3
部屋は静かだった。
彼の寝息だけが、規則正しく聞こえてくる。
少しでも動けば気づかれる可能性が高い。
でも今夜は、魔法がある。
ふぅっと息を吐いて、頭の中でチェーンが外れるイメージをする。
(お願い、外れて……!)
次の瞬間、頭上でチェーンが動くのを感じた。
鞄から外れたチェーンがふわふわと静かに浮いている。
そのチェーンの音を立てないように、私はしっかりと腕に巻き付けた。
(あとは、扉まで――)
「ん……」
歩き出そうとすると、彼が小さく声を漏らした。
今の姿を見られたら、完全に終わりだ。
彼の瞼が、ぴくぴくと動き、ゆっくりと持ち上げられる。
寝起きの、焦点の合っていない青い瞳。
こんな状況でなければ、見惚れていたかもしれない。
ぬいぐるみに心臓などないはずなのに、胸の内側がうるさい。
(……悔しいけど、これ以上は危険だわ)
私は静かに息を吐いて、身体の力を抜いた。
ぬいぐるみの体が、こてんと机の上に倒れた。
腕に巻き付けていたチェーンがカチャッと音を立てて、机に投げ出される。
その音に反応した彼は、瞬きを何度かしたあと、しっかりと瞼を開けた。
やがて、覚醒した彼は視線をある一点に向けた。
その視線の先には……机に転がっている私。
「……外れたのか?」
彼が手を伸ばして、私を掴む。
夜は感覚があるぶん、掴まれる力がそのまま伝わってくる。
まじまじと見られて、手足が冷えていくようだった。
しかし彼はそれ以上何もせず、ボーっとしたままだ。
口を軽く開けてあくびをしたあと、私を掴んだままベッドに移動する。
そして、そのまま……寝た。
掴む力は多少ゆるんだが、動けない。
この場所から、動こうものなら、すぐに気づかれてしまうだろう。
今は……彼の胸の上にいるのだから。
目の前は天井、背中には彼の穏やかな鼓動を感じる。
すぅ、と彼が呼吸するたびに、私の体もゆっくり上下した。
規則正しくて、あたたかくて。
先程まで感じていた緊張感も薄れて、手足から力が抜けていく。
(不思議……人間に触れて安心するなんて……)
今日はもう諦めるしかない。
でも、魔法が使えることが分かった。
近いうちに、ここから脱出できるだろう。
(家に帰れば、きっと元に戻る方法も分かるはず)
ふと、ぬいぐるみを大切に扱うアルベルトが頭に浮かんで、少し胸が痛んだ。
元の姿に戻ったら、ぬいぐるみを返しに来るのも良いかもしれない。
やがて、心地良い体温が眠気を誘い、いつの間にか私も眠っていた。
翌日。
目覚めた彼に早速、鞄に取り付けられてしまった。
しかも――。
「チェーンがゆるくなってるかもしれない」
そう呟いた彼は、お昼休みに雑貨屋で、新しいチェーンを買いに行く。
その時、城下町の壁に貼られたお触れが目に入った。
鞄からでは細かい字まで読めない。
でも、「魔女」という文字だけははっきり見えた。
(……魔女?)
嫌な予感がして、もう一度見ようとしたが、彼はもう歩き出していた。
魔法使いと人間の関係は、決して良いとは言えない。
先程のお触れも、きっと碌なことが書かれていないだろう。
私は心の中で、ため息をついた。
城に戻った彼は、早速チェーンを外す。
新しいものを付けられるときに見えた、引き出しの中の写真。
そこには、彼と同じ茶髪の可愛らしい女の子の写真があった。
フレームにはエリザと彫られていた。
(……やっぱり。エリザは、妹の名前だったのね)
毎晩、彼が呼ぶ名前。
時に愛しそうに、時に泣きそうな声で。
写真の中の女の子は、屈託なく笑っていた。
その腕に、可愛らしいくまのぬいぐるみを抱いて。
その夜。
夜空には月が輝いている。
先程、アルベルトもようやく眠りについた。
夜になって感じたのは、新しいチェーンは今までのより重いということだった。
その重さは、まるで彼の妹への愛情の分だけ増したように感じた。
そう思ったら、なぜか胸が少し苦しくなった。
彼は、私がぬいぐるみの中に入っていることを知らない。
(大丈夫、すぐに返しに来るから)
迷いを振り切るように頭を振った。
チェーンをそっと握る。
冷たくて、細くて、以前のよりも頑丈そうなチェーン。
幸い、輪っかの構造は以前のものと同じだった。
これを外せば、家に帰れる。
お父様の声が聞きたい。
お母様の料理が食べたい。
いつも私を子供扱いするセドお兄様の、憎まれ口でさえ。
(帰りたい)
それは本物の気持ちだった。
意を決して、魔法を使った。
鞄から、チェーンが音もなく外れる。
それを腕に巻き付けて、机の端に足をかけた。
あとは、降りるだけ。
その時――
「まさかとは思っていたんだ」
「――っ!?」
突然聞こえた彼の声に、びくっと肩が揺れた。
声を上げそうになるのを、かろうじて飲み込む。
恐る恐る、声のする方へ顔を向ける。
机のすぐそばに立っていた彼が、こちらを見下ろしていた。
(いつからそこに!?)
「そんなこと、あるはずがないと……思っていた」
彼はこちらに手を伸ばし、両手で包むように、そっと持ち上げる。
そして、彼と同じ目線の高さまで上げられた。
青い瞳がまっすぐ私を見つめている。
「もしかして、エリザ……なのか?」
彼の声は震えていた。
「エリザ……返事をしてくれ」
絶対に、人間の前では喋らないつもりだった。
けれど、あまりに切ない彼の声に我慢できず、口が動いていた。
「違うわ……私は、あなたの妹じゃない」
「妹って、エリザを知ってるのか? 一体どうなって……」
「私は――」
名乗るより先に、彼がぽつりと呟く。
「――魔女か」
その言葉と同時に、彼の手から力が抜けた。
「え? きゃあっ!」
視界がぐらりと揺れる。
机の上に背中から叩きつけられて、衝撃で息が詰まった。
この体になって初めて感じた痛みに恐怖した。
わざと、落とされたような気がした。
彼のぬいぐるみへの扱いが変わったことに驚く。
私は、選択を間違えてしまった。
やはり人間の前で喋るのは、失敗だった。
「姿を変え、不気味な術を使い、危害を加える――騎士団に回ってきた触れ書きのとおりだ」
体を起こして彼を見れば、先程とは打って変わって表情が消えていた。
視線は鋭くなり、声も一段と低くなっている。
「まさか、お前が農場を燃やした魔女か?」
彼は手を伸ばして、私の体をグッと掴んだ。
「は、離してっ……農場なんて、知らないわ!」
「嘘をつくな!」
彼の聞いたことのない大声に、びくっと体が震える。
形が変わるほど、握りしめられる。
体が軋む感覚と息苦しさに、これ以上はまずいと分かる。
(苦しい……っ)
「ぬいぐるみに入って調査の様子を伺っていたのか?」
「ち、違う! も……離してっ」
「もしかして、苦しいのか? だったら、早くこの体から出ていけ!」
彼は聞く耳を持ってくれない。
出て行きたいのは、自分の方だ。
ぬいぐるみに入れられて、隠れて過ごす日々から早く抜け出したかった。
「私だって、出て……行きたい」
「なら――」
「っ、できないの! 出れないのよ……っ」
涙が目から零れ落ちる。
その様子を見た彼は、ハッとして掴む手を緩めた。
「旦那様、大丈夫ですか? 大きい声が聞こえましたが……」
ドアの向こうから、中年の男性の声が聞こえた。
「……あぁ、大丈夫だ」
彼がドアの方に向かって、声をかけた。
「そうですか、安心しました。あまり無理せず、早くお休みになってください」
足音が聞こえなくなると、彼は私に視線を戻した。
しばらく無言で泣き続ける私を、ただ見ている。
やがて、彼は小さくため息をついて、ハンカチを取り出す。
そして、そっと私の目元に当てた。
「……以前にも、ぬいぐるみの姿で泣いたか?」
私は答えず、首を縦に動かす。
「なぜ、泣く? 自分からぬいぐるみに入ったんじゃないのか?」
「違うわ。突然、この姿になってて……もう、嫌……っ」
涙がまた溢れてくる。
「お父様、お母様っ……セドお兄様……っ」
優しかったみんなの顔が、頭に浮かぶ。
「……泣くな。……ぬいぐるみが、濡れる」
彼の戸惑う声が聞こえたが、一度出てしまったものは、すぐに引っ込められない。
「……魔女、お前、家族がいるのか?」
「っ、お前じゃ…ない。…リ、リゼットよ……っ」
「……リゼット、家族がいるのか?」
自分の名前を声に出したのが、いつぶりか分からなかった。
それだけで、また涙が出てきてしまう。
言葉が出なくて、首を縦に振った。
「そうか……ぬいぐるみに入ったのは、なぜだ?」
私はこれまでの経緯を話した。
突然ぬいぐるみの姿で目を覚ましたこと、夜だけ体が動いて魔法も使えること。
自分の国に、帰ろうとしていたこと。
彼はそれを黙って聞いていた。
「にわかには信じられないが、このぬいぐるみから出れないというのは、わかった」
「……いいの、私もまだ夢なら良いのにって、思ってる」
私は鼻をすすりながら答えた。
彼は少しの間、何か言いたそうに口を開けては閉じる。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまなかった」




