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婚約破棄された冷遇令嬢は、辺境の台所で幸せを煮込む〜無自覚な精霊の愛し子は極上スープで氷の旦那様を溶かし、激甘に溺愛される〜  作者: 黒崎 隼人


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第5話「薬草の香りが満ちる小屋と、氷を溶かす不器用な問いかけ」

 雪解けの季節が近づいているとはいえ、ヴァルト領の風はまだ肌を刺すように冷たい。

 領地の外れにある小さな村落まで、ヴィオラは護衛の騎士一人だけを連れて馬車を走らせていた。

 目的は、重い熱病に倒れたという村の老婆を見舞うことだった。

 質素な木造の小屋に入ると、カビと湿気の匂いが鼻を突いた。

 部屋の隅に置かれた藁の寝台で、痩せこけた老婆が浅い呼吸を繰り返し、苦しげに咳き込んでいる。

 ヴィオラは外套を脱ぎ、迷うことなく寝台の傍らに膝をついた。

 冷え切った老婆の手を両手で優しく包み込んでから、そっと布団へ戻し、持参した保温の壺の蓋を開けた。

 途端に、爽やかな薬草の香りと、動物の骨をじっくりと煮込んだ深い匂いが小屋の中に広がった。

 ヴィオラは木の椀にスープを注ぐ。

 その時、ヴィオラの背後からあふれ出した無数の精霊の光が、温かい湯気に吸い込まれるようにスープの中へと溶け込んでいった。

 誰の目にも見えないその光は、液体の色をより澄んだ黄金色に変え、薬草の効能を極限まで引き上げる。

 ヴィオラは老婆の背中を優しく支え起こし、匙で少しずつスープを口に運んだ。

 最初は飲み込む力も弱かった老婆だが、スープが喉を通るたびに、奇跡のように呼吸が落ち着いていく。

 内臓からじんわりと広がる熱が、病魔に蝕まれた細胞を内側から修復し、痛みを溶かして消し去っていくのだ。

 三口、四口と飲むうちに、老婆の青白かった頬に確かな赤みが差し始めた。

 彼女はゆっくりと目を開け、目の前にいる美しい少女を見上げる。


「ああ……あなたは、神様が遣わしてくださった聖女様だ」


 老婆の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 震える手が伸び、ヴィオラのドレスの裾を強く握りしめる。

 ヴィオラは困ったように眉尻を下げ、穏やかに首を横に振った。


「違います。私はただ、少し温かいものを持ってきただけの、普通の人間です。あなた自身の生きる力が、体を治しているのです」


 彼女は本気でそう信じていた。

 自分の料理に精霊の力が宿っているなどとは露ほども疑わず、ただ目の前の命が繋がったことに深い安堵の息をつく。

 小屋を出る時、村人たちが彼女の通り道にひざまずき、祈りの言葉を捧げていたが、ヴィオラはただ戸惑うように会釈を返すだけだった。




 城館へ戻る馬車は使わず、ヴィオラは護衛とともに凍てつく道を歩いて帰ることを選んだ。

 冷たい空気を肺の底まで吸い込みたかったからだ。

 城館の門をくぐり、裏庭の木立を通り抜けようとした時、黒い外套姿のレオンハルトが木の幹にもたれて立っているのが見えた。

 彼はヴィオラの姿を認めると、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 護衛の騎士が頭を下げて離れ、二人の間に雪を踏む微かな音だけが残る。

 レオンハルトの視線は、ヴィオラのわずかに疲労をにじませた横顔に向けられていた。


「村の老婆は、峠を越えたと報告を受けた」


 低い声が、冬の空気に吸い込まれる。

 ヴィオラは足を止め、安心したように目を細めた。


「はい。少しでもお力になれたなら、良かったです」

「あなたは」


 レオンハルトの言葉が、不意に強さを帯びて途切れる。

 彼は視線を外し、何かを耐えるように強く奥歯を噛み締めた後、再びヴィオラを真っ直ぐに見据えた。


「あなたは、他人のためにばかり動いている。自分を大切にしますか」


 唐突な問いかけ。

 ヴィオラは瞬きを一つし、首をわずかに傾げた。


『自分を、大切にする』


 その言葉の意味が、うまく頭の中で結像しない。

 王都の侯爵家で、彼女は「そこにいないもの」として扱われてきた。

 役に立つ時だけ呼ばれ、それ以外は息を潜めて生きることが彼女の生存戦略だった。

 自分のために何かを望むなど、考えたことすらなかった。


「……考えたことが、ありませんでした」


 嘘のない、透明な声。

 その答えを聞いた瞬間、レオンハルトの顔が苦痛に歪んだ。

 怒っているのではない。

 彼女がそう答えるしかない環境で生きてきたという事実に対する、激しい痛ましさが彼の胸を締め付けていたのだ。

 彼は大きく一歩踏み出し、ヴィオラの肩を掴もうとして、寸前でその手を止めた。

 触れる資格が自分にあるのか。

 宙で迷う大きな手を、ヴィオラは不思議そうに見つめている。

 レオンハルトはゆっくりと腕を下ろし、絞り出すように言った。


「……ここでは、あなたは自分のために息をしていい。誰も、あなたを罰しない」


 それだけ言い残し、彼は足早に城館の中へと戻っていった。

 ヴィオラは残された雪の上の足跡を見つめながら、胸の奥で小さな火種が弾けるような、未知の感覚に戸惑っていた。




 その夜遅く。

 レオンハルトは一人、城館の裏手にある雪に覆われた墓地を訪れていた。

 冷たい風が吹き荒れる中、彼は一つの小さな墓石の前に立ち尽くす。

 三年前に病で亡くなった妻、エリーゼの墓。

 彼は長年、この場所に来るたびに過去の記憶に縛られ、自分を責め続けてきた。

 しかし今夜は、何かが違った。


「エリーゼ。俺は……あの人に、どう接すればいいのかわからない」


 虚空に向かって紡がれる、不器用な独白。

 返事はない。

 暗闇の中で、墓石はただ無言で寒さに耐えている。

 レオンハルトは手袋を外し、凍りつくような墓石の表面にそっと触れた。


「俺の中にあった凍りついた時間が、あの人の作る温かさで溶け始めている。それが、恐ろしい」


 エリーゼへの愛情と、ヴィオラに対して芽生えつつある感情。

 それは決して過去を上書きするものではない。

 全く別の形をした、新しい光なのだと、彼は心の底で気づき始めていた。

 ふいに、墓地を吹き抜ける風が、鋭い刃のような冷たさを失い、春の気配を孕んだ穏やかなものへと変わる。

 まるで、背中を押すような優しい風だった。

 レオンハルトはゆっくりと立ち上がり、空を見上げる。

 分厚い雲の隙間から、彼方に瞬く星の光が、凍てつく大地をかすかに照らしていた。

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