二話 文字って難しい!
母の伊邪那美が亡くなり、姫がこの家の母になると宣言してから一年が過ぎた。
姫は六歳、月読は四歳、末弟の須佐之男も一歳になり、三姉弟は父の那岐に支えられながら、少しずつ母のいない暮らしに慣れ始めていた。
もちろん、姫はまだ六歳の少女であり、家事も育児も失敗の連続だった。
それでも一年間の経験は無駄ではなく、今では昼食を自分で用意できるようになり、夕食も野菜を洗ったり食材を切り分けたりと、那岐が帰宅するまでに下準備を済ませられるようになっていた。
ただし、火起こしだけは許されていなかった。囲炉裏の火は暮らしに欠かせないものだが、扱いを誤れば家を焼くことにもなりかねない。
姫は自分なら十分に扱えると思っていたものの、那岐はなかなか許可を出そうとしなかった。
そんなある日のことだった。
那岐は囲炉裏の傍らで遊んでいた須佐之男を呼び寄せると、その小さな手を取って、燃えている火へほんの一瞬だけ触れさせた。
「あちっ! うわあああん!」
突然の熱さに驚いた須佐之男は、顔を真っ赤にして泣き出した。すぐに引き離されたため軽い火傷で済んだものの、小さな指先は赤くなっている。
その様子を見ていた姫は、驚くと同時に父へ詰め寄った。
「父上! なんてかわいそうなことをするんですか! 須佐之男の手が火傷しているじゃないですか!」
「うん、少し赤くなってしまったね。でも、こうして怖いものや危ないものを教えておかないといけないんだよ」
那岐は泣きじゃくる須佐之男の手を冷やしながら、穏やかな口調で答えた。
しかし、姫は到底納得できなかった。
「だからって、わざわざ火傷をさせる必要があるんですか? 危ないのなら、ちゃんと言って聞かせればいいでしょう!」
「姫の言うこともわかるよ。でもね、須佐之男はまだ小さいから、言葉だけでは理解できないこともあるんだ」
すると、隣で心配そうに見守っていた月読が、不思議そうに首をかしげた。
「父上、それは須佐之男がまだ言葉をちゃんと理解できないからですか?」
「それもあるね。でも、子供は言葉で注意されただけでは、危ないとわかっていても触ってしまうことがあるんだよ。特に火は、一度の間違いが大きな怪我につながるからね」
「私は言葉だけでちゃんとわかります!」
姫が胸を張って言い返すと、那岐は困ったように笑った。
「姫と月読は出来過ぎた子だったからね。でも、須佐之男は二人と違って、ずいぶんやんちゃな子だからなあ。目を離した隙に何をするかわからないし、今のうちに火が怖いものだと覚えてもらいたかったんだ」
須佐之男はまだ涙を浮かべていたが、那岐に抱き上げられると、ようやく泣き声が小さくなってきた。姫はその姿を見つめながら、ふと疑問を覚えた。
「……でも父上、どうして今日になって、そんなことをされたのですか?」
「ん? 姫はそろそろ自分で火を起こしたいんじゃないかなと思ってね」
「それはそうですが……えっ? もしかして、火起こしをしてもいいのですか?」
姫の表情が一瞬で明るくなった。先ほどまで父を責めていたことも忘れ、期待に満ちた目で那岐を見つめる。
「まだ悩んでいるんだけどね。姫も月読も、私が思っていた以上にしっかりしているから、そろそろ許可してもいいかなとは考えているんだよ」
「本当ですか! でしたら、ぜひお願いします! 火起こしができるようになれば、父上がお帰りになる前に夕食を作っておけますし、今よりずっと家のことができるようになります!」
「姫は本当に家のことをよく考えてくれるね。でも、急がなくてもいいんだよ」
「急いでなんかいません! もう一年も待っているんですから!」
姫が頬を膨らませると、那岐は思わず苦笑した。
「そうだったね。それじゃあ、須佐之男が囲炉裏は熱くて危ないものだとちゃんと理解して、むやみに近づかなくなったら、そのときに許可を出そうか。もちろん、最初は私が傍について教えるからね」
「……須佐之男が理解するまで、ですか?」
「そうだよ」
姫は父の腕の中にいる末弟へ視線を向けた。
先ほどまで大泣きしていた須佐之男は、もうすっかり落ち着いており、那岐の衣を小さな手で引っ張って遊んでいる。
「須佐之男! いいですか! 囲炉裏には勝手に近づいてはいけませんよ! わかりましたね!」
姫が真剣な顔で言い聞かせると、須佐之男は何を言われているのかわからない様子で、にこりと笑った。
「……本当にわかっているのかしら、この子」
「姉上、まだ一歳なんですから、そんなにすぐには無理ですよ」
「わかっているわよ! でも、早く覚えてもらわないと困るじゃない!」
月読のもっともな指摘に、姫はますます頬を膨らませた。そんな姉弟のやり取りを眺めながら、那岐は声を立てて笑うのだった。
家事や弟たちの世話にも少しずつ慣れ、できることが増えるにつれて、姫にもようやく周囲のことに目を向ける余裕が生まれてきた。
邑長である那岐の家は、その地位と比べたら小さく質素な造りだったが、何もかもが乏しいわけではなかった。
父は大陸の言葉を話すことができ、家の奥には紐で束ねられた木簡や竹簡が大量に収められていた。
兵法書こそなかったものの、農耕や治水、医薬など、山門の暮らしを支えるさまざまな知識が記されており、見た目からは想像もつかないほど長い年月を生きてきた父が、長年かけて集めたものらしかった。
ある日の昼下がり、姫は以前から気になっていた木簡の束を一つ手に取り、紐をほどいて中身を確かめてみた。
細長い木片には見慣れない文字がびっしりと並び、一つ一つ形が違うことはわかるものの、何を意味しているのかはさっぱり理解できない。
別の木簡を取り出して見比べてみても結果は同じで、竹簡に至っては何本もの竹片に文字が続いており、どこから読めばよいのかさえわからなかった。
「……父上は、これを全部読めるのかしら?」
姫は木簡を持ったまま、部屋に積み重ねられた書物を見渡した。これほど多くの文字を父が理解しているのだとすれば、いったいどれほどのことを知っているのだろう。
以前から書物の存在は知っていたが、家事と弟たちの世話に追われ、その中身について深く考えたことはなかった。
それだけに、目の前にある膨大な書物が何を伝えようとしているのか、姫は無性に知りたくなってきた。
その夜、姫はいつものように那岐の寝所を訪れると、慣れた様子で父の布団に潜り込んだ。
母が亡くなって以来、こうして添い寝を求めることがすっかり習慣になっており、那岐も娘がやって来ることを当たり前のように受け入れていた。
「父上、文字って便利なのですか?」
「ん? ああ、家にある書物のことだね。他所の家にはあまりないものだから、気になったのかな?」
「はい。しかも異国の言葉で書かれているのでしょう? あんなにたくさん集めて、本当に役に立つのですか?」
「もちろんだよ。書物というのはね、人が学んだ知識や経験を文字にして、後の世まで残しておける、とても便利なものなんだ」
「知識と経験を……残しておけるのですか?」
「そうだよ。例えば、遠い国の人が何十年もかけて学んだことや、何百年も昔の人が苦労して見つけた知恵だって、文字に残しておけば、ずっと後の時代に生きる人が知ることができるんだ。つまり書物を読むということは、何百年、何千年もの間に人々が積み重ねてきた知識を、自分のものにできるということなんだよ」
那岐の説明を聞いた姫は、驚いたように目を見開いた。
自分が生まれるよりも遥か昔に生きていた人々の知恵を、今の自分でも知ることができるというのだ。
今まで意味のわからない文字が並んでいるだけだと思っていた書物が、急に不思議で魅力的なものに感じられた。
「すごい……母様も文字を読めたのですか?」
「那美は文字には全然興味がなかったよ。海が大好きでね、漁に出られる日は朝から海へ行って、日が暮れるまで帰ってこないこともあったんだ」
「母様は漁師だったの?」
「そうだよ。二人で暮らしていた頃は、私が田畑で育てた作物と、那美が海から持ち帰る魚で、家の中が食べ物だらけになってね。米はほとんど籾のまま倉にしまっていたし、魚も食べきれない分は干物にして保存していたんだ。それでも余ってしまうから、よく邑の人たちに配って回ったものだよ」
懐かしそうに微笑む父の話を聞きながら、姫は海へ出て魚を捕っていた母の姿を思い浮かべた。家では優しかった母が、船の上でどんな顔をしていたのか、今となっては確かめようもない。
「私は海や田畑を眺めるのは好きですけど、自分で漁をしたり畑を耕したりするのは、あまり得意ではありませんわ」
「それは人それぞれだからね。那美だって、姫が生まれるまでは家事より漁の方が好きだったんだよ。姫を産んでから、ようやく家のことにも真面目に取り組むようになったくらいだから」
「あら、母様は家事が苦手だったのかしら?」
「苦手というより、あまり興味がなかったんだと思うよ。海へ出ることが何より楽しかったみたいでね。姫が生まれるまでは、家のことを私に任せて漁に出かけてばかりいたんだ」
那岐は困ったように笑っていたが、その表情には不満など少しもなく、ただ懐かしい日々を愛おしむような優しさが浮かんでいた。
「そう考えたら、父上はどうしてずっと若い姿のままなのですか?」
何気なく口にした疑問だった。父は母と出会った頃から姿が変わっていないという。
それどころか、母が幼かった頃からずっと同じ姿だったらしい。
姫も以前から不思議に感じたことはあった。
しかし、その疑問は浮かんでもすぐに消えてしまい、深く考えることがなかった。今になって思い返してみると、それ自体が妙なことのように感じられた。
「……気になったんだね。すごいね、姫」
「気になるというだけで、すごいことなのですか?」
「うん。だって、私が歳を取らないことを不思議に思わないように術を施しているのに、姫は疑問を持ったんだから」
「術……ですか?」
「妖術だよ。山門壱国の人たちは、私が昔から姿を変えていないことを知っているけれど、それを不思議だとは思わないようになっているんだ」
姫は驚いて父の顔を見つめた。妖術という言葉は聞いたことがあったものの、そんなことまでできるとは思ってもいなかった。
「では、山門壱国の人たち全員に術をかけているのですか?」
「そうだよ。でも、人の考えを操ったり、記憶を消したりするような術じゃないんだ。ただ、私が歳を取らないことを『そういうものなんだ』と自然に受け入れてしまう程度のものだよ」
そう説明されても、姫にはすぐに理解できなかった。目の前にいる父は、どう見ても若い少年のような姿をしている。それなのに、誰もおかしいと思わないという。
姫はしばらく那岐の顔を見つめていたが、ふと気になることがあった。
「……私にも、その術をかけているのですか?」
「もちろん。姫も山門壱国で暮らしているからね」
「それなのに、私は不思議に思ったのですか?」
「うん。だから驚いているんだよ。普通なら、疑問に思うことすらないはずだからね」
那岐は感心したように微笑んだが、姫には自分の何が特別なのかわからなかった。
ただ、父が自分の知らない不思議な力を持っていることだけは理解できた。
「父上は、どうしてそんな妖術を使えるのですか?」
「それは……いずれちゃんと話すよ。今はまだ、姫には少し難しい話だからね」
「……わかりました。その時は、ちゃんと教えてくださいね」
「うん、約束するよ」
那岐が優しく微笑むと、姫もそれ以上は問い詰めなかった。
父にはまだ自分の知らないことがたくさんあるのだろう。
そう思うと少し悔しかったが、いつかすべてを教えてもらえる日が来るのだと信じることにした。
那岐は姫の頭を優しく撫でながら、穏やかな声で語りかけた。
「姫が文字に興味を持ったのなら、私も時間を作って教えてあげるよ。ただ、昼間は家のことや須佐之男の世話もあるだろう? 勉強できるのは夜になってからだと思うけれど、疲れていても大丈夫かな?」
「えっ、父上が教えてくださるのですか? それは嬉しいですけれど……」
姫は思わず顔を輝かせたものの、すぐに考え込んでしまった。
朝から家事に追われ、弟たちの面倒を見ていると、夕食を終える頃にはすっかり疲れてしまう。
文字を覚えたい気持ちは強かったが、今の生活のままで夜まで勉強する余裕があるのか、自信がなかった。
「……そうですわね。ちょっと考えてみます」
せっかく父上が教えてくださるというのに、疲れて眠ってしまってはもったいない。
姫は何かよい方法がないものかと、小さな頭を懸命に働かせるのだった。
翌日から姫は、昼食を済ませると弟たちと一緒に昼寝をすることに決めた。
これまでも月読と須佐之男はそれぞれ眠くなれば昼寝をしていたが、姫だけは那岐が帰宅するまで家事に追われ、日中に休む習慣がなかった。
しかし、夜に文字を学ぶとなれば話は別である。疲れたままでは勉強にならないと考え、姉弟三人で一刻ほど昼寝をすることにしたのだった。
そうして昼間に十分な休息を取るようになった姫は、夜になると那岐から文字を教わり始めた。ところが、いざ勉強を始めてみると、何一つわからなかった。
那岐が木簡に書かれた文字を指し示しながら説明してくれるのだが、ときおり大陸の言葉が混ざるため、姫には何を言っているのかさえ理解できない。
何度も倭の言葉に直して説明してほしいと頼み込み、ようやく一文字ずつ意味を覚えられるようになったものの、文字の数は途方もなく多く、覚えたと思った文字を翌日には忘れてしまうことも珍しくなかった。
それでも姫は諦めず、毎晩のように那岐の教えを受け続けた。
やがて簡単な文字なら少しずつ読めるようになってきたのだが、今度は別の問題にぶつかってしまった。
「父上、なんで同じ文字なのに意味が違うんですか?」
「んー、同じ文字でも前後の言葉や文章の流れによって、意味が変わることがあるんだよ」
「意味が変わるなら文字も変えればいいじゃないですか! これではわかりにくいですわ!」
「そう言われてもねぇ……」
那岐は困ったように笑うしかなかった。
姫としては、ようやく覚えた文字なのに、別の文章では違う意味になるというのが納得できなかったのである。
それでも教わるたびに新しいことを知るのは楽しく、昨日まで読めなかった文字が読めるようになると、嬉しくて何度も確かめてしまう。
一方で、わからない文字に出会うたびに悔しさが込み上げ、どうしてこんなに難しいのかと父に文句を言うこともあった。
そうして少しずつ文字を覚えていくうちに、姫は父の書室にある膨大な木簡や竹簡をすべて読み、その内容を理解するには、途方もない年月が必要なのだと知ることになった。
目の前にある木簡一つを読むだけでも、これほど苦労するというのに、父の持つ書物は数え切れないほどある。
いったいいつになれば全部読めるようになるのだろう。
考えれば考えるほど気が遠くなり、悔しさのあまり半べそをかいてしまったが、それでも姫は木簡を手放そうとはしなかった。
『絶対、いつか全部理解するんだから!』
六歳の姫は涙をこらえながら、そう固く誓うのだった。




