一話 私は母になる!
山門壱国の中心、山門の地。その邑長である伊邪那岐には、「姫」と呼ばれる五歳の娘がいた。
後の世に邪馬台国の女王・卑弥呼として名を残すことになる少女であるが、この時の彼女は、まだ父と母に守られて暮らす幼い子供に過ぎなかった。
だが、この日、家の中は深い悲しみに包まれていた。
母の伊邪那美が三人目の子を産んだ直後から出血が止まらず、懸命な手当てもむなしく、その命が尽きようとしていたのである。
「死ぬな……那美、頼む」
傍らに付き添う那岐は、妻の手を握りしめたまま何度も呼びかけた。けれど那美には、もはやそれに応えるだけの力さえ残されていなかった。
それでも最後の力を振り絞るように夫を見つめると、途切れそうな息の中で静かに言葉を紡いだ。
「この子たちを守って……姫を、月読を、須佐之男を……その先に生まれる子たちも……」
それが、那美の最期の言葉となった。
那岐は、子供たちがそばにいるからなのか涙を流すことはなかったものの、妻の手を握ったまま深くうなだれ、声を失っていた。
その隣では三歳の月読が、もう動くことのない母の身体にしがみつき、涙で顔を濡らしながら何度も「母上」と呼び続けている。
小さな両手で母の身体を揺すっても返事はなく、それでも月読は、母が再び目を開けてくれることを願うように名前を叫び続けていた。
姫は生まれたばかりの須佐之男を腕に抱いたまま、歯を食いしばって涙を堪えていた。
本当は今すぐ母のもとへ駆け寄り、その身体にしがみついて、「母上」と何度も呼びながら声を上げて泣きたかった。
けれど、それはできなかった。父は母の傍らから離れることができず、月読は涙を流しながら、動かなくなった母の名を何度も呼び続けている。
そして姫の腕の中には、つい先ほど生まれたばかりの須佐之男がいた。
――私がしっかりしないといけない。私が大人にならないといけない。父さまと月読と須佐之男を支えられるように、私が母になるんだ。
この日、姫は最愛の母を失った。そしてまだ五歳にすぎない小さな少女は、涙を堪えながら、自分がこの家の母になるのだと心に誓った。
翌日、那岐はこれからの家のことを考え、何人か侍女を雇うことに決めた。自分には邑長としての仕事があり、いつまでも家にいることはできない。
那美を失った以上、子供たちの世話や炊事、洗濯をしてくれる者が必要だと考えたのである。
ところが、その話を聞いた姫はすぐさま猛反対した。
「侍女なんていりません!」
「でも、家のことをしてもらわないと、私が家から出られないから……」
「私がします!」
姫は胸を張って言い切ったが、那岐は困ったように眉を下げた。
「姫はまだ五歳なんだから、全部やるのは難しいよ……」
「料理も洗濯も、母上のお手伝いをしていました。一人でもできます!」
「でも、須佐之男の世話だってあるんだよ。まだ生まれたばかりなんだから」
「精一杯やります! 分からないことがあったら父上に訊きます!」
どれだけ言い聞かせても、姫には引く気がまるでなかった。
小さな身体で那岐を真っ直ぐ見上げ、その表情には子供とは思えないほどの決意が浮かんでいる。
「姫……無理しなくてもいいんだよ」
那岐は優しく諭したが、姫は大きく首を横に振った。
「無理なんかしてません! 私がこの家の母になったんです。だから、任せてください!」
そこまで言われてしまえば、那岐にもこれ以上強く反対することはできなかった。
もちろん五歳の娘に家のすべてを任せることには大きな不安があったが、それ以上に、母を失ったばかりの姫が自分なりに前へ進もうとしている気持ちを否定したくなかったのである。
結局、那岐は姫の頑固さに根負けし、侍女を雇う話はいったん取りやめることにした。
しばらくは姫に任せて様子を見ることになったものの、五歳の娘に何の知識もないまま、家のことを任せるわけにはいかない。
那岐は家事をするうえで気をつけることや、生まれたばかりの須佐之男の世話について、一つひとつ姫に教えていった。
なかでも問題になるのが、まだ乳を必要とする須佐之男の食事だった。
そこで那岐は近隣に暮らす数人の女性に事情を話し、交代でもらい乳をしてもらえるよう手配した。
これによって須佐之男の乳を確保する目処も立ち、姫が一人で背負わなければならない負担は少しだけ軽くなった。
それから数日間、那岐は邑長としての仕事を休み、家から出ることなく姫のそばについていた。
洗濯や掃除の仕方から赤子を抱く時の注意、泣き止まない時の対処まで、自分が教えられることをできる限り伝え、姫が一通りこなせるようになったのを見届けてから、ようやく邑長の仕事へ戻ることにした。
「じゃあ、行くね」
那岐がどこか名残惜しそうにそう告げると、姫は小さく背筋を伸ばした。
「はい。いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃい、父上ぇー」
月読も姉の隣から元気よく手を振る。二人に見送られて歩き始めた那岐だったが、やはり心配なのか、数歩進んでは振り返り、また少し歩いては家の方へ顔を向けていた。
その様子を見ていた姫は、とうとう呆れたように腰へ手を当てる。
「大丈夫ですってば。さっさといってください!」
五歳の娘にまで追い立てられてしまい、那岐は困ったように笑った。
まだ心配は尽きなかったものの、これ以上振り返っていては姫の機嫌を損ねるだけだと諦め、ようやく前を向いて邑長の仕事へ向かっていった。
那岐の不在中、姫が主にこなしていたのは、川での洗濯や家の掃除、それから生まれたばかりの須佐之男の世話だった。
幸い、二つ下の弟である月読はまだ三歳ながらほとんど手のかからない子で、洗濯物を干したり須佐之男の様子を見たりと、できる範囲で姉を手伝ってくれていた。
ただ一つ困ることがあるとすれば、月読が姫にべったりで、少しも傍を離れようとしないことだった。
母の那美を亡くしたばかりの月読にとって、姉である姫はすでに母親代わりのような存在になっており、姿が見えなくなることさえ不安でたまらなかったのである。
川での洗濯は、姫にとって思っていた以上に大変な仕事だった。
まだ五歳の小さな身体では手足も短く、濡れた衣を押さえながら洗うだけでも一苦労である。
三歳の月読も懸命に手伝ってくれていたが、こちらも幼いため、うっかり手を滑らせて洗濯物を川へ流してしまうことが何度かあった。
そんな時は二人そろって慌てて川下へ走り、近所の女性に拾ってもらうことも珍しくない。
姫はそのたびに深々と頭を下げ、礼儀正しく礼を言ってから洗濯物を受け取っていた。
「ごめんなさい、姉上」
また一枚流してしまった月読が、申し訳なさそうに肩を落とす。
「いいの。わざとじゃないんだから仕方ないわ」
「手伝っているつもりなのに……」
「だからいいんだってば。それに、まだ洗濯物が残っているわよ。手伝ってくれる?」
姫が責めることなくそう尋ねると、月読はぱっと顔を上げた。
「うん!」
元気よく返事をした弟に、姫も小さく笑い返し、二人は再び並んで川辺の洗濯物へ手を伸ばした。
次の問題は食事だったが、これについてはそれほど困ることはなかった。
朝食と夕食は那岐が作り、姫がその手伝いをする形になっていたうえ、昼食も那岐が家を出る前に簡単なものを用意してくれていたからである。
本来なら侍女を雇えば、那岐自身の負担も大きく減らせる。
それでも那岐は「自分がこの家の母になる」と言った姫の意思を尊重し、できるところは手を貸しながら見守ることにしていた。
そんな生活の中で、最大の問題となったのが須佐之男だった。
須佐之男はすくすくと成長し、数か月もすると首が据わり、寝返りを覚え、やがて這って家中を動き回るようになった。
それだけなら元気な証拠と喜べたのだが、赤ん坊の世話というものは想像していた以上に大変で、下の世話をするたびに布が汚れ、ただでさえ多かった洗濯物があっという間に溜まっていく。
「くっさーい……」
月読が鼻をつまみながら、露骨に顔をしかめた。
「我慢しなさい」
姫は眉ひとつ動かさず、須佐之男の身体をきれいにしてから、使い古した柔らかな布を手際よく巻いていく。
「また洗濯物、溜まってきてるよ」
「これでもこの家は恵まれているのよ。他所では、こうして使える布すら十分になくて、後始末がもっと大変な家だってあるんだから」
「それはそうかもしれないけど……」
「はいはい。須佐之男、ちゃんと綺麗にしてあげますからね」
姫が優しく声をかけると、須佐之男は何も知らない顔で手足をばたつかせた。
さらに這えるようになってからは、別の苦労も増えていった。
少し目を離しただけで家の中を好き勝手に移動してしまうため、手の届く場所には刃物や火に関わるものを置かず、外へ勝手に出ていかないよう、姫と月読の二人で常に目を配らなければならない。
もっとも、そんな須佐之男にも姫を助けてくれるところが一つだけあった。とにかく身体が丈夫なのである。
這っている最中に勢い余って転がろうが、柱に軽く頭をぶつけようが、ちょっとやそっとのことでは泣かない。
転んだ程度なら慌てて抱き起こす必要もなく、しばらくすると何事もなかったように再び動き始めるため、その点だけは姫もずいぶん助けられていた。
夜になり、那岐が月読と須佐之男を寝かしつけ、自分もようやく横になってしばらくした頃だった。
静かな足音とともに姫がやってくると、何も言わないまま布団の端を持ち上げ、そのまま那岐の懐へ潜り込んできた。
那岐は驚くこともなく、そっと腕を回して小さな身体を包み込む。
昼間は胸を張って「私がこの家の母になる」と言い切り、洗濯も掃除も弟たちの世話も懸命にこなしている姫だったが、どれほど背伸びをしてみても、まだ五歳になったばかりの幼い娘である。
「おつかれさま、姫。今日もよく頑張ったね。ゆっくりおやすみ」
優しく声を掛けながら髪を撫でると、姫は返事をする代わりに那岐の胸元へ顔を寄せ、安心したように身体の力を抜いた。
母を失った悲しみを押し隠し、幼い弟たちのために大人になろうとしている。
甘えたい盛りの小さな娘が、懸命に母親になろうと背伸びしているその姿を思うと、那岐には愛おしくて仕方がなかった。
せめて自分の腕の中にいる時くらいは、母親ではなく、ただの五歳の娘でいてほしい。
そんなことを思いながら、那岐は眠りにつくまで姫の背をゆっくりと撫で続けていた。
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の邪馬台国編を、卑弥呼を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。




