三話 父の巫女舞が綺麗すぎる。初恋が父だなんて言えない!
春を迎え、姫は七歳になった。弟の月読は五歳、末弟の須佐之男も二歳となり、母を亡くしてから二年の月日が流れていた。
山門壱国の中心である山門邑では、春の田植え前と秋の収穫期になると、毎年決まって人々が色めき立つ。
神々へ豊作を祈り、収穫への感謝を捧げる大切な季節であることは確かだが、とりわけ若い女性たちにとっては、別の楽しみが待ち受ける時期でもあった。
「やっとこの時期が来たわね。今年も楽しみだわ!」
「本当よ。那岐様のお姿を拝めると思えば、あの大変な田植えだって頑張れるもの」
「そういえば、今年は新しい巫女がまた増えたそうよ。早く奥の村へ送ってもらわないと困るわね」
「まったく、村長たちは何をしているのかしら。こういう時くらい、さっさと決めてほしいものだわ」
川辺では、洗濯に集まった女性たちが手を動かしながらも、楽しげに言葉を交わしていた。話題の中心は、今年の奉納舞と、それを舞う邑長の伊邪那岐のことである。
誰もが待ち遠しそうに声を弾ませ、時折笑い声まで上がっていた。
その傍らで洗濯をしていた姫は、女性たちの会話を黙って聞いていたが、特に口を挟むこともなく、洗い終えた衣類を籠に収めると、静かに立ち上がった。
『……また、この時期になったのね』
楽しげな女性たちを横目に、姫は小さく息をつくと、洗濯物の入った籠を抱えて家路についた。
そう、那岐は巫女舞を舞うことができるのである。
かつて山門がまだ小さな集落だった頃、神事を執り行う巫女はおらず、神への奉納は従来の神楽の儀式で済ませていた。
しかし、北部の筑紫では巫女による奉納舞が広まり、山門の民からも巫女舞を奉納したいという声が上がるようになった。
そこで那岐は、民の願いに応えるため自ら巫女舞の修練を受け、作法から舞の所作まで習得すると、山門で披露するようになったのである。
その美しい舞は人々を大いに喜ばせ、山門でも他国に劣らぬ奉納の儀式が行えるようになったのだが、長い年月を経るうちに、本来は神への祈りと感謝を捧げるための儀式が、いつしか山門の女性たちにとって年に二度の大きな楽しみへと変わってしまっていた。
それも無理はなかった。那岐は普段から男性とは思えないほど端整で美しい顔立ちをした美少年であり、巫女装束を身にまとえば、誰もが見惚れるほどの美しい少女にしか見えなかった。
しかも、その舞は長年の修練と経験によって磨き抜かれており、一つひとつの所作には優雅さと気品が備わっている。
神への奉納として申し分のない完成度を誇る一方、そのあまりの美しさが、山門壱国中の女性たちを夢中にさせていたのである。
山門壱国の村長たちが集まる会議の席で、那岐は今年新たに迎えられた巫女の話を持ち出した。
「今年は新しい巫女も迎えて、人数も増えたことだし、巫女舞が楽しみだね。私も久しぶりに見る側になれるかな」
ところが、その言葉を聞いた村長たちは一様に口を閉ざし、互いの顔を見合わせた。誰もが事情を知っているものの、肝心の邑長に本当のことを話すわけにはいかなかったのである。
「邑長……実は、新しく迎えた巫女にも奉納舞をお願いしたい村がございまして、すでにそちらへ向かっていただくことになっております」
「えっ、そうなの? でも、それだと山門の邑では誰が舞うんだい?」
「今年も邑長にお願いできればと存じます」
「そっかぁ……たまには私も見る側になりたかったんだけどなぁ。まあ、巫女が足りないなら仕方ないね」
「申し訳ございません。我らの村でも巫女舞を奉納していただかねばなりませんので、邑長にお引き受けいただけると大変助かります」
「うん、わかったよ。今年も私が舞うことにするね」
那岐があっさり承諾すると、村長たちは内心で胸を撫で下ろした。
実のところ、巫女の人数が増えても山門の邑に巫女が配置されないのは、決して偶然ではなかった。
那岐の巫女舞を楽しみにしている女性たちのため、村長たちが相談して巫女を各地へ振り分けていたのである。
しかも、この事情は山門壱国中の人々が承知していながら、当の那岐だけには決して知らされない、国を挙げての秘密となっていた。
普段の村長たちは、水利や土地の境界、税の負担など、些細な問題でも互いの利益を主張して揉めることが珍しくない。ところが、那岐の巫女舞に関することだけは驚くほど意見が一致していた。
理由は単純である。自分たちの村の女性たちから恨まれたくなかったのだ。
春と秋の奉納舞は、山門壱国中の女性たちが心待ちにしている一大行事である。その楽しみを奪うような決定を下せば、たとえ村長といえども無事では済まないだろう。
こうして今年も、山門壱国の村長たちは見事な団結力を発揮し、何も知らない邑長に巫女舞を引き受けてもらうことに成功したのであった。
その日の夕刻、家に戻った那岐は、どこか残念そうな顔で姫に話しかけた。
「今年も私が巫女舞を奉納することになったみたい。せっかく新しい巫女が増えたから、たまには見る側になれると思ったんだけどね」
「そうでしょうね」
姫が何でもないことのように答えると、那岐は不思議そうに首を傾げた。
「なんだか事情を知っているような言い方だね。姫は何か聞いているのかい?」
「い、いいえ……ほら、田植え前の奉納はどこの村でも大切な行事でしょう? 巫女が増えたといっても、まだまだ足りないのです。山門には父上がおられるのですから、ほかの村に巫女を譲って差し上げるべきですわ」
「そっかぁ。それもそうだね。みんなが楽しみにしている大切な行事だし、今年も頑張って舞うことにするよ」
あっさり納得した父の様子に、姫は胸を撫で下ろした。
もちろん、姫は村長たちが巫女を意図的に各地へ振り分けている事情を知っていた。しかし、それを父に教えるつもりはない。
山門壱国中の女性たちが年に二度の巫女舞をどれほど楽しみにしているか、川で洗濯をしているだけでも嫌というほど耳に入ってくるのだ。
いくら邑長の娘とはいえ、その楽しみを奪って国中の女性たちを敵に回すほど、姫も愚かではなかった。
この時期になると、山門壱国の各地から大勢の人々が中心地である山門邑へと集まってきた。
なかでも若い女性たちの熱気は凄まじく、その多くが楽しみにしているのは、邑長である那岐が奉納する巫女舞であった。
やがて、巫女装束に身を包んだ那岐が姿を現すと、待ちわびていた女性たちから一斉に歓声が上がり、奉納の儀式が始まろうとしていた。
姫は父の姿を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。
普段、家で見慣れているはずの父が、巫女装束をまとっただけで、まるで別人のように見えたのである。
長い黒髪と端正な顔立ち、優美な装束が織りなす姿は、この世のものとは思えないほど美しく、七歳の姫はしばらく目を離すことができなかった。
父の巫女舞は、これまでにも何度となく見てきた。それなのに、どうして今年に限って、これほど胸が高鳴るのだろう。
自分でも理由がわからないまま、姫は周囲の女性たちの歓声さえ忘れ、ただ父の姿に見入っていた。
山門邑の広場が例年以上の熱気に包まれるなか、ついに那岐の奉納舞が始まった。
しゃらーん――。
澄んだ木鈴の音色が祭場に響き渡ると、那岐は足の裏を床から離さない摺り足で静かに歩み始めた。
右手に木鈴、左手に笹の枝を携え、一歩ごとに緩やかな円を描きながら、流れるように優雅に舞う。
その所作には長年の修練によって磨き上げられた無駄のない美しさがあり、指先の動きから視線の運びに至るまで、見る者の心を惹きつけて離さなかった。
しゃらーん――。
再び木鈴を鳴らした那岐は、両腕をゆっくりと広げ、右手の木鈴と左手の笹を天へと掲げた。
天上の神々へ祈りと感謝を捧げるその一連の動作は、目には見えない神への想いを舞という形に変えているかのようで、柔らかな春の日差しを受けた白い巫女装束が、いっそう神々しさを際立たせていた。
姫もまた、父の舞にすっかり心を奪われていた。
普段は家で食事を作り、弟たちの世話をし、時には頼りなく笑っている父が、今はまるで別人のように見える。
整った顔立ちに長い黒髪、女性と見紛うほどの美しい容姿は以前から知っていたはずなのに、今日ばかりはどうしても目を離すことができなかった。
『こんなに美しい人が男の人で……しかも私の父上だなんて……』
ところが、うっとりと見惚れていた姫の耳に、周囲の女性たちの歓声が飛び込んできた。
「素敵だわ、那岐様! 何度見ても惚れ惚れしちゃう!」
「本当にこれで男性だなんて信じられないわ。村の男たちとは比べものにならないじゃない!」
「しかも今は独り身なのでしょう? ああ、どうにかしてお近づきになれないかしら……」
「私だって、一度くらい那岐様と親しくお話ししてみたいわ!」
女性たちの弾んだ声を聞いた途端、姫の胸にそれまで感じたことのない不快感が込み上げてきた。
父が褒められているのだから、本来なら娘として誇らしく思うべきなのだろう。
けれど、女性たちが頬を染め、熱っぽい眼差しを向けていることが、どうにも気に入らなかった。
『もう、うるさいわね! 父上の舞を静かに見ていられないのかしら!』
そう心の中で文句を言いながらも、姫自身、その苛立ちの理由がよく分からなかった。
ただ、見知らぬ女性たちが父に憧れ、親しくなりたいと口にするたびに、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
そんな姫の心など知る由もなく、那岐は穏やかな表情のまま舞を続けていた。
しゃらーん――。
清涼で透明感のある木鈴の音色が再び響き、祭場を包んでいた熱気さえも静かに鎮めていく。
那岐が身体を巡らせるたび、巫女装束の長い袖や裾がわずかに遅れて宙を漂い、その柔らかな動きは、まるで静かな水面に幾重にも広がる波紋のようであった。
祈りを込めた優美な舞は、そこに集う人々の心を清め、神々への感謝を捧げるにふさわしい荘厳さを帯びていた。
姫はいつしか周囲の歓声さえ忘れ、ただ一人、美しく舞い続ける父の姿を見つめていた。
奉納舞を終えた那岐が控えの館へ戻り、巫女装束を着替えようとしていた時だった。
部屋の戸が静かに開き、入ってきた姫が何も言わずに父のもとへ歩み寄ると、その身体にぎゅっと抱きついた。
「ど、どうしたの、姫?」
突然のことに那岐は驚いたが、姫は父の胸に顔を埋めたまま、小さな声で答えた。
「……なんでもありません」
「そ、そう……。それならいいけれど、今日の舞は気に入ってくれたかな?」
「はい。とても素敵でした」
姫はそう答えながらも、父から離れようとはしなかった。舞台で見た那岐の美しい姿が、まだ瞼の裏に焼きついている。
それと同時に、周囲の女性たちが父に向けていた熱い眼差しや、楽しそうに交わしていた言葉まで思い出してしまい、胸の奥がむずむずと落ち着かなくなった。
どうして、あの人たちが父上を褒めているだけで、こんなにも腹が立つのかしら。父上が美しいことなんて、私が誰よりも知っているのに……。
姫は自分でも説明できない感情に戸惑いながら、那岐を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
『父上は私の父上なのよ。誰にも取られたくないんだから……』
それは、まだ七歳の姫が初めて抱いた、幼くも切実な独占欲だった。父への憧れと甘え、そして本人さえ気づき始めたばかりの淡い恋心が入り混じり、どう扱えばよいのかわからなかった。
「ありがとう、姫。そう言ってもらえると、私もうれしいよ」
那岐は娘の胸の内など知る由もなく、いつものように穏やかに微笑むと、抱きついたまま離れようとしない姫の頭を優しく撫でた。
その手の温もりが心地よくて、姫はますます父から離れられなくなってしまった。




