第6話「春風を切り裂く王都からの使者と、揺るぎない辺境の拒絶」
ヴィオラがヴァルト領にやって来てから、三ヶ月の月日が流れた。
雪解け水が小川を満たし、固く閉ざされていた土の下から新しい生命が顔を出し始める頃。
その穏やかな春の訪れを暴力的に引き裂くように、王家の紋章を高く掲げた豪華な馬車が、城館の中庭に滑り込んできた。
泥一つ跳ねていない車体は、この辺境の風景の中で異物のように浮いている。
馬車から降り立ったのは、金糸の刺繍が施された王都の外套をまとった高慢な態度の使者だった。
彼は出迎えた騎士たちに目もくれず、応接室へと直行すると、王太子の封蝋が押された分厚い親書を机の上に叩きつけるように置いた。
レオンハルトは執務机の奥で腕を組み、冷ややかな視線で使者を見据えている。
その傍らには、普段着のまま呼び出されたヴィオラが、静かに控えていた。
使者は咳払いをして喉を鳴らすと、羊皮紙を広げ、芝居がかった声で読み上げ始める。
「王太子アルフレート・フォン・ヴェルテ殿下より、ヴィオラ・ヴァルトラーフ嬢へ。先の婚約破棄において、シャルロット・ミュルベルク嬢の証言に重大な虚偽があったことが判明した。よって、君に対する追放の決定は不当なものであったと認める」
応接室の空気が、一瞬にして張り詰める。
レオンハルトの暗銀色の瞳が、刃のように細められた。
「殿下は自らの過ちを深く後悔しておられる。王太子として正式に謝罪するとともに、君が望むのであれば、然るべき補償を与え、ただちに王都への帰還を許可するとの仰せである」
読み終えた使者は、当然のようにヴィオラが歓喜の涙を流してひざまずくものと信じて疑わない顔をしていた。
しかし、ヴィオラの表情には一切の波風が立っていなかった。
彼女は差し出された手紙を手に取り、文字の羅列を視線でなぞる。
アルフレートの几帳面な筆跡。
かつては、この文字を見るだけで胸が締め付けられるような義務感と緊張を感じていた。
だが今は、何の感情も湧き上がってこない。
『遅い』
ただ、事実としてそう思っただけだった。
王都での冷たい記憶は、辺境で重ねた温かいスープの匂いと、精霊草の光の中に、すでに遠く色褪せてしまっている。
彼女は手紙を静かに三つに畳み、机の上に戻した。
「……お返事は、いかがなさいますか」
沈黙に耐えかねた使者が、怪訝な顔で問い詰める。
ヴィオラが口を開く前に、レオンハルトの低く地を這うような声が室内に響いた。
「あなたは……王都に戻りたいですか」
その声には、隠しきれない激しい動揺と、懇願に似た響きが混ざっていた。
机の下で固く握りしめられた彼の巨大な拳が、微かに震えている。
ヴィオラは迷うことなく、レオンハルトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「いいえ」
一切の濁りもない、澄み切った即答。
レオンハルトの呼吸が小さく止まり、次の瞬間、机の下の拳が音を立てて緩むのがわかった。
使者は信じられないものを見るように目をむいた。
「な、正気ですか! 王太子殿下の温情を無にするなど、辺境の寒さで頭がおかしくなったのか!」
「お引き取り願おう」
レオンハルトが立ち上がり、使者を威圧するように見下ろす。
その背中からは、大切なものを絶対に守り抜くという強烈な意思が、目に見えるほどの気迫となって立ち上っていた。
使者が追い返された数日後、事態はさらに複雑な様相を呈し始める。
精霊神殿の上位司祭が、多数の護衛の僧兵を伴ってヴァルト領を正式に訪問したのだ。
彼らは中庭に咲き乱れる精霊草と、ヴィオラの周囲を取り巻く濃密な光の気配を確認するなり、震える声で宣言した。
ヴィオラは百年に一人現れるかどうかという、精霊の「大愛し子」であると。
その情報は瞬く間に王都へ伝わり、貴族社会に激震を走らせた。
大愛し子を王家の中央に囲い込むことは、神の加護と絶対的な権力を手に入れることと同義だった。
単なる辺境伯の妻として置いておくには、あまりにも惜しい存在。
王都の権力者たちの間で、ヴィオラを巡る醜悪な欲望が渦巻き始める。
「辺境伯に大愛し子を独占する資格はない」「神殿の祈祷師として王都に召還すべきだ」という過激な意見が、連日のように書状となってレオンハルトのもとに送り付けられた。
しかしレオンハルトは、それらの圧力を一切の表情を変えることなく暖炉の火にくべ続ける。
その夜、レオンハルトは初めてヴィオラの部屋の扉をノックした。
静かな部屋の中で、向かい合う二人。
窓の外では、春を待つ精霊草の淡い光が闇を照らしている。
レオンハルトは視線を伏せたまま、絞り出すように言った。
「あなたには、ここにいる権利があります」
ヴィオラは瞬きをして、彼の言葉の続きを待つ。
「誰が何と言おうと、私があなたを守ります」
愛の告白ではない。
彼なりの、命を懸けた不器用な誓約。
その言葉の奥にある深い熱量に触れた瞬間、ヴィオラは自分の頬に温かい液体が伝い落ちるのを感じた。
彼女がこの領地に来てから、初めて流した涙だった。
怒りでも悲しみでもない。
凍りついていた心が完全に溶け、新しい感情が溢れ出した証だった。




