子、アルフレート・フォン・ヴェルテは、最低限の近衛騎士だけを従え、ただひたすらに手綱を握りしめていた。
王都を出発してから十日。
長旅の疲労は極限に達し、金糸で縁取られた上等な外套は泥と埃にまみれ、かつての美貌には深い隈が刻まれている。
それでも彼は、馬の歩みを休めることを許さなかった。
喉の奥には、いくら水を飲んでも消えない、砂を噛むような乾きが張り付いている。
脳裏にこびりついて離れないのは、数週間前の王宮での光景だった。
シャルロット・ミュルベルクが、自らの嘘を暴かれ、青ざめた顔で床に崩れ落ちたあの夜。
彼女の流す涙は、かつてアルフレートの庇護欲を掻き立てた可憐な真珠から、ただの醜い泥水へと変わっていた。
彼女がヴィオラを陥れるために仕組んだ数々の罠。
自作自演の怪我、偽造された脅迫状、そして周囲の貴族たちを買収して作り上げた偽りの証言。
すべてが白日の下に晒された瞬間、アルフレートの足元を支えていた「正義」という名の強固な盤石は、音を立てて崩れ去った。
自分が切り捨てたのは、悪辣な令嬢などではなかった。
誰よりも誠実で、一度の反論もせず、ただ静かにすべての理不尽を受け入れた、無実の少女だったのだ。
その事実に気づいた時、アルフレートの胸を貫いたのは、怒りよりも先に、致死量の後悔だった。
呼吸をするたびに、肺の奥から針で刺されるような鋭い痛みが走る。
なぜ、彼女の目を見なかったのか。
なぜ、彼女の沈黙の底にある真実に気づけなかったのか。
馬が前足を高く上げ、いななきとともにヴァルト領の境界を示す石碑を越える。
その瞬間、アルフレートは肌を刺すような冷気の中に、奇妙なほど柔らかい気配が混ざり込んでいることに気づいた。
荒涼としているはずの辺境の風景が、どこか違う。
まだ雪解けには早い季節だというのに、街道沿いの木々の枝には、淡い緑色の新芽が膨らみ始めている。
空気を満たすのは、血と鉄の匂いではなく、かすかに甘い土と花の香り。
そして、視界の端でチラチラと明滅する、無数の淡い光の粒。
それは幻覚かと思うほどに美しく、王都の神殿でしか見られないはずの純度の高い精霊の輝きだった。
アルフレートは息を呑み、手綱を握る力を強める。
ヴァルト領の城館が見えてきた。
黒く重々しい石造りの要塞は、かつての武骨な威圧感を失い、その壁面のそこかしこに青白く発光する精霊草の蔓を這わせている。
まるで、城全体が呼吸をし、生きているかのようだった。
城門をくぐり、中庭の石畳に蹄の音を響かせると、そこにはすでに一人の男が立って待ち受けていた。
漆黒の外套を羽織った辺境伯、レオンハルト・ヴァルトラーフ。
彼は腕を組み、彫りの深い顔に一切の表情を浮かべることなく、ただ静かに王太子を見上げている。
アルフレートは馬から飛び降り、近衛騎士の制止を振り切ってレオンハルトの正面へと歩み寄った。
王族としての威厳を保とうとするが、レオンハルトから放たれる、山のように動じない静かな覇気の前に、足取りがわずかに重くなる。
「……辺境伯。突然の訪問を許してほしい」
アルフレートの絞り出すような声に、レオンハルトは小さく顎を引いた。
「王太子殿下。ここは王都から遠く離れた果ての地。殿下をお迎えする準備など、何も整っておりません」
その声には、皮肉も敵意もない。
ただ、この場所に王太子が立ち入る理由など存在しないという、絶対的な拒絶の意思が込められていた。
アルフレートは奥歯を噛み締め、視線を城館の奥へと向ける。
「彼女は……ヴィオラ嬢は、どこにいる。私は、彼女に直接伝えなければならないことがあるのだ」
「妻は今、裏庭におります。しかし、殿下にお会いするかどうかは、彼女自身の意思によります」
『妻』という単語が、アルフレートの胸を鋭くえぐる。
レオンハルトは引き返し、無言で城館の裏手へと続く回廊を歩き出した。
アルフレートはその後ろ姿を追いかける。
石造りの回廊を抜けた先、開けた裏庭の景色を見た瞬間、アルフレートの足が地面に縫い付けられたように止まった。
春の陽光が降り注ぐ中庭。
そこに、簡素な綿のドレスを着て、土にまみれたエプロンを身につけたヴィオラがいた。
彼女は小さな鍬を手に、領民の女性たちと一緒に笑い合いながら、何かを植えている。
その横顔には、王都の舞踏会で張り付けていたような、薄氷のように冷たい作り笑いは微塵もなかった。
陽だまりのように柔らかく、どこまでも自然で、命の喜びに満ちた笑顔。
彼女の周囲には、精霊の光の粒がまるで親しい友人のように楽しげに乱舞している。
その圧倒的なまでの美しさと温かさに、アルフレートは呼吸を忘れた。
『これが、本当の彼女だったのか』
王都で彼が求めていた「完璧な婚約者」という型に、彼女を押し込め、息を止めさせていたのは、他でもない自分自身だったのだ。
アルフレートの喉から、声にならない嗚咽が漏れる。
ヴィオラが気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
その新緑色の瞳が、アルフレートの姿を捉える。
驚きに見開かれたその瞳の奥に、かつて彼に向けられていた義務感や、別れの夜に見せた静かな諦念の色を探す。
しかし、そこにあったのは、見知らぬ遠方の客を見るような、ただの穏やかな凪だった。
それが、アルフレートにとって何よりも残酷な真実として、突き刺さった。




