四話 初めての奴国、田舎娘と言われて悔しい!
母の伊邪那美が亡くなり、姫がこの家の母になると誓ってから三年が過ぎた。
姫は八歳、月読は六歳、末弟の須佐之男も三歳になり、母を失った当初は慌ただしかった家族の暮らしも、今ではすっかり落ち着いていた。
その日も、姫は朝早くから父の伊邪那岐と並んで朝食の支度をしていた。
料理が出来上がる頃には、まだ寝床で眠っている月読と須佐之男を起こし、家族四人で食卓を囲む。そんな、いつもと変わらない朝のことだった。
「そうそう、近いうちに奴国へ行くことになったんだ」
朝食を取りながら、那岐が何気なく切り出した。
「奴国って、北にある国ですよね?」
真っ先に反応したのは月読だった。
姫が父から文字を学び始めて、すでに二年が経っていた。
六歳になった月読も姉の影響を受けて勉強を始めており、今では二人で木簡や竹簡を広げて読み進めることが日課になっている。
毎日欠かさず学び続けた成果もあり、姫は父の助けを借りずとも、ある程度の書物を読めるようになっていた。
もっとも、大陸の文字は同じ字でも前後の文脈によって意味が変わることがあり、知らない言葉も次々と現れる。
そのため、理解できなかった箇所は木札に書き留めておき、夜になると父にまとめて質問するのが習慣になっていた。
月読はそんな姉から文字を教わっていたが、知識が増えるにつれて姉弟の会話にも山門の外の地名や国々の話題が増え、二人とも書物を通じて知った外の世界に興味を抱くようになっていた。
「うん、そうだよ。山門でいろいろと足りない物が出てきたからね。奴国へ交易に行って、必要な品を手に入れてこようと思っているんだ」
那岐はそう説明すると、三人の子供たちを順番に見渡した。
「ただ、何日か家を空けることになるから、その間の留守番をどうしようかなって考えていたところなんだよね」
その瞬間、姫の目がきらりと輝いた。
「留守番なんてしません。家族全員で奴国に行きましょう!」
「え?」
突然の提案に那岐が目を丸くすると、隣で話を聞いていた月読まで身を乗り出してきた。
「私も奴国に行きたいです! 山門では父上のお家にしか書物がありませんから、奴国ならもっとたくさんあるのでしょう?」
「俺も奴国に行きたいぞー!」
須佐之男は奴国がどんなところなのかもよく分かっていなかったが、姉と兄が楽しそうにしているのを見て、自分も連れていってほしいと元気よく声を上げた。
「あー、まあ、奴国なら木簡や竹簡もあるだろうけど、今回の目的は山門で不足している品々を手に入れることだからね。書物を探しに行くわけじゃないんだよ」
「分かっていますわ、父上! 必要な交易を済ませるついでに、書物を見て回ればよいのでしょう?」
「……それ、絶対についでの方が本命だよね」
那岐は困ったように笑ったが、姫も月読も期待に満ちた目を向けてくるうえ、須佐之男まで一緒になって騒いでいる。
こうなっては説得して留守番をさせる方が難しいと悟り、結局、家族全員で奴国へ向かうことになった。
当時の筑紫は現在よりも海面が高く、後の世に福岡市から久留米市と呼ばれる地域にかけて、まるで大河のように細長い内海が広がっていた。
現在の佐賀県や長崎県に当たる土地も九州本土から大きく隔てられ、巨大な島のような地形を成していたのである。
そのため、山門壱国から北方の奴国へ向かうには、陸路よりも海路を利用した方が都合がよかった。
那岐は交易に用いる品々を船に積み込み、子供たちを伴って内海を北上し、奴国へと向かった。
やがて奴国の港に到着すると、那岐は船を降りるなり須佐之男を肩車した。
三歳になった末息子は好奇心旺盛で、興味を引くものがあれば周囲も構わず駆け出してしまう。
初めて訪れる賑やかな市場で迷子にでもなっては大変だと考え、少なくとも交易を済ませるまでは、自分の肩の上に乗せておくことにしたのだった。
「姫、月読、市場からは離れないでね。それから、裏路地にも入ってはいけないよ。いいね?」
「わかってますわ」
「はい、わかりました、父上」
那岐から注意を受けた姫と月読は、二人で市場を見て回ることにした。
「月読はどこから見て回るつもり?」
「まずは市場を一通り見てから、木簡や竹簡を扱っている店を探してみようと思います。姉上はどうされますか?」
「そうね。私も書物には興味があるし、一緒に探しましょうか」
二人は並んで市場の賑わいの中へと歩き出した。
奴国の市場には、海で獲れた魚介類や山で採れた木の実、乾燥させた薬草などが所狭しと並べられていた。
さらに奥へ進むと、色鮮やかな布や装飾品、精巧に作られた日用品など、山門では滅多に目にすることのない品々まで売られている。
商人たちの威勢のよい呼び声が飛び交い、買い物客が品物を手に取って値を交渉する光景に、姫も月読も興味を引かれていた。
そんな中、姫の足が一軒の店先で止まった。
そこには青銅で作られた様々な品物が並べられており、その一角に置かれた丸い黄金色の品が、陽の光を受けて美しく輝いていたのである。
「お嬢ちゃん、それが気に入ったのかい?」
店主に声をかけられた姫は、少し驚きながらも興味を隠せない様子で尋ねた。
「え、ええ。これは何という品なのですか?」
「銅鏡というんだよ。大陸から渡ってきた品でね、なかなか立派なものだろう?」
「銅鏡……。では、こちらの模様が刻まれた長い筒のようなものは何ですの?」
「そいつは銅鐸だね。吊るして鳴らすと音が出るんだ。祭りや神事なんかにも使われるものさ」
「まあ、そうなのですね。では、この丸い品はどのように使うのですか? 裏側には綺麗な模様が刻まれていますけれど……」
「そいつをひっくり返してごらん」
店主に促されるまま、姫は銅鏡をそっと裏返した。すると、磨き上げられた滑らかな面に、見覚えのある少女の顔が映り込んだ。
「……あら?」
思わず目を丸くした姫は、鏡を右へ傾け、今度は左へ傾けてみた。
すると鏡の中の少女も同じように動き、こちらを不思議そうに見つめ返してくる。
川の水面に映る姿とは違い、波に揺らされて形が崩れることもなく、自分の顔がはっきりと映り続けていた。
「面白いわね。川と違って波で崩れないし、好きなところへ動かしても、ちゃんと顔が映るのね」
感心している姫の横から、月読も興味津々といった様子で鏡を覗き込んだ。
「姉上、見てください。私の顔も映っています」
「本当ね。月読、もう少しこちらへ寄ってごらんなさい」
「はい!」
月読が姫の肩に顔を寄せると、銅鏡の中には仲よく並んだ姉弟の顔が映し出された。
二人は鏡の中の自分たちを眺めながら顔を見合わせ、思わず楽しそうに笑い合うのだった。
姫は楽しそうに笑うと、今度は長い髪を片手で持ち上げ、鏡に映る自分の姿を眺めながら髪の流れを確かめた。
水面とは違い、顔を動かしても姿が揺らぐことはなく、細かな髪の乱れまではっきりと見て取れる。
「これ、髪を結う時にとても便利そうね。後ろは見えないけれど、横ならよく見えるわ」
「姉上、毎朝髪を整えるのに苦労していますものね」
「長いんだから仕方ないでしょう。父上なんて私よりずっと長いのに、いつも綺麗にしているじゃない」
そう言いながら再び鏡を覗き込んだ姫は、しばらく自分の顔を眺めていたが、ふと何かを思いついたように目を輝かせた。
「……これ、父上を映したらものすごく綺麗なんじゃないかしら」
月読は少し考えてから、至って真面目な顔で答えた。
「父上は鏡がなくても綺麗です」
「それは知ってるわよ」
姫は当然のことを言われたとばかりに答え、もう一度鏡へ視線を戻した。父の美しさについては、月読に言われるまでもなく誰よりもよく知っているつもりだった。
そんな姉弟の様子を眺めていた店主が、面白そうに声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、銅鏡を見るのは初めてなんだね。身なりはいいのに、随分と珍しがるじゃないか。この辺りの娘じゃなさそうだけど、どこから来たんだい?」
「山門よ」
姫が何気なく答えた途端、それまで愛想よく品物を説明していた店主の表情が変わった。
「山門だぁ? なんだ、田舎娘かよ」
「なっ、失礼な!」
いきなり田舎娘と呼ばれた姫は、思わず声を荒らげた。しかし店主は悪びれる様子もなく、鼻で笑いながら言葉を続けた。
「あのな、お嬢ちゃん。いくら戦が強いからって、田舎者には変わらないだろ」
「戦? 山門は戦なんて好きではないわ!」
「好きか嫌いかなんて関係ねえよ。田舎者なのは事実じゃねえか」
「なによ! ちょっと市が賑わっているだけじゃない!」
「ちょっとだぁ? 全然違うだろ! 奴国は倭国で一番先進的で、最も栄えている国なんだ。山門なんて山と海と田しかないだろうが!」
あまりの言い草に姫は顔を真っ赤にした。
確かに奴国の市場は賑わっており、山門では見たこともない品々が並んでいる。
布の質も装飾品の精巧さも、故郷のものとは比べものにならない。
それでも、生まれ育った山門をここまで馬鹿にされて黙っていられるはずがなかった。
「山門だって豊かな国よ! 田も畑もたくさんあるし、食べ物に困ることだって少ないわ。それに父上は……!」
そこまで言いかけたところで、隣にいた月読がそっと姫の袖を引っ張った。
「姉上、そこまでにしましょう。他にも見に行きたいところがありますし」
「でも、月読! この人、山門を馬鹿にしているのよ!」
「わかっています。でも、ここで言い争っても仕方ありません」
月読に諭され、姫は悔しそうに唇を結んだ。言い返したいことはいくらでもある。
けれど、目の前に並ぶ珍しい品々を見れば、奴国が山門より文化的に進んでいることまで否定することはできなかった。
「……わかったわ」
姫は不満を押し殺し、銅鏡を元の場所へ戻して店を離れようとした。
「帰んな! 山門の田舎者に売る品はねえぜ!」
背後から投げつけられた言葉に、姫は思わず足を止めた。
振り返って文句の一つでも言ってやりたかったが、月読が再び袖を引いたため、ぐっと堪えて歩き出した。
悔しかった。山門は父が長い年月をかけて豊かにしてきた国なのに、どうしてあんな言い方をされなければならないのか。
それでも、奴国の市場が山門より遥かに賑わっているという事実だけは、どうしても頭から離れなかった。
その後、姫と月読は山門の出身であることを口にしないよう気をつけながら市場を見て回った。
珍しい品物を見つければ足を止め、木簡や竹簡を扱う店を探して歩いたものの、姫の胸には先ほどの悔しさが残り続けていた。
やがて二人は、交易を終えた那岐のもとへ戻っていった。
必要な取引を済ませた那岐は、待ち合わせの場所に戻ってきた姫と月読を迎えた。
しかし、出かける前とは打って変わって浮かない顔をしている姫に気づき、心配そうに声をかけた。
「……何かあったの?」
「…………」
姫は答えようとせず、不機嫌そうに顔を背けた。その様子を見かねた月読が、代わりに事情を説明する。
「市場の商人に、山門は戦しか強くない田舎者だって馬鹿にされたんです」
「あー……そういうことか。ちょっと船に戻ろうか。ここでは人に聞かれてしまうからね」
那岐は二人を連れて港へ戻ると、船の上で肩車していた須佐之男を降ろし、積み荷の邪魔にならないところで遊ばせることにした。
姫と月読は甲板に腰を下ろし、向かいに座った父の話を待った。
「二十年くらい前のことなんだけどね。当時の奴国は南へ領土を広げようとしていて、その一環として山門にも攻め込んできたことがあったんだ」
「奴国と山門は戦をしていたのですね」
月読が驚いたように尋ねると、那岐は少し困った顔をして頷いた。
「そうだよ。こちらから戦を仕掛けたわけではないけれど、攻め込まれたら守るしかないじゃないか」
「当然ですわ。攻められて黙っているわけにはいきませんもの」
姫が即座に同意すると、那岐は穏やかに話を続けた。
「それで、どうにか奴国の軍を撃退して和議を結ぶことができたんだけど、その結果、奴国が進めていた領土拡大の計画を山門が止めてしまったんだよ。それ以来、大きな戦にはなっていないけれど、奴国の人たちの中には今でも山門をよく思っていない者がいるのかもしれないね」
「人口も多いですし、食糧だって山門は豊富ですからね。簡単には負けませんよね」
月読は納得したように頷いたが、姫はますます不満そうに眉を寄せた。
「それならなおさら納得できませんわ。戦に勝ったのは山門なのでしょう? それなのに、どうして負けた奴国の人たちから馬鹿にされなければならないのですか?」
「勝ってしまったからだよ。奴国は戦では山門に敗れたけれど、交易の中心地として栄えていることに誇りを持っているんだ。大陸から珍しい品々が集まるし、文化も進んでいる。だからこそ、戦で負けた山門の名前を聞いて、つい感情的になってしまったのかもしれないね」
那岐の説明を聞き、姫は市場で目にした品々を思い返した。
美しい装飾が施された銅鏡や銅鐸、色鮮やかな織物、山門では見かけない珍しい道具の数々。
悔しいことに、どれも姫の目には魅力的に映っていた。
「……確かに、品物は素敵でしたわ。特に布なんて、山門のものとは質も種類も全然違いました。見たこともないほど綺麗なものが、いくつも並んでいましたもの」
「だったら、そういう良いところは素直に認めてあげようよ。国によって得意なことも違うんだから、山門が何もかも一番である必要はないと思うよ」
「それは分かっています! でも、田舎娘と馬鹿にされたことだけは許せませんわ!」
姫が頬を膨らませて言い返すと、那岐は思わず笑みをこぼした。
「ふふっ、姫は本当に負けず嫌いだね。でも、そうやって悔しがっている姫なら、いつか山門を奴国にも負けないくらい文化の進んだ国にしてくれるかもしれないね。私は楽しみだよ」
「ええ、もちろんですわ! いつか山門をもっと立派な国にして、二度と田舎者なんて馬鹿にさせません!」
胸を張って宣言する姫を見て、那岐は嬉しそうに微笑んだ。まだ八歳の娘が何を成し遂げるつもりなのか、今は想像もつかない。
ただ、その負けん気と向上心が、いつか何かの役に立つのなら、それは喜ばしいことだと思っていた。
一方の姫は、この日の経験によって、山門壱国が周辺諸国と比べても人口が多く、食糧にも恵まれた豊かな国でありながら、交易や文化の面では奴国に及ばない部分があることを初めて実感していた。
国の強さとは、戦に勝つことや食糧が豊富であることだけではない。
そんな当たり前のことを、姫は奴国の市場で思い知らされたのである。
やがて必要な品々を積み終えた那岐は、子供たちを乗せた船を港から出し、山門への帰路に就いた。
奴国の港が少しずつ遠ざかり、船は交易で買い込んだ品々を積んで山門への帰路についていた。
船縁に身を寄せた姫は、初めて目にした銅鏡や市場の賑わい、山門では見かけない数々の品物を思い返していた。
どれも新鮮で心を躍らせるものばかりだったが、同時に商人から浴びせられた「田舎娘」という言葉が、胸の奥にいつまでも引っかかっていた。
やがて船が山門の海へ入ると、見慣れた故郷の景色が広がってきた。緑豊かな山々に、どこまでも続く田畑、穏やかな海。
これまで姫が大好きだった景色であり、父が長い年月をかけて豊かにしてきた土地でもある。それなのに、今日ばかりは少し違って見えてしまった。
「……本当に田舎なのかしら」
思わず漏れた言葉に、姫は唇を噛んだ。
悔しくて仕方がなかったが、奴国の市場を実際に見てしまった以上、山門が文化の面で遅れていることは認めざるを得なかった。
ふと隣に目を向けると、自分よりも遥かに長い年月を生き、数え切れないほどの知識と経験を持つ父がいた。父は農業も治水も交易も知っている。
それほど多くのことができるのに、なぜ山門をもっと発展させようとしないのだろう。
「父上なら、もっとできるはずなのに……」
姫は再び故郷の景色へと目を向けた。父を尊敬する気持ちは少しも変わらない。
それでも、これほどの力と知識を持ちながら、なぜ文化の発展には積極的ではないのか。
八歳の姫の胸に、これまで一度も抱いたことのなかった父の政治への小さな疑問が芽生え始めていた。




