七話 楽浪郡って素敵!
阿蘇の山での一件以来、那岐は須佐之男と定期的に漁へ出るようになる。
獲れた魚やワカメなどを干物にして蓄えると、家族を連れて再び阿蘇の山へ向かうようになった。
採掘を許してくれた集落には、数日間の滞在と丹土の採掘権のお礼として海の幸を渡し、その間に姫たちは丹土を掘り集めていった。
最初こそ重労働を嫌がっていた月読も、何度か通ううちに少しずつ作業のコツを覚え、今では石臼をどうにか一人で回せるようになっていた。
こうして少しずつ丹土を蓄え、十分な量が集まったところで奴国へ運び、交易船に積み込んで大陸へ渡る準備を整えた。
目指すのは漢帝国の楽浪郡であり、姫が以前から欲しがっていた新しい書物を手に入れるための旅であった。
母の伊邪那美が亡くなり、姫がこの家の母になると誓ってから六年が過ぎていた。
姫は十一歳、月読は九歳、そして末弟の須佐之男も六歳になっていた。
「楽しみだわ。奴国があれだけ凄かったのだから、大陸はもっと凄いのかしら?」
交易船の上で、姫は期待に胸を膨らませながら、まだ見ぬ大陸へと思いを馳せていた。
初めて訪れた奴国では、山門で見たこともない品々が市場に並び、その賑わいに圧倒されたものだった。
それ以上に発展した国があるというのだから、想像するだけで心が躍ってしまう。
「そもそも言葉がわかりません。話せないと困るのではありませんか?」
隣にいた月読が、少しばかり不安そうに尋ねた。
「父上が話せるから大丈夫よ。私たちは見て回るだけでも十分勉強になるわ」
姫が自信たっぷりに答えると、今度は須佐之男が那岐を見上げた。
「父上、漢ってでっかくて強い国だって本当か?」
「そうだね。倭の国々とは比べものにならないほど大きな国だよ。須佐之男は強い国が好きなのかい?」
「うんにゃ、俺は山門を強い国にしたいんだ。だから強い国がどんなところなのか、見ておきたいんだよ!」
まだ六歳の息子が胸を張って答える姿に、那岐は思わず微笑んだ。
姫は異国の文化や知識を求め、月読は言葉が通じないことを心配し、須佐之男は国の強さに興味を抱いている。
同じ場所へ向かっていても、三人の関心はまるで違っていた。
やがて海を渡った交易船は、漢帝国の楽浪郡へと到着した。
しかし、那岐は港に着いても、すぐには子供たちを自由に歩かせようとはしなかった。
まずは積み荷を降ろして取引を済ませなければならず、その間に子供たちが見知らぬ土地で迷子になっても、探しに行くことができないからである。
「取引が終わるまでは、私の近くにいてね。知らない場所だから勝手に歩いてはいけないよ」
そう言い聞かせられた姫たちは、仕方なく父の仕事が終わるまで港で待つことになったのだが、周囲を見渡した姫は、たちまち目を奪われてしまった。
「……何これ……」
港には大きな船が何艘も停泊し、荷を担いだ人足たちが慌ただしく行き交っていた。
積み荷を調べる役人や声高に取引を交わす商人たちの姿があり、聞こえてくる言葉も山門で使われる倭語とはまるで違っている。
那岐が時折話している大陸の言葉に似てはいるものの、独特の訛りや聞き慣れない言い回しも多く、姫にはほとんど理解できなかった。
人々が身にまとっている衣服も、見慣れた麻や葛の素朴なものとは異なり、色鮮やかな布を使ったものが目立つ。
港から続く通りには整然と建物が並び、屋根の造りや壁の色合いまで山門とは大きく違っていた。
奴国の市場を初めて訪れた時も驚かされたが、ここでは人の数も、扱われている品物も、街そのものの規模も桁違いだった。
「……あの奴国より、ずっと大きくて文化も進んでる……」
「そうだね。漢は広い領土と多くの民を抱える大国だから、倭とは国の仕組みも文化もずいぶん違うんだよ」
那岐の説明を聞きながら、姫はもう一度、港から街へと続く道を見渡した。
奴国で田舎娘と馬鹿にされた時は悔しくて仕方がなかったが、今はその時とは比べものにならないほどの差を感じていた。
「……山門って、本当に田舎だったのですね」
「今さら気づいたの?」
「ええ……圧倒的な差ですわ。ここまで違うとは思いませんでした」
姫は素直に驚きを認めたものの、その視線は街並みから離れなかった。
山門には豊かな田畑があり、海の幸にも恵まれ、多くの人々が暮らしている。
それでも、この街にあるような品々や仕組みはほとんど見られない。
なぜこれほどの違いが生まれるのか、姫には不思議でならなかった。
そんな娘の様子を横目に、那岐は月読と須佐之男にも手伝ってもらいながら、船に積んできた丹土を次々と運び出した。
商人との交渉や品の確認を済ませ、ようやく積み荷の売却を終えた頃には、姫の関心は港の賑わいから、さらにその先に広がる街へと移っていた。
「父上、どうして丹土を全部交換してしまったのですか? せっかく苦労して集めたのに……」
姫は不満そうに、那岐が受け取った銅製の品々を眺めていた。
「姉上、私たちが欲しいのは竹簡や木簡ですよ。これでは書物が手に入りません」
「そうよね。それに父上、どうしてこんな丸い銅の品に交換してしまったのですか?」
「これは五銖銭という貨幣なんだよ。漢が発行しているもので、ここでは品物を買うために使われているんだ」
「五銖銭……?」
姫が不思議そうに銭を手に取ると、月読も横から覗き込んだ。
「姉上、真ん中に四角い穴がありますね。けれど、こんな小さな銅の品に何の価値があるのでしょう?」
「漢という国が、この形と重さの銭を品物との交換に使えるものとして認めているからだよ。だから、互いに知らない者同士でも、この銭を渡せば欲しい品を買うことができるんだ」
「国が価値を認めているから、皆が受け取るのですね?」
「そういうこと。物と物を直接交換しようとすると、お互いが相手の品を欲しがっていなければ取引が成立しないでしょう? でも貨幣なら、まず自分の品を売って銭に換え、その銭で別の人から欲しい品を買えるんだよ」
那岐の説明を聞いた姫は、改めて手の中の五銖銭を眺めた。
ただの銅の小さな品が、国の定めによってさまざまな品と交換できるという仕組みは、物々交換が当たり前の山門で育った姫には新鮮だった。
「便利なものですわね。でも、奴国では見かけませんでしたわ」
「倭国ではまだほとんど流通していないからね。一部の交易では使われているかもしれないけれど、広く使われているわけではないんだ」
「では父上、この五銖銭があれば、私たちの欲しい竹簡や木簡も買えるのですね?」
月読が期待に満ちた顔で尋ねると、那岐は微笑んで頷いた。
「もちろん。ただ、最近は竹が不足しているらしく、竹簡が高くなっているみたいなんだ。今回は木簡を中心に探してみようか。姫も月読も、欲しい書物を自分たちで選んでごらん」
「はい!」
姫と月読は嬉しそうに声を揃えた。
商店で姫と月読が書物探しに夢中になっている頃、須佐之男は店先に並べられた鉄の塊を興味深そうに眺めていた。
手に取って重さを確かめたり、指先で表面を叩いてみたりと、よほど気に入ったらしい。
「須佐之男、鉄に興味があるの?」
「おう! 鉄はやっぱ硬いな。青銅とは全然違うぜ!」
「家にも鉄はあるでしょう?」
「鍬や斧じゃなくて、剣とか槍が欲しいんだよ。鉄で作った武器なら、もっと強くなれるだろ?」
須佐之男は目を輝かせながら鉄の塊を持ち上げた。
まだ六歳だというのに、重い鉄を軽々と扱う姿に、那岐は感心すると同時に少しばかり困ってしまった。
「うーん……武器を持たせるにはまだ早いかな。でも、鉄はいくつか手に入れておくよ。須佐之男がもう少し大きくなったら、剣でも槍でも作ってあげられるようにね」
「本当か、父上! じゃあ、いつ作ってくれるんだ?」
「そうだねぇ。もうちょっと大人になってからかな」
「ちぇっ……まだ駄目なのかよ」
須佐之男は不満そうに口を尖らせたものの、いつか自分の武器を作ってもらえると聞いて、すぐに機嫌を直した。
もっとも、那岐が鉄を求めていたのは、息子のためだけではなかった。
山門壱国では農具や木工具をはじめ、さまざまな用途で鉄の需要が高まっており、国の発展には欠かせない資材となっていたのである。
そのため、今回は個人的な買い物とは別に、国の正式な交易として大量の鉄を買い付けることにした。
さらに、山門ではまだ貴重な布や繊維製品なども仕入れ、持参した交易品と交換して得た銭を使いながら、必要な物資を次々と揃えていった。
一通りの買い付けを終えた那岐は、商店に残してきた姫と月読を迎えに向かった。
二人は相変わらず木簡を手に取り、熱心に文字を追っていた。
店主は困り果てた様子で二人を眺めていたが、那岐の姿を見つけると、ようやく買い手が現れたとばかりに安堵の表情を浮かべた。
ところが、姫は父の姿を見つけるなり木簡を置き、矢継ぎ早に質問を始めた。
「父上、どうして荷物を一つ一つ記録しているのですか? それに、どうして品物の重さを同じ基準で量るのでしょう? 税は誰に納めるのですか? 法はどのように決めるのでしょう? それから、戸というのは何を意味しているのですか?」
「ま、まあまあ、姫。少し落ち着いて。一度にそんなに聞かれても答えられないよ。順番に教えてあげるからね」
那岐は苦笑しながら娘をなだめると、店主に二人が求めている書物を揃えてもらうことにした。
すでに姫と月読が手に取って読んでいた木簡については、その場で代金を支払い、ほかにも必要な書物を探してもらうよう頼んだ。
しかし、二人が選んだ書物を確認していた那岐は、次第に困惑し始めた。
「それにしても姫……これ、ほとんど政治に関する書物ばかりじゃないか。詩とか物語には興味がないの?」
「もちろんありますわ。ただ、欲しいものに優先順位をつけていたら、詩まで手が届かなかっただけです」
「法に税、戸の管理、それに……六韜まで欲しいの?」
六韜とは、古くから伝えられる兵法書の一つである。
しかし、その内容は単なる戦術や軍の運用にとどまらず、君主の心得や人材の登用、国の治め方にも及んでいた。
「六韜は、ただの兵法書ではありませんわ。国を治める者が何を考え、どのように人を用いるべきかまで記されているのでしょう? だから、どうしても読んでみたいのです」
「……普通の女の子が欲しがるようなものでもいいんだよ?」
「普通の女の子が何を欲しがるのかは知りませんけれど、私はこれが欲しいのです」
あまりにも当然のように答える娘を前に、那岐は返す言葉を失ってしまった。
まだ十一歳だというのに、装飾品や美しい衣服よりも、法や税の仕組み、国を治める方法に興味を示している。
知識を求める姿勢は喜ばしいものの、父親としては娘がこの先どのような大人になるのか、少しばかり心配にもなってしまう。
とはいえ、姫が欲しがっている六韜については、別の問題があった。
那岐は長年の経験から、六韜が容易に手に入る書物ではないことを知っていた。
孫子ほど広く名を知られているわけではないにせよ、軍事や統治に関わる貴重な書物であり、一般の商店で気軽に買い求められるような品ではない。
写本であっても入手は難しく、相応の伝手と財が必要になるだろう。
それでも、娘はどうしても読みたいという。
幼い頃から家事や弟たちの世話に励み、その合間を縫って文字を学び、ついには家にある書物のほとんどを読み終えてしまった娘である。
そこまで努力を重ねてきた姫が、新しい知識を求めているのなら、できる限り応えてあげたかった。
そこで那岐は、姫たちには知らせず、密かに店主へ相談を持ちかけた。
役人との伝手を持つ商人を紹介してもらい、六韜の写本を手に入れられないかと頼み込んだのである。
正規の取引だけでは難しいことも承知していたため、必要ならば役人への賄賂に充ててほしいと、多額の銭を商人に託した。
もっとも、その費用を山門壱国の財から支出するつもりはなかった。
いくら愛する娘の願いであっても、個人的な書物の購入に国の資産を使うわけにはいかないからである。
那岐が取り崩したのは、長い年月をかけて少しずつ蓄えてきた自分自身の財産だった。
本来、その蓄えには別の使い道があった。亡き妻、那美の墓をいつか立派なものにしてあげたい。そのために、少しずつ貯めてきたものだったのである。
商人に銭を渡し終えた那岐は、残り少なくなった手持ちの財を眺めながら、遠く離れた山門の地に眠る妻を思い浮かべた。
「……ごめんね、那美。いつかお墓を立派にしてあげたくて、ずっと貯めていたんだけど……子供たちのために使っちゃった」
那岐は少し寂しそうに微笑むと、誰に聞かせるでもなく、小さな声で続けた。
「でも、姫がね、本当に一生懸命なんだ。あの子があんなに欲しがっているんだから、できることなら読ませてあげたくて……」
しばらく黙ってから、那岐は穏やかな表情で空を見上げた。
「……きっと、那美ならわかってくれるよね。あの子たちのことが、何よりも大切だったものね」
生前の那美なら、きっと笑って許してくれただろう。墓を飾ることよりも、子供たちのために使ってほしいと言ったかもしれない。
そう思うと、那岐の胸の内も少しだけ軽くなった。
数日後、商店の店主が姫と月読の求めていた書物を揃えてくれた。
ほとんどが写本であったが、それでも高価な品ばかりである。
紙に記された書物もあったものの、あまりに高価で手が届かず、竹簡も原材料の不足から値が上がっていたため、今回は比較的入手しやすい木簡を中心に買い揃えることになった。
それでも、これまで見たこともないほど大量の書物を手に入れられた姫と月読は、積み上げられた木簡を前に満足そうな笑みを浮かべていた。
一方、須佐之男は山門壱国のために買い付けた大量の鉄を眺め、目を輝かせていた。どうやら、その鉄が自分の剣や槍を作るためのものだと思い込んでいるらしい。
子供たちがそれぞれ満足している様子を見て、那岐もようやく安堵したものの、須佐之男にだけは少しばかり申し訳ない気持ちになっていた。
――ごめんね、須佐之男。その鉄は国のもので、ほとんどが鍬や斧などの道具になるんだよ。今回は許してね……。
そんな父の心中など知る由もなく、須佐之男は嬉しそうに鉄の塊を眺め続けていた。
やがて、買い付けた品々を船へ運び込んでいた時、姫が街並みを眺めながら那岐に問いかけた。
「父上、山門を楽浪郡のように栄えた国にすることはできないのでしょうか?」
「難しいだろうね。国土も人口も規模が違いすぎるから。それに、そもそも倭には小さな国がたくさんあって、まとまりがないんだよ」
「倭の国というのは、どれほどの国があるのでしょうか?」
月読が興味深そうに尋ねると、那岐は少し考えてから答えた。
「国と呼んでいいのか迷うほど小さなところもあるけれど、百以上はあるはずだよ。中には山門や奴国のように大きな国もあるけれど、多くは小さな国々がそれぞれ独立して暮らしているんだ」
「では、それらの国々が一つにまとまれば、倭も楽浪郡のように栄えることができるのでしょうか?」
姫の問いに、那岐はすぐには答えず、港の向こうに広がる街並みへ目を向けた。
「そうだね……ただ一つにまとめただけでは難しいと思うよ。国が大きくなれば、それだけ人も物も増えるけれど、同時に治める仕組みも必要になるからね。でも、ある程度の規模にまで大きくならないと、漢のような国に近づくことも難しいだろうね」
姫は父の言葉を聞きながら、改めて楽浪郡の街並みを見渡した。
整然と並ぶ建物、荷を運ぶ大勢の人々、品物を売り買いする商人たち。
そして、それらを管理する役人や、取引の記録を残すための文字と書物。
どれも山門ではほとんど見られないものであり、この繁栄が単に人や物の多さだけで成り立っているわけではないことを、姫も少しずつ理解し始めていた。
「……父上は、倭を一つにまとめようとは思われないのですか?」
その問いに、那岐は口を閉ざした。
三百五十年もの間、山門の地で人々と共に暮らし、村を育て、国を支えてきた父である。
姫にとって那岐は、誰よりも多くのことを知り、困っている人がいれば必ず手を差し伸べる、優しく慈悲深い為政者だった。
その父ならば、倭の国々をまとめることもできるのではないか。姫はそう考えていたのだが、那岐はしばらく考え込んだ末、静かに首を横に振った。
「私は政治に向いていないからね。いずれ、もっとふさわしい人が現れて、その人がやることになるんじゃないかな」
「……父上が、政治に向いていない?」
「うん。私は田を耕したり、水路を造ったり、人々の暮らしを支えることなら好きなんだけどね。国と国との利害を調整したり、誰かの利益を諦めさせてまで物事を決めたりするのは、どうしても苦手なんだよ」
那岐は少し困ったように微笑んだ。
その言葉は、姫にとって意外なものだった。
父は優しく、慈悲深く、人々から慕われている。
山門壱国が豊かで平穏な暮らしを続けられているのも、長年にわたって父が尽くしてきたからこそだと信じていた。
けれど、その父が自分自身を政治に向いていないと言うのである。
――優しくて、慈悲深いだけでは駄目なのかしら……。
姫は隣を歩く父を見上げた。自分が知らない政治というものには、まだ理解できていない何かがあるのかもしれない。
楽浪郡で目の当たりにした繁栄と、父が口にした政治への苦手意識。
その二つが姫の胸に小さな疑問を残し、これまで漠然としか考えていなかった国の在り方について、改めて思いを巡らせるのだった。




