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どれくらい経っただろう。
窓の外では、訓練していた騎士たちの姿がいつの間にか消えていた。
広場に人影はなく、遠くから話し声が聞こえるだけだ。
(いつの間にか寝てたんだ……)
目の前には、コートを着た彼が立っている。
彼がコートハンガーから鞄を取る。
今日、何度も経験した揺れに、今度はもう驚かなかった。
また移動するんだと、どこか冷静に思う。
彼は城を出て、松明に照らされた門をくぐる。
朝と同じように馬車へ乗り込んだ。
馬車が走り出し、ゆっくりと揺れ始める。
馬車が停まったのは、郊外の大きな屋敷だった。
そして、またあの部屋へ戻ってきた。
机の上に鞄を置いた彼は、何も言わず部屋を出て行った。
明かりのない部屋に、窓から月の光が差し込む。
その光が、私を優しく照らした。
(……月は、変わらないのね)
小さい頃から月が好きで、よく窓から空を見上げていた。
よく見たくて屋根に登ったこともある。
太陽ほど強くはないけれど、神秘的で、包み込むように優しい光を放つ月。
見知らぬ場所で、見知らぬ姿になってしまったのに、月だけはいつもと同じだった。
その変わらなさが、かえって胸に刺さる。
じわじわと、寂しさが滲んでくる。
(どうして、こんなことに……お父様も、お母様……)
心細くなり、優しかった両親の顔が浮かんだ。
今頃、探し回っているだろう。
胸が、ぎゅっと苦しくなる。
その瞬間――
ぽろ、と涙がこぼれた感覚があった。ぬいぐるみなのに。
不思議に思いながら、思わず涙を拭こうとした。
――動いた。手が、動いた。
視界の端に映るぬいぐるみの腕が、確かに持ち上がっていた。
夢じゃないかと思い、もう一度動かしてみる。
やはり、動く。
驚いて、思わず体を起こそうとした次の瞬間。
後ろのチェーンに引っ張られて、ずるっと滑る。
また仰向けに倒れてしまった。
(はは……そうだ、鞄にくっ付いてるんだった)
チャラ……と、背後で虚しくチェーンが鳴る。
なんとか外せないかと身体をよじり、体を反転させた。
見上げると、取って付近の金具にチェーンの輪っかが付いていた。
(あれを外せば、自由になれる――!)
輪っかを掴んで、つなぎ目を探す。すぐに見つかった。
力を込めると、金具がわずかに動く。
(もう少し――)
カチャ、とドアの音がした。
慌てて輪っかから手を離して、体の力を抜く。
コツ、コツ――
足音がこちらへ近づいてくる。
そして、すぐそばで止まった。
次の瞬間、背中を掴まれ、体が持ちあげられる。
朝と違い、今は捕まれた感覚があった。
「下向きに置いたつもりはなかったが……」
(そうだ……焦って、仰向けに戻るのを忘れてた)
雑に置いたのではなかったのかもしれない、と思った。
くるりと体を反転させられる。
彼の顔が視界に入る。
整った眉が、わずかにひそめられていた。
そして、大きな指が、私の目元を優しく撫でた。
「……濡れてる?」
私を持ったまま、彼の視線が鞄へ向けられる。
鞄が濡れていないことを確認したのだろう。
彼は小さく首を傾げた。
再び私を見ると、ハンカチを取り出し、目元にそっと押し当てる。
もう一度、指で目元を撫でる。
水気が取れたことを確かめたようだった。
満足したのか、彼はふっと微笑む。
その笑みに、胸がどきりと跳ねた。
「おやすみ、エリザ」
その名前を、彼はとても優しい声で呼んだ。
彼の顔がどんどん近づいてくる。
次の瞬間、頬に、温かいものが触れた。
柔らかくて、温かくて、すぐに離れた。
理解が追いつくまで、数秒かかった。
(今の、唇……? キス、された……?)
今すぐ、頬を拭いたい。
けれど、今は彼が目の前にいる。
混乱する頭の中で、ひとつだけ確信した。
(彼は、私を誘拐してない。私は……エリザじゃない)
それから、数日が経った。
夜になると、体が動く。
ただし、曇りや雨の夜は駄目だった。
空に関係する何かが、私の動きを左右しているらしい。
それよりも気になるのは、ここの人たちが魔法を使わないことだ。
水を汲むのも火を起こすのも、ここでは全て人の手で行われていた。
(魔法なしで、よくやっていけるものね……)
そして毎晩、これがある。
「……おやすみ、エリザ」
キスのあと、彼は私に微笑みかけた。
いや、私でなく、エリザに。
初めのうちこそ、むずむずして落ち着かなかった。
けれど、もう慣れた……はず。
それに、別の女性の名前を呼ばれてのキスなんて、ときめく女性はいないだろう。
彼が眠った後、私は何度も脱走を試みた。
けれど、彼はチェーンの微かな音にも敏感に反応する。
三日前、チェーンを掴んだ時にチャリ……と音がして、それだけで彼はむくりと起き上がった。
あの時は本当に心臓が止まるかと思った。
いくら彼の妹の形見でも、見つかれば、どうなるか分からない。
(もしかしたら、燃やされてしまうことだって――)
自分の身体が炎に包まれるのを想像して、背筋に寒気が走る。
できるだけ早く、ここから逃げないといけない。
でも、最悪の事態にはなりたくない。
だからこそ、チェーンの音一つにも神経を使う。
慎重に、と思うほど時間がかかっている。
そもそも、彼の帰宅時間も遅いのがいけない。
帰りに出会う騎士は、門番以外ほとんどいなくなっている。
さらに帰宅後も、そのまま机に向かうことがある。
彼の仕事が終わるのを待っている間に明け方になり、私はただのぬいぐるみに戻っている。
そんな日が既に二日間あった。
そして今夜も、彼は帰宅後すぐ机に向かって何かを書いている。
書いている内容はよく分からない。
けれど、地図のような紙を広げているところを見ると、何かの作戦を立てているのだろう。
(まさか、魔法の国に攻め入る作戦じゃないわよね……)
ここからでは、書かれている文字は良く見えない。
しかし、アルベルトのペンを持つ手の動きが、だんだん鈍くなっていく。
やがて、彼はそのまま、椅子に座った姿勢で眠ってしまった。
その時、眠っている彼の腕が動いた拍子に、書類が一枚、ひらりと視界から消えた。
床に落ちてしまった書類。
何が書いてあるか、気になった。
(せめて、自分の国が書かれていないことだけでも、確認したい――)
そう思った瞬間だった。
書類が、ふわりと浮いた。
(……え?)
書類がひとりでに宙へ持ち上がり、そのまま私の目の前に降り立った。
(これって……今、私が?)
驚いてる暇はない。
彼が眠っている間が、チャンスだ。
私は急いで、文字に目を走らせる。
書類には、明日の合同訓練のことが書いてあった。
自分の国の名前が無いことに安堵して、ほっと息を吐く。
見終わると、元あった場所へ戻るよう念じた。
書類はゆっくりと机の上へ戻っていった。
(今の、魔法が使えたってことよね……)
ふと、机の上のペンとインクが目に入った。
魔法が使えるなら、あれも動かせるだろうか。
試しに、動くよう念じてみる。
ペンとインクが、ふわりと宙へ浮いた。
思った通りの場所へ、ゆっくりと移動する。
(……動いた)
胸の奥で、何かが静かに灯った気がした。
けれど、なぜ急に魔法が使えるようになったのか分からない。
呪文も唱えていない。
杖も魔法陣もない。
なのに、確かに魔法が使えている。
ふと、窓の外に目を向けると、今夜は雲ひとつない夜空だった。
星がきらめく夜空に、白く輝く満月が浮かんでいる。
(月……そういえば、月と魔力は関係するって、誰かが言ってたっけ……)
その人物のことを思い出そうとしたが、霧がかかったように思い出せない。
ぬいぐるみになった記憶でさえ思い出せないのだから、無理もないのかもしれない。
それよりも。今は大事なことがある。
視線を鞄のチェーンへ向けた。
(魔法が使えるなら――チェーンも、外せる)




