五話 母の悲劇と決意、世の中を変えてみせる!
母の伊邪那美が亡くなり、姫がこの家の母になると誓ってから四年が過ぎた。
姫は九歳、月読は七歳、そして末弟の須佐之男も四歳になっていた。
この頃になると、須佐之男は一人で外へ遊びに出かけるようになったのだが、姫には新たな悩みが生まれていた。
とにかく喧嘩が多いのである。
近所の子供たちと遊んでいたかと思えば、いつの間にか取っ組み合いの喧嘩になり、しかも必ず勝ってしまう。
四歳とは思えないほど力が強く、年上の子供まで負かしてしまうため、相手に怪我をさせることも珍しくなかった。
そのたびに姫は相手の家へ謝りに行かなければならず、家事や弟たちの世話に加えて、須佐之男の喧嘩の後始末まで引き受ける羽目になっていた。
そして今日もまた、近所の子供を泣かせて帰ってきた須佐之男を前に、姫の堪忍袋の緒が切れた。
「須佐之男! たまには喧嘩に負けてきなさい!」
「だって相手がよえーんだから仕方ないじゃん」
悪びれる様子もなく答える弟に、姫は思わず拳を握りしめた。
「なにをーーー!」
「まあまあ、姉上……」
今にも弟につかみかかりそうな姫を、月読が慌ててなだめる。
しかし、当の須佐之男は姉がどうしてそこまで怒っているのか、まるで理解していない様子だった。
その夜、姫は弟たちが眠りについたことを確かめると、いつものように那岐の寝所へ忍び込み、そっと布団の中に潜り込んだ。
「またかい?」
那岐は苦笑しながらも、頻繁に添い寝を求めてくる娘が可愛くて仕方がなかった。
まだ九歳なのに母親代わりとして家事や弟たちの世話に励んでいることもあり、こうして甘えてくる時くらいは、喜んで受け入れてあげたかった。
「今日はちゃんと理由があるんです!」
姫はそう言い張ったものの、実のところ、数年前から父に抱く想いが単なる親への愛情とは違うことに気づいていた。もちろん、そんな気持ちを口にできるはずもない。
それでも父の傍にいたくて、何かと理由をつけては寝所を訪れていたのである。
「また須佐之男のことかい?」
「はい。たくましく育っているのは喜ばしいことですが、あまりにもやんちゃすぎます!」
「あはは、あのやんちゃなところは那美に似たのかもしれないね」
「母上もやんちゃだったのですか?」
「須佐之男みたいに喧嘩ばかりしていたわけではないけど、とても活発だったよ。じっとしているのが苦手で、暇さえあれば海に出ていたからね」
「そういえば、母上は漁師だったのですよね」
「そうだよ。那美は海が大好きだったんだ。海はあの子の心を癒してくれたからね」
「癒す……?」
姫は父の言葉に引っかかるものを感じた。母が海を好んでいたことは知っていたが、心を癒されたという話は初めて聞いた。
それに、考えてみれば両親がどのように出会い、夫婦になったのかも知らない。
「そういえば父上、母上とはどこで知り合って、どうして夫婦になられたのですか?」
「そっか、まだ話していなかったんだね……」
那岐は少し考え込んでから、姫の顔を見つめた。
「うーん、今の姫なら話してもいいかな」
「ぜひ聞かせてください!」
姫は興味を隠しきれず、父の顔を見上げた。
母がどのような少女だったのかも気になるが、それ以上に、あれほど美しく優しい父の心を、母がどのようにして射止めたのか知りたかったのである。
「今から三十年くらい前のことなんだけどね。ひどい不作の年があって、山門壱国全体で食糧が不足したことがあったんだ」
那岐は当時のことを思い出しながら、ゆっくりと語り始めた。
「私は長い年月をかけて、凶作や災害に備えるための食糧を倉に蓄えていたんだ。だから、その備蓄を解放して困っている村々を救おうと提案したんだけど、反対する長たちが多くてね」
「何故ですか? 困っている人たちを助けたいだけなのでしょう?」
「もちろん、みんなも助けたくないわけじゃなかったんだよ。ただ、山門壱国のすべての村を救おうとすれば、今度は山門の備蓄が底をついてしまうのではないか、という心配があったんだ」
那岐は少し間を置いてから、さらに言葉を続けた。
「それに、食糧の備蓄は本来それぞれの村が責任を持って行うべきことなのに、どうして蓄えがないのかという意見もあった。困っている村だけを助ければ、日頃から備えてきた村にとって不公平になるという話も出てね」
「……なるほど」
姫はすぐには反論せず、父の話を頭の中で整理してみた。
確かに、食糧を分け与えれば、それだけ山門の備蓄は減ってしまう。
翌年も不作になったらどうするのかという心配も理解できた。
また、日頃から苦労して食糧を蓄えてきた村が、備えを怠っていた村と同じように扱われることに不満を抱くのも、無理のない話なのかもしれない。
困っている人を助けるべきだという思いは変わらなかったが、反対した長たちの意見にも、それぞれ一理あるように感じられた。
「そして、説得に時間をかけすぎてしまったんだ」
「でも、その食糧は父上が長年かけて蓄えたものであって、村長たちが蓄えたものではないのでしょう?」
「そうだね。でも、私が蓄えたものでも国の財産なんだ。だから、私一人の判断で使ってよいものではないんだよ」
「でも、納得できません。困っている人たちがいるのに、どうしてすぐに助けてあげられないのですか?」
姫は不満そうに眉を寄せた。村長たちの言い分にも一理あるとは思う。
しかし、食糧がなくて困っている人々を救うための備蓄なのに、その使い道を巡って争っていては、何のために蓄えてきたのかわからない。
「結局、私自身が率先して蓄えてきた倉を解放するということが、最後には村長たちの判断を動かしたんだ。それでようやく、各地への救済が認められたんだよ」
「当たり前ですわ。最初からそうすればよかったのです」
「そうだね。けれど、決まるまでに随分と時間がかかってしまった。その後、食糧を積んだ船や荷車で山門壱国の各地を回り、困っている村々へ届けていったんだけど……間に合わなかった村があったんだ」
那岐の声が、少しだけ沈んだ。
「間に合わなかった……? 何があったのですか?」
「村と村で、食糧の奪い合いが起きてしまったんだよ」
食糧が不足すれば、人は生き延びるために必死になる。
蓄えのある村へ分け与えるよう頼む者もいれば、奪ってでも生き残ろうとする者もいる。
この時代、飢えをきっかけに村同士が争うことは、決して珍しいことではなかった。
「私が救済に向かっていた村も、その争いに巻き込まれてしまったんだ。もう少しで到着するところだったのに、先に別の村の者たちが押し寄せてしまってね」
那岐は一度言葉を切り、静かに続けた。
「私が着いた時には、村の家々は焼かれ、田畑も荒らされていた。食糧はすべて奪われ、大勢の村人が殺されていたんだ」
「……なんて酷いことを」
姫は思わず声を漏らした。
「そうだね。そんなことが起きないように、私は長い年月をかけて食糧を蓄えてきたつもりだったんだけどね……」
那岐は寂しそうに微笑んだ。
「もう少し早く救済に動けていたら、あの村の人たちも助けられたかもしれない。今でも、そう思うことがあるよ」
姫は黙り込んだ。
父が食糧を蓄えていたことは知っている。困っている人を見捨てるような人ではないことも、誰よりもよく知っていた。
それなのに、どうして救えなかったのだろう。なぜ、もっと早く動くことができなかったのだろう。
村長たちの反対を押し切ってでも、食糧を届けるべきだったのではないか。姫の胸には、そんな疑問と憤りが少しずつ膨らんでいた。
「……それで、その村の人たちは全員亡くなったのですか?」
「いいや。一人だけ、生き残っていた子がいたんだ」
那岐は姫の顔を見つめた。
「焼け残った家の陰で、小さな女の子を見つけたんだよ。まだ三歳でね。ひどく怯えていて、声をかけても返事をしてくれなかった」
「その子は……?」
「その子が、後に姫たちの母親となる那美だったんだよ」
「那美はね、心に深い傷を負ってしまっていたんだ。あまりにつらい出来事だったからか、記憶も混乱していて、自分の名前すら思い出せなくなっていたんだよ」
那岐は当時を思い出すように、ゆっくりと言葉を続けた。
「それで私が引き取ったんだけど、どうしたら元気になってくれるのかわからなくてね。いろいろ試してみたんだけど、なかなか笑ってくれなかった。そんなある日、海へ連れて行ってみたんだ。そうしたら、初めて興味を示してくれてね。波をじっと見つめて、少しだけ表情が明るくなったんだよ」
「では、母上が海を好きになられたのは、その時からなのですか?」
「そうだよ。海を眺めている時だけは穏やかな顔をしてくれたから、何度も連れて行ったんだ。それでね、波の美しい海を見ながら、この子にも美しい人生を送ってほしいと思って、伊邪那美という名を付けたんだよ」
「母上のお名前は、父上が付けられたのですね」
「うん。それから少しずつ笑顔が増えて、言葉も戻ってきてね。いつの間にか海が大好きな、元気いっぱいの娘に育ってくれたよ」
「……娘だったのですか?」
思いがけない言葉に、姫は目を丸くした。
「私にとっては娘のような存在だったんだ。でも、那美が大人になってから、少しずつ私を見る目が変わってきてね。最初はどうしたものかと困ってしまったよ」
「……なるほど。母上の方からだったのですね」
「うん。ずいぶん積極的だったからね。何度も気持ちを伝えてくれて、私もどう答えたらいいのか悩んだものだよ。でも、最後には私自身も、那美を一人の女性として愛していることに気づいたんだ」
那岐は懐かしそうに微笑んだ。
その表情を見ながら、姫は妙に納得してしまった。
どうやら母は、ずいぶん積極的に父へ想いを伝え、最後にはその心を射止めてしまったらしい。
……気持ちはわかるわ。だって、こんなに美しくて優しい人なのだもの。
長い黒髪に整った顔立ち、柔らかな物腰、男性とは思えないほど愛らしい容姿をしているのに、いざという時には誰よりも頼りになる。
山門の邑どころか、山門壱国中を探したって、父上を超える男性なんているはずがない。母上が好きになったのも当然だわ。
そう考えると、母が父を口説き落とすためにどれほど頑張ったのか、少しばかり興味も湧いてきた。もっとも、そこまで詳しく尋ねる勇気は、今の姫にはなかった。
「それから三人の子宝に恵まれたんだけど……その後のことは姫もわかるよね」
「はい……」
姫は小さく頷いた。母が亡くなった日のことは、今でも鮮明に覚えている。
あれから四年が経ったというのに、思い出すだけで胸が締めつけられた。
「そういえば、那美も子供の頃はよく私の寝床に潜り込んできたよ。そういうところは姫によく似ているね」
那岐は懐かしそうに微笑んだ。
「……母上が子供の頃から父上は邑長だったのでしょう? そう考えると、父上は一体おいくつなのですか?」
「え? どのくらいだったかなぁ……たぶん三百五十歳くらい?」
「さんびゃく……ごじゅっ!?」
姫は思わず父の顔を見つめ直した。
目の前にいるのは、どう見ても自分より少し年上にしか見えない、愛らしい顔立ちの少年である。
長い黒髪に整った目鼻立ち、柔らかな物腰まで含めれば、男というより美しい少女と言われた方が納得できるほどだった。
「……以前お話しくださった、歳を取らない呪いのせいですか?」
「うん、そうだよ」
「三百五十年も生きていらっしゃるなんて……」
「私も、こんなに長く生きることになるとは思わなかったよ」
那岐は穏やかに答えたものの、それ以上は何も語らず、ただ姫の頭を優しく撫でていた。
その表情に、ほんのわずかな寂しさが浮かんだことを、姫は見逃さなかった。
きっと、父にも話したくない過去があるのだろう。そう感じた姫は、それ以上問いかけることをやめた。
それにしても、母と自分が似ているという話には、どうにも納得がいかなかった。
そもそも、こんなにも美しくて優しい男性が身近にいたら、誰だって傍にいたくなるに決まっている。母が父を好きになったのも当然ではないか。
それなのに、当の本人はまるで気づいていない。
どうにも父は、昔から少しばかり感覚がずれているらしい。
あれほど女性たちから熱い視線を向けられているというのに、巫女装束をまとって舞うことにも何の抵抗もなく、集まった女性たちが大喜びする理由さえ理解していないのだから。
まったく、困った人である。
もっとも、そんな天然ぼけなところまで愛おしく思えてしまうのだから、自分も相当に重症なのだろう。
母も、きっと同じだったに違いない。そう考えると、父を好きになった理由だけは、母と自分でよく似ているのかもしれなかった。
しかし、母の過去を知った姫の胸には、悲しみとは別の感情が渦巻いていた。
それは、抑えようのない憤りだった。なぜ、もっと早く救いに行けなかったのだろう。
父は長い年月をかけて食糧を蓄え、飢饉に備えていた。
人々が飢えないように、村同士が食糧を奪い合うことのないように、その日のために準備を重ねてきたのである。
それなのに、いざ食糧が不足すると、村長たちは倉を開くことに反対した。
もちろん、彼らの言い分にも一理ある。備蓄を使い果たせば、今度は山門そのものが危うくなるかもしれない。
各村が自ら備えるべきだという主張も、決して間違ってはいないだろう。
けれど、本当にそれだけだったのだろうか。
他所の村だけが救われることへの不満。自分たちの村が損をすることへの恐れ。
あるいは、父が長年蓄えてきた食糧を、自分たちのためにも確保しておきたいという欲。
それぞれがもっともらしい理屈を並べながら、その裏では自分たちの利益を守ろうとしていたのではないか。
姫には、そう思えてならなかった。
誰もが自分の村を守ろうとする。それ自体は責められることではない。
だが、それぞれが自分の利益を主張し、譲ろうとしなければ、いったい誰が国全体のことを考えるのだろう。
そして、意見がまとまるまでの間にも、人々は飢え、苦しみ、命を落としていく。
父は救おうとした。村長たちも、きっと国を滅ぼそうとしたわけではない。それでも、結論が出なかった。
ようやく救済が決まった時には、すでに手遅れになっていた村があった。
そこに暮らしていた人々は殺され、家々は焼かれ、母は三歳にして家族も故郷も失ってしまったのである。
合議とは、皆で意見を出し合い、納得できる道を探すためのものなのだろう。
一人の勝手な判断を防ぐという意味では、優れた仕組みなのかもしれない。
だが、姫にはその仕組みが、ひどく醜いものに思えてきた。
どれほど立派な理屈を並べようと、最後に人々を救えなかったのであれば、何のための話し合いだったのだろう。
誰も責任を取らず、誰も決断せず、ただ時間だけが過ぎていく。そんなことが許されてよいはずがない。
――くだらない。
姫は唇を噛みしめた。
――そんなことで、村が一つ滅んでしまったなんて。
もし、父が村長たちの反対を押し切り、すぐに倉を開いていたら。
もし、誰か一人でも決断を下していたら。母は家族を失わずに済んだかもしれない。
もっとも、そうなっていれば母と父が出会うこともなく、自分が生まれることもなかっただろう。
その事実に気づいた時、姫は胸の奥が締めつけられるような思いに襲われた。
けれど、すぐに首を横に振った。母の村が滅んだことに、意味などない。
大勢の人が殺され、幼い母がすべてを奪われたことに、自分が生まれるためだったなどという理由があってよいはずがない。
そんな悲劇は、最初から起こらない方がよかったのだ。それでも、その悲劇の先に自分がいる。
ならば、自分が生まれたことに意味を見いだすとすれば、それはこれからの生き方によって決まるのではないだろうか。
母と同じように家族を失う子供を、二度と生み出したくない。
食糧があるのに救いが届かず、命を落とす人々を見過ごしたくない。
そのためには、困っている人を助けるだけでは足りない。
助けなければならない時に、すぐに助けられる仕組みが必要なのだ。
誰も決められないのなら、誰かが決めなければならない。
そして、誰も決めようとしないのなら――。
――私が決めればいいじゃない。
姫の胸に、一つの考えが芽生えた。
もちろん、九歳の少女にすぎない姫は、まだ自分が王になるなどとは考えていなかった。
国を治めるということが、どれほど難しいものなのかも知らない。
ただ、父のように優しいだけでは救えない命があることを知った。
そして、人々を救うためには、時として誰かが責任を負い、決断を下さなければならないことも。
母のような目に遭う人を、二度と出したくない。
そのために今の仕組みが妨げになるのなら、変えてしまえばいい。たとえ、それが何百年も続いてきた山門壱国の在り方そのものだったとしても。
――いつか必ず、この国を変えてみせる。
その夜、九歳の姫は、誰にも告げることなく心に誓った。
それは、後に倭国の女王となる少女が、初めて政治というものに明確な意思を抱いた瞬間だった。




