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婚約破棄された冷遇令嬢は、辺境の台所で幸せを煮込む〜無自覚な精霊の愛し子は極上スープで氷の旦那様を溶かし、激甘に溺愛される〜  作者: 黒崎 隼人


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第4話「冬の市場の色彩と、小さな手違いが甘く溶ける午後」

 凍てつくような冷気が支配していたヴァルト領にも、わずかに日差しの柔らかさを感じる日が増え始めていた。

 城館から馬車で下った先にある領都の市場は、朝から活気に満ち溢れている。

 分厚い毛皮の外套を着込んだ人々が行き交い、荷車の車輪が石畳を重々しく削る音が絶え間なく響く。

 ヴィオラは灰色の地味な外套のフードを目深に被り、市場の通りをゆっくりと歩いていた。

 王都の洗練された静かな市場とは違う、土と獣と香辛料の匂いが濃密に混ざり合う荒々しい空気。

 その粗野な活力が、不思議と彼女の冷え切っていた心を内側から温めていく。

 露店に並べられた食材を見つめるヴィオラの瞳は、新緑の輝きを取り戻したように生き生きとしていた。

 泥のついた不格好な根菜、厳しい寒さを越えて甘みを増した冬キャベツ、毛皮を剥がれたばかりの新鮮な獣肉。

 彼女は素手を冷たい空気に晒したまま、一つ一つの食材に丁寧に触れていく。

 指先から伝わる重み、表皮の張り、かすかな土の匂い。

 食材たちが内包する命の力を確かめるように、彼女の唇は自然と緩み、柔らかな笑みを形作っていた。

 その姿を、五歩ほど離れた背後からじっと見つめている男がいた。

 レオンハルトだった。

 黒い外套に身を包んだ彼は、周囲の喧騒から彼女を守る防壁のように、ただ無言で影のように付き従っている。

 本来ならば辺境伯である彼が、自ら妻の買い物に同行するなどあり得ないことだった。

 護衛の騎士をつければ済む話だ。

 しかし、彼女が「市場の空気を自分で確かめたい」と申し出たとき、彼は無意識のうちに自ら同行すると口にしていた。

 人ごみの中で誰かにぶつかられそうになるたび、レオンハルトの分厚い手がさりげなく伸びてヴィオラの肩を庇う。

 ヴィオラが振り返って小さく頭を下げる。

 言葉は交わされない。

 それでも、二人の間に流れる空気は、出会った夜の氷のように張り詰めたものから、日向の陽だまりのような温度へと確実に変化していた。


『生きているものの匂いがする』


 ヴィオラは大きな籠に新鮮な卵と香草を丁寧に収めながら、胸の奥で静かにつぶやいた。

 王都の宮殿では決して感じられなかった、泥臭くも力強い命の鼓動。

 彼女は振り返り、数歩後ろに立つレオンハルトを見上げる。


「旦那様。今夜は、この香草で肉を煮込みたいと思います」


 冬の冷気に頬を微かに赤く染めた彼女の言葉に、レオンハルトは小さく顎を引いた。


「任せる」


 短く、素っ気ない響き。

 しかし、その暗銀色の瞳の奥には、確かな信頼と、隠しきれない柔らかな光が宿っていた。




 城館へ戻った午後の台所には、柔らかな冬の斜光が差し込んでいた。

 広々とした作業台の前で、ヴィオラは小麦粉を練り上げている。

 その隣には、木箱をひっくり返した踏み台に乗った小さな影があった。

 エルナだった。

 彼女はヴィオラの見よう見まねで、自分の分の小さな生地を一生懸命にこねていた。

 小さな指先から白い粉が舞い上がり、彼女の鼻の頭を白く染める。


「ヴィオラかあさま。おさとう、いれる?」


 エルナが青い瞳を輝かせて見上げてくる。

 ヴィオラは手を止め、優しく微笑み返した。


「ええ。そこにある白い粉を、小さな匙で二杯だけ入れてください」


 エルナは元気よく返事をすると、棚に並んだ陶器の壺に手を伸ばした。

 しかし、彼女が選んだのは砂糖の壺ではなく、粗塩の入った壺だった。

 ヴィオラは別の作業に集中しており、その間違いに気づかない。

 エルナは得意げに匙ですくった山盛りの塩を、自分の小さな生地にたっぷりと練り込んでいく。

 ヴィオラがそれに気づかないまま一緒に生地を丸め、竈のオーブンで焼き上げられた小さな丸い焼き菓子が、甘く香ばしい匂いを台所に満たした。

 エルナは火傷しないように気をつけて自分の作った一つを手に取り、大きく口を開けてかじりつく。

 次の瞬間、彼女の顔がくしゃくしゃに歪んだ。


「うぇっ……からい」


 エルナが涙目を浮かべて焼き菓子を吐き出そうとする。

 ヴィオラは慌てて自分の作業を放り出し、エルナの背中を優しくさすった。

 口から出たものを手で受け止め、冷たい水を入れた杯を彼女の唇に当てる。

 水を飲んで落ち着いたエルナは、自分の失敗に気づき、泣き出しそうな顔でうつむいた。


「ごめんなさい……まちがえちゃった」


 王都であれば、使用人たちから冷たい舌打ちと嘲笑を浴びせられる場面だ。

 しかしヴィオラは、エルナの小さな両手を自分の手で包み込んだ。


「謝ることはありません。間違えてしまったのなら、どうすれば美味しくなるか、一緒に考えましょう」


 ヴィオラは塩辛い焼き菓子を細かく砕き、温かい牛乳と甘い蜂蜜をたっぷりとかけた。

 塩気が蜂蜜の甘さを引き立てる、まったく新しい冷たいお菓子へと生まれ変わる。

 それを一口食べたエルナの瞳が、驚きと喜びで大きく見開かれた。


「おいしい!」

「よかった」


 ヴィオラは安堵の息をつき、エルナの頭の粉を優しく払い落とした。

 その様子を、台所の入り口からレオンハルトが静かに見つめていた。

 二人の笑い声が、冷たい石壁に温かく反響する。

 彼は声をかけることなく、ただその光景を自らの記憶の奥底に焼き付けるように目を細めた。




 その夜。

 すべての者が寝静まった城館の廊下は、漆黒の闇と底冷えする冷気に包まれていた。

 ヴィオラは明日の仕込みの確認を終え、手燭の小さな明かりを頼りに自室へと戻る道を歩いていた。

 角を曲がったところで、前方から近づいてくる大きな影に気づき、足を止める。

 書類仕事で遅くなったレオンハルトだった。

 彼の黒い外套から、微かに外の冷たい風の匂いがする。

 廊下の狭い空間で、二人は数歩の距離を開けて向かい合った。

 手燭の揺れる炎が、互いの顔に深い影を落とす。

 以前であれば、レオンハルトは無言で道を譲り、ヴィオラも目を伏せたまま通り過ぎていただろう。

 しかし今、二人の間にある沈黙は、居心地の悪い緊張感から、羽毛のように柔らかく穏やかなものへと変わっていた。

 ヴィオラは顔を上げ、彼の暗銀色の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「お休みなさいませ、旦那様」


 静かな夜の空気に溶け込むような、透き通った声。

 レオンハルトは言葉を探すようにわずかに視線をさまよわせ、やがて短く息を吐いた。


「……無理はするな。お休みなさい」


 すれ違う瞬間、彼の厚い外套の裾がヴィオラのドレスにわずかに触れた。

 たったそれだけのことで、ヴィオラの胸の奥に、名状しがたい小さな熱がともる。

 振り返ることなく自室へと向かう彼女の背後には、淡い光の粒が廊下の闇を優しく照らしながら、どこまでもついてきていた。

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