八話 現実の厚い壁、女の身で後継ぎを目指す!
母の伊邪那美が亡くなり、姫が幼い弟たちの母親代わりとなってから、七年の歳月が流れた。
姫は十二歳、月読は十歳、末弟の須佐之男も七歳になっていた。
幼い頃は何をするにも姉の手を借りていた弟たちだったが、今では須佐之男が薪割りを引き受けるようになり、月読も炊事をはじめとする家事をそつなくこなしていた。
食事の支度も月読と二人で手際よく済ませられるようになったため、以前のように家事に追われることはなくなり、姫はようやく自分のために使える時間を持てるようになっていた。
その時間の多くを、姫は学問に費やしていた。
大陸から持ち帰った書物を読み、歴史や政治、法律、農業、交易について知識を深めていくうちに、姫の関心は次第に父の務めへと向かうようになった。
父の伊邪那岐は、山門壱国の邑長である。
邑とは村よりも大きな集落を指す言葉であり、他国では同様の立場にある者が「王」、あるいはそれに近い称号を名乗ることも珍しくなかった。
しかし、山門壱国では昔から父が邑長と呼ばれ続けており、本人もその呼び名を変えようとはしていなかった。
姫はこれまで、父が人々と話し合ったり、各地の村々を訪ねたりする姿を見てきたものの、実際にどのような政治を行っているのか、詳しく知る機会はなかった。
それでも、山門壱国の様子を眺めていれば、わかることが一つあった。
父は、人々の暮らしを安定させることには誰よりも熱心だが、それ以上に国を発展させようという意欲は、あまり持っていないように思えた。
田畑はよく整えられ、水路やため池も各地に築かれている。
人々は日々の暮らしに必要な食べ物を得られ、交易によって大陸の品々も少しずつ入ってくるようになった。
飢えや災害に備える仕組みも整えられており、他国と比べても決して貧しい暮らしではない。
けれど、姫が物心ついた頃から、山門の景色はほとんど変わっていなかった。
人々が安心して暮らせる国を築き、その暮らしを守り続けること。
それが父にとって何よりも大切なのだろう。
姫もその考えを否定するつもりはなかったが、大陸の繁栄や他国の発展を知った今では、それだけで満足することができなくなっていた。
もっと大きな市場を作り、交易を盛んにし、新しい技術を取り入れれば、山門壱国はさらに豊かになれるはずだ。
国の仕組みを整えれば、父が自ら各地を駆け回らなくとも、人々の暮らしを守れるようになるかもしれない。
もし、自分が邑長だったなら――。
そんな考えが浮かぶことも、いつしか珍しくなくなっていた。
しかし、父の後を継ぐという可能性を真剣に考え始めた姫は、ある大きな問題に気がついた。
山門壱国には、女の長が一人もいないのである。
大きな村の長はもちろん、小さな集落を取りまとめる者に至るまで、知る限りではすべて男だった。
女が政治に関わることを明確に禁じた規則があるわけでもないのに、誰もそのことを不思議には思っていないようだった。
かつて大陸の書物を読んだとき、儒教の教えには男女それぞれの役割や、家族の中で守るべき秩序について記されたものがあった。
そこには女の立場を制限するような考え方も見受けられたが、そもそも山門壱国では儒教の教えなどほとんど知られていない。
それならば、どうして女の長がいないのだろう。
人々を従わせるには、やはり男のような腕力が必要なのだろうか。
それとも、長という役目が代々男に受け継がれてきたために、誰も女がその座に就くことを考えもしなかったのだろうか。
姫には、まだその答えがわからなかった。
「私では、父上の跡継ぎにはなれないのかしら」
ふと漏らした姫の言葉に、月読は不思議そうな顔で姉を見つめた。
「姉上が、ですか?」
「ええ。だって、山門壱国のどこを見渡しても女の長なんていないでしょう? 村長はもちろん、小さな集落の長でさえ男ばかりなのよ。どうしてなのかしら」
「そう言われてみれば、確かにそうですね。長には、ときに人々を厳しく抑え、従わせるだけの力が必要だからではないでしょうか」
「それは腕力ってこと?」
「うーん……合っているようで、少し違う気もします。腕力だけで人を従わせられるわけではありませんし、何か別の理由があるのでしょうね」
月読も明確な答えを持っているわけではなかった。
姫は腕を組んで考え込んだものの、女が長になってはならないという決まりを聞いたことはなく、ただ前例がないというだけで道を閉ざされているように思えてならなかった。
「女は長になれないなんて規則があるわけでもないのに、不思議なものね」
「それなら、一度父上のお仕事を見学されてはいかがでしょう? 長に何が求められるのか、実際にご覧になれば何かわかるかもしれませんよ」
「そうね。考えているだけでは答えも出ないもの。明日は父上についていくことにするわ。だから月読、洗濯と夕食の支度をお願いしてもいいかしら?」
「構いませんよ。その代わり、帰ってきたら父上がどんなお仕事をされていたのか、詳しく教えてくださいね。僕も興味がありますから」
「もちろんよ。ちゃんと見てくるから、楽しみにしていてね」
姫が笑顔で答えると、月読も嬉しそうに頷いた。
翌日、姫は父の仕事を見学したいと申し出て、那岐に同行することになった。
最初に向かったのは、山間に広がる田畑と、その上流に設けられたため池だった。
那岐は村長や農民たちとともに堤を歩き、水位や水路の状態を確かめながら、田へ流れ込む水の量に問題がないかを調べていた。
「このあたりの稲は、ほかの田と比べて育ちが悪いね。水が足りないのかな?」
「いえ、水は十分にございます。ただ、去年からどうにも実りが悪くなりまして……」
「そうなんだ。じゃあ、土の方に問題があるのかもしれないね。少し掘ってみようか」
那岐は自ら田へ入り、泥の状態を確かめながら農民たちの話を聞いた。
作付けを続けてきた年数や、これまでに施した肥料について尋ね、土を休ませることや、草木灰などを用いて地力を補う方法を提案していく。
その後も、ため池の堤に傷みがないかを確認し、水路の泥を取り除く時期について村長と相談した。
さらに村の倉へ足を運び、蓄えられた穀物の量や傷み具合を調べ、不作に備えてどれほどの食糧を残しておくべきか、村長と細かく話し合っていた。
那岐は農民たちに命令するというよりも、困っていることを一つずつ聞き取り、経験と知識をもとに解決する方法を一緒に考えていた。
村人たちも気兼ねなく話しかけ、ときには冗談を交えながら相談している。
姫はその様子を黙って見つめていた。
父が人々から慕われていることは以前から知っていたが、実際に仕事をする姿を間近で見るのは初めてだった。
小さな田の不作から倉の備蓄まで、那岐は驚くほど細かなことを把握しようとしている。
しかも、どれほど些細な相談であっても、面倒がる様子を見せなかった。
翌日は南方の海沿いの村へ向かい、漁師たちから漁獲の状況を聞いて回った。
那岐は浜に並べられた船の傷み具合や網の修繕状況を確かめ、漁場の変化や季節ごとの魚の動きについても話を聞いていた。
漁師の一人が船の修理に使う木材の不足を訴えると、那岐は近隣の村から融通できないかを考え、村長同士で相談するよう勧めた。
網の傷みが激しいと聞けば、材料の確保についても助言する。
こうして数日にわたって父に同行した姫は、那岐が山門壱国の各地を巡り、人々の暮らしを支えるために働いていることを知った。
しかし、彼女が本当に見たかったのは、国全体の方針がどのように決められているのかということだった。
数日後、山門壱国の各地から村長や集落の長たちが集まり、定例の会合が開かれた。
そこでは農地の開拓や水路の整備、交易品の配分、村同士の境界を巡る争いなど、さまざまな問題について話し合われていた。
姫は那岐の傍らに座り、議論の様子を注意深く観察した。
ところが、会合が進むにつれて、一つの疑問が大きくなっていった。
父が、ほとんど発言しないのである。
村長たちはそれぞれの事情を述べ、ときには声を荒らげながら意見をぶつけ合っていた。
水路をどちらの村へ優先して引くべきか、共同で使う倉の維持を誰が負担するのかといった問題では、互いに譲ろうとせず、議論が長引くこともあった。
それでも那岐は口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
意見を求められれば知っていることを答えるものの、自ら結論を示すことはほとんどなく、長たちが合意に達すると、それを認めるように頷くばかりだった。
まるで、国を治める者というよりも、会合を見守る象徴のような存在である。
姫には、それが不思議でならなかった。
田畑や漁村を巡っているときの父は、誰よりも積極的に働き、困難を解決するための方法を示していた。
それなのに、国全体の方針を決める場では、長たちの判断に委ねてしまっている。
なぜなのだろう。
議論がひと段落したところで、姫は思い切って口を開いた。
「皆さんに、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
突然の問いかけに、長たちの視線が姫へ集まった。
「おお、姫様。どうなされましたかな?」
「皆さんは、邑長のどのようなところが優れているとお考えなのですか?」
思いがけない質問だったらしく、長たちは互いの顔を見合わせた。
那岐も少し驚いた様子で娘を見たが、何も言わずに成り行きを見守っていた。
やがて、一人の年配の村長が笑いながら答えた。
「そうじゃのう。儂らの村にもよく足を運んで、困り事を聞いてくださるところかの。那岐様は昔から少しも変わらん」
「それなら、儂らの村が不作に見舞われたときのことを忘れるわけにはいかん。食糧が尽きかけたところへ倉の蓄えを回してくださり、翌年の作付けまで考えてくださった。おかげで飢えずに済んだのじゃ」
別の村長が頷くと、さらに一人が声を上げた。
「奴国との戦も忘れられんぞ。那岐様が砦を築き、兵をまとめてくださらなければ、今頃このあたりの村はどうなっていたことか。儂の父も、あの戦に加わっておった」
「儂は新田を開いたときのことじゃな。那岐様は村の者に任せきりにせず、自ら鍬を握って働いてくださった。あれほど働く邑長は、ほかにはおるまい」
「水の乏しい土地でも作物を育てられるようにしてくださったことも大きいぞ。昔は麦や粟を作るのも苦労したが、今では畑でさまざまな野菜を育てられるようになった。土の扱い方から水の蓄え方まで、何もかも教わったものじゃ」
長たちの口から、次々と父の功績が語られていく。
ある者は幼い頃から面倒を見てもらったと笑い、ある者は病や飢饉から村を救われたことを語った。父の代、祖父の代、さらにはそれ以前の出来事まで持ち出す者もいる。
「儂など、鼻たれ小僧の頃から那岐様に世話になっておる。今さらどこが優れているかと聞かれても困るのう。儂にとっては、那岐様が邑長であることが当たり前なのじゃ」
その言葉に、周囲から笑い声が上がった。
「それを言うなら、洪水のときのことも忘れてはならん。川が氾濫して家々が流され、逃げ遅れた者が大勢おった。那岐様は自ら濁流の中へ飛び込んで、取り残された者を救い出してくださったのじゃ。儂の家族も、その中におった」
「そうじゃったな。だが、儂はその後の治水事業こそ忘れられん。那岐様は堤の造りを考えるだけでなく、村の者と一緒に土を運び、何日も汗を流してくださった。おかげで、あれから大きな洪水が来ても村が流されることはなくなったのじゃ」
誰かが一つの出来事を語れば、別の者がそれに続いた。長たちは競い合うように昔話を持ち出し、話題が尽きる様子もない。
姫は、そんな彼らの表情を静かに見つめていた。
そこにあったのは、強大な権力者を恐れる者の顔ではなかった。
長たちは父のことを、幾度となく苦難を共に乗り越えてきた相手として語っている。
那岐が邑長であることに疑問を抱く者はおらず、誰もが自然なこととして受け入れているのだった。
父は数百年もの間、山門壱国の人々とともに生き、村を興し、田を拓き、飢饉や災害から人々を守り続けてきた。
その積み重ねが、今の揺るぎない信頼を築いているのだろう。
姫はようやく理解した。父が会合で多くを語らずとも、長たちがその存在を尊重する理由を。そして同時に、胸の奥には新たな疑問が残った。
父が長として認められているのは、男だからでも、強い力を持っているからでもない。
数え切れないほどの年月をかけて、人々の信頼を得てきたからなのだ。
では、自分が父の後継者になろうとしたとき、人々は何を見て、その資格を認めてくれるのだろうか。姫は隣に座る那岐へ、そっと視線を向けた。
父は長たちの昔話に少し照れたような笑みを浮かべながら、相変わらず穏やかに耳を傾けていた。
数日間にわたって父の仕事を見学した姫は、どうしても納得できないことがあった。
各地を歩き回り、田畑や水路を調べ、村人たちの困り事に耳を傾ける父の姿は、娘の目から見ても立派なものだった。
ところが、村長たちが集まる会合では、驚くほど自分の意見を述べようとしないのである。
ようやく二人きりになったところで、姫は我慢していた言葉を口にした。
「父上は間違っていると思います!」
「ええ……いきなり、それ?」
那岐は目を丸くした。何か質問されるだろうとは思っていたが、まさか最初から間違っていると言われるとは予想していなかったらしい。
「父上は誰よりもこまめに各地を視察して、困っている人を助け、より良い方法がないか考えておられました。それなのに、会合ではほとんど何もおっしゃらないではありませんか。あれでは長たちの言いなりですわ!」
「そうかな? 私はみんなが話し合って決めたことを認めているだけだよ。話し合いを大切にするのは、そんなに悪いことかな?」
「時間がかかりすぎます! それに、よく聞いていれば、自分の村に有利な決まりばかり求める人が大勢いました。あちらの村が水路を欲しがれば、こちらの村は人手を出したくないと言う。倉の食糧を分けようとすれば、今度は自分たちの取り分が減ると文句を言う。あれでは、いつまでたっても物事が進みません!」
姫は会合で耳にしたやり取りを思い返し、ますます腹立たしくなった。
父が一言命じれば済むように思える事柄でさえ、長たちは何度も話し合い、容易には結論を出さないのだ。
しかし、那岐は少しも気分を害した様子を見せなかった。
「みんな、自分の村や集落に暮らす人たちを守らなければならないからね。水も食糧も人手も、余っているわけじゃないんだ。簡単に譲れない事情があるのは当然だと思うよ」
「ですが、それでは国全体のためになりません」
「そういうこともあるだろうね。でも、誰かが我慢しなければならない決まりを作るなら、その人たちの話も聞いてあげたい。納得できないまま従わせても、後で困ることになるかもしれないでしょう?」
「……それは、そうかもしれませんけれど」
「話し合いには時間がかかるよ。けれど、その時間も必要なものだと私は思っているんだ」
穏やかな父の言葉に、姫は口をつぐんだ。
父が人々を大切にしていることは十分に理解している。
それでも、全員の納得を待っていては、救えるはずの人を救えなくなることだってあるのではないか。
姫の脳裏には、かつて飢饉に襲われた村で起きた、母の悲劇が浮かんでいた。
あのとき、もっと早く決断できる者がいたならば、そう考えずにはいられなかったが、今は別に確かめたいことがあった。
「それから、もう一つ気になったことがあります」
「うん、何かな?」
「会合に集まった長たちは、全員が男でした。ほかの村や集落でも、女の長を一人も見かけませんでしたわ。どうしてなのですか?」
那岐は少し考えるように首を傾げた。
「そういえば、確かにいないね。姫は長になりたいの?」
「はい。私は父上の後継者になりたいと思っています」
迷いのない答えだった。那岐は驚いたように娘を見つめたものの、すぐに柔らかな表情に戻った。
「なるほどね。それなら、まず長が何をする人なのか考えてみようか」
「何をする人、ですか?」
「例えば、ほかの国から攻め込まれたらどうする?」
「兵を集めて、敵を迎え撃ちます」
「そうだね。でも、兵を集めるだけでは駄目なんだ。どこで守るのか、誰を避難させるのか、食糧をどう運ぶのか。そういうことを決めて、現場で指揮を執らなければならない。戦だけじゃないよ。津波が来たり、地面が割れたり、家が倒れたり、川が氾濫したりしたときも同じなんだ」
那岐は指を折りながら、これまで自分が経験してきた出来事を挙げていった。
「逃げ遅れた人を助けたり、壊れた堤を直すために人を集めたりね。危険な場所へ出向かなければならないこともある。長には、そういうときに人々を率いる役目があるんだよ」
「……今の私にはできません」
姫は悔しそうに唇を結んだ。
書物を読んで知識を増やしてきたつもりだったが、十二歳の自分に大勢の兵や人夫を率いるだけの経験がないことは、認めざるを得なかった。
「だから、今の山門では女の長がいないのかもしれないね」
「……今の山門では?」
姫は父の言葉に含まれた意味を聞き逃さなかった。
「父上、それはどういうことですか?」
「私はね、これは国の規模と、役割分担の問題でもあると思うんだ」
「規模と役割分担……」
「小さな集落なら、長が自分で畑を見て、争いを仲裁して、災害が起きれば真っ先に駆けつけることもできる。でも、国がもっと大きくなったらどうだろう? 遠く離れた村で同時に問題が起きても、一人で全部の面倒を見ることはできないでしょう?」
「それは……無理ですわね」
「そうなれば、兵を率いる人、食糧を管理する人、水路を整える人、争いを裁く人というように、仕事を分けていく必要があるはずだよ。長が何でも自分でやらなければならないわけじゃなくなるんだ」
姫は思わず身を乗り出した。
「つまり、今の山門壱国では、その役割分担が十分に進んでいないということですか?」
「そう言えるかもしれないね。今はそれぞれの村の長が、できることを自分で引き受けているから」
「でしたら、仕事を分けて、それぞれに任せる者を置けば……」
「うん。それも一つの方法だと思うよ」
那岐は娘の考えを否定しなかった。
「ただ、それだけで女の長が増えるかというと、難しいかもしれないね。女の人は子育てや家事を任されることが多いし、そもそも長になるための経験を積む機会が少ないでしょう?」
「……はい」
「それに、今まで女の長がいなかったから、これからも長になるのは男だと、みんなが当たり前のように思い込んでいるのかもしれない。決まりがなくても、そういう考え方は簡単には変わらないものだからね」
姫は膝の上で両手を握りしめた。女だから長になってはいけないという決まりがあるわけではない。
それなのに、誰も女が長になることを考えようとしない。
腕力や経験の問題ならば、それを補う仕組みを作ればよい。
けれど、人々の考え方そのものを変えるには、いったい何をすればよいのだろう。
「……私も男に生まれてきたらよかった」
思わず漏らした言葉に、那岐は困ったように笑った。
「そんなに急いで長にならなくてもいいんじゃないかな。姫はまだ十二歳なんだから。政治のことばかり考えないで、好きな子でも見つけたりしないの?」
姫は呆気に取られた。
そして、目の前で無邪気に笑っている父を見つめた。
――好きな人なら、もういます。
ずっと前から、誰よりも大切に思っている人がいる。
優しくて、綺麗で、誰よりも頼りになって、ときどき驚くほど鈍感な人。
今、こうして目の前にいる。
けれど、その想いを告げることなどできなかった。
口にしたところで叶うはずのない想いだということも、姫自身が誰より理解していた。
「……にぶちん」
「え?」
「なんでもありません!」
姫は慌てて顔を背けた。
「そう? 何か言ったように聞こえたけど」
「気のせいですわ!」
那岐は不思議そうに首を傾げていたが、それ以上は尋ねなかった。
姫は小さく息を吐き、気持ちを切り替えた。
「それにしても、超えなければならない壁が随分と多いのですね。経験も、人々の考え方も、今の国の仕組みも……」
「そうだね。簡単なことではないと思うよ」
「父上は、私には無理だと思われますか?」
姫が真剣な表情で尋ねると、那岐はすぐには答えず、娘の目をじっと見つめた。
「今すぐに、というのは難しいだろうね。でも、これから何を学んで、どんな人になっていくのかは、姫自身が決めることだよ」
「……はい」
「姫が本当に長になりたいと思っているのなら、私は止めないよ。諦めないのなら、私にできることから協力するつもりだしね」
その言葉に、姫は顔を上げた。
「本当ですか?」
「もちろん。ただし、私が何でも決めてあげるわけにはいかないよ。人々に認めてもらうには、姫自身が学んで、考えて、行動しなければならないからね」
「わかっていますわ!」
姫は力強く頷いた。
父の後継者になるためには、まだ知らないことがあまりにも多い。
けれど、何をすればよいのか、少しだけ見えてきた気がした。
今の自分に足りないものがあるのなら、学べばよい。経験が必要なら、積み重ねればよい。
そして、女が長になれないという思い込みがあるのなら、それを覆せるだけの実績を示してみせる。
姫は改めて父を見つめた。
「父上。私、必ず立派な後継者になってみせますわ」
「うん。楽しみにしているよ」
那岐はいつものように、優しく微笑んだ。
その笑顔を見た姫は、胸の奥が温かくなるのを感じながら、同時に少しだけ悔しくなった。
父はきっと、自分がどれほど大きな決意をしたのか、まだわかっていない。
それでも構わなかった。いつか必ず、父にも、山門壱国の人々にも認めてもらうのだ。
女であることを理由に諦めるなど、姫には到底できなかった。




