最終話 生意気少女・卑弥呼は15歳で邪馬台国の女王になる!
山門の中心に、新たな主祭殿が完成した。
三階建ての壮大な木造建築は、周囲の建物を圧倒する高さを誇り、遠くの田畑や湾を行き交う船からも望むことができた。
これまでの山門にはなかった威容であり、その完成は、新しい時代の到来を人々に強く印象づけるものとなっていた。
即位式の当日、まだ朝日が山の稜線から顔を出したばかりだというのに、山門の通りには大勢の人々が押し寄せていた。
山門壱国の各地から村長や集落の長たちが集まり、その家族や従者だけでなく、農民、漁師、商人たちも続々と姿を見せている。
遠方から船で訪れる者も多く、湾には次々と船が入ってきては人々を降ろし、主祭殿へと続く道は朝早くから賑わいを見せていた。
目当てはもちろん、山門壱国で初めて誕生する王の即位式である。
しかも、新たな王となるのは、わずか十五歳の少女だった。
「那岐様が邑長をお辞めになるなんて、今でも信じられんよ」
人混みの中で、一人の老人が感慨深そうに主祭殿を見上げた。
「儂が子供だった頃も、父も祖父も、みな那岐様に世話になっておった。あのお方が邑長でない山門など、考えたこともなかったわ」
「そうじゃのう。何百年もこの国を守ってこられたのだ。いつかはお辞めになる日が来るとは思っておったが、いざその日になると寂しいものじゃ」
長い年月を生きてきた伊邪那岐は、山門の人々にとって特別な存在だった。
物心がついた頃から変わらぬ姿で人々の暮らしを見守り、田畑を耕し、災害が起これば率先して救済に赴く。
祖父母から聞かされた昔話にも那岐が登場し、そのさらに昔の出来事にも、やはり同じ人物がいた。
そんな邑長が退くというのだから、人々が戸惑うのも無理はなかった。
「それにしても、次の主が十五歳の娘とはなぁ。しかも女王だというではないか」
別の老人が心配そうに口を挟むと、近くにいた男が首を横に振った。
「ただの娘ではあるまい。あの日巫女様だぞ。税も法も改め、長年悪事を働いていた村長を裁いたではないか」
「ああ、あの一件か。取り立てられた税を返してもらった村の者たちは、たいそう喜んでおったそうだな」
「そうじゃ。あれほどのことを成し遂げられたのだ。女だからといって侮るわけにはいかんよ」
もっとも、誰もが手放しで歓迎しているわけではない。
日巫女の政治手腕を高く評価する者がいる一方で、若さを不安視する者も少なくなかった。
山門壱国では、これまで女が村長に就いたことすらないのである。
まして国の頂点に立ち、数多くの村や集落を統べる王となるなど、誰も経験したことのない出来事だった。
それでも、表立って異議を唱える者はほとんどいなかった。
日巫女が積み重ねてきた実績もさることながら、何よりも、あの伊邪那岐が自ら後継者として選んだのである。
長年にわたって築かれてきた那岐への信頼は、それほどまでに厚かった。
やがて日が高くなり、主祭殿の周囲に集まった人々が露台を見上げ始めた頃、三階に設けられた広い露台へ、一人の人物が姿を現した。
伊邪那岐であった。
長い黒髪を丁寧に整え、普段と変わらぬ衣をまとった那岐は、いつもの柔和な表情で眼下の人々を見渡していた。
新しい主祭殿の威容とは対照的に、その装いには特別な飾り気もなく、長年慣れ親しんだ邑長の姿そのものであった。
「那岐様だ!」
「邑長様!」
人々が次々と声を上げ、たちまち広場に歓声が広がった。
那岐は困ったように微笑みながら片手を上げ、静かにするよう促した。その仕草を見た者たちが口を閉じ、周囲にも静粛を求める声が伝わっていく。
やがて、先ほどまでの賑わいが嘘のように収まった。
那岐はすぐには話し始めず、眼下に広がる人々の姿をゆっくりと眺めた。
この山門に初めて足を踏み入れたのは、今から三百五十年ほど前のことである。
当時は数戸の家があるばかりの小さな開拓地で、田も畑も十分には整っていなかった。
暮らしを支えるだけの食糧を得ることさえ容易ではなく、人々は自然の厳しさと向き合いながら、日々を懸命に生きていた。
山を切り開き、荒れた土地を耕し、川から水を引いた。洪水で田が流されれば堤を築き直し、凶作に見舞われれば蓄えていた食糧を分け合った。
時には他国から侵略を受け、多くの者が傷つき、命を落としたこともある。
それでも山門の人々は生き続け、子を育て、少しずつ暮らしを豊かにしてきた。
かつて一緒に汗を流した者たちは、もう誰一人として生きていない。その子も孫も亡くなり、今ではさらに遠い子孫たちが、こうして自分の前に集まっている。
見知った顔は世代を重ねるごとに変わっていったが、その土地に暮らす人々の営みは途絶えることがなかった。
数戸の開拓地だった山門は、いつしか村となり、邑となり、多くの村々を抱える山門壱国へと成長したのである。
那岐はその景色を胸に刻むように眺めてから、穏やかに口を開いた。
「皆、今日は集まってくれてありがとう」
柔らかな声が、静まり返った広場へ響いた。
「私がこの山門にやってきた頃、ここには数えるほどの家しかなかったんだ。田も畑も少なくて、毎日の暮らしを支えるだけでも大変な土地だったよ」
那岐は遠くに広がる田畑へ目を向け、小さく微笑んだ。
「それが今では、こんなに大勢の人が暮らす国になった。あの頃の山門を知る者が見たら、きっと驚くだろうね」
人々の間から、静かな笑いが漏れた。
「私はね、この国を大きくしようと思って長になったわけではないんだ。ただ、皆が飢えず、安心して暮らせる土地になってほしいと願ってきた。それだけなんだよ」
飾り気のない言葉だった。
王としての威厳を示すものでも、自らの功績を誇るものでもない。ただ、長い年月を人々とともに歩んできた那岐が、自分の胸の内をありのままに語っている。
「もちろん、私一人では何もできなかったよ。ここにいる皆も、皆の父や母、祖父や祖母、そのまた先の人たちも、力を合わせて山門を育ててくれた。今の豊かな田畑も、村も、港も、そうして少しずつ築かれてきたものなんだ」
最前列にいた年老いた村長が、そっと目元を拭った。
その老人も、幼い頃に那岐の世話になった一人である。近くには、かつて洪水で命を救われた者もいれば、祖先が那岐とともに新田を開いたという者もいた。
彼らにとって那岐の言葉は、遠い昔の物語ではなかった。自分たちの家族が生きてきた歴史そのものなのである。
「だから私は、今の山門をとても誇らしく思っている。皆がここまで立派に育ててくれたことが、何より嬉しいんだ」
那岐はそこで一度言葉を切り、改めて人々へ向き直った。
「そして今日、皆に伝えたいことがある」
穏やかな表情はそのままに、その声だけが少し引き締まった。
「本日をもって、私は邑長の座を退くことにした」
広場にどよめきが走った。
すでに知らされていたことではあったが、長年山門を治めてきた本人の口から告げられると、その言葉は思いのほか重く響いた。
「これからは次の世代に山門を託したいと思う。私が長を務めてきた時代とは、国の大きさも、人々の暮らしも、ずいぶん変わったからね」
那岐は静かに続けた。
「これより先、この国を導くのは私の娘、日巫女だ。日巫女は山門壱国で初めての王となり、皆とともに新しい国の在り方を築いていくことになる」
人々は息を呑み、その言葉を受け止めていた。
やがて群衆の中から、一人の老人が声を張り上げた。
「那岐様! では、もう我らを導いてくださらぬのですか!」
切実な問いかけだった。
那岐は声のした方へ顔を向けると、少し困ったように微笑んだ。
「そんなことはないよ。しばらくは私も娘の傍で支えるつもりだ。皆が安心して新しい女王を迎えられるようにね」
その返答に、人々の表情がわずかに和らいだ。
しかし、那岐は続けて、はっきりと告げた。
「でも、これから国のことを決めるのは日巫女だ。私ではない」
その言葉には、普段は争いを好まず、合議の席でもあまり自らの意見を押し通さない那岐にしては、珍しいほど明確な意思が込められていた。
娘を支えることと、娘に代わって国を治めることは違う。
新しい王が誕生する以上、国の主として認められるべきなのは日巫女である。そのことだけは、人々に理解してほしかった。
「日巫女はまだ若いけれど、これまで一生懸命に学び、国のために働いてきた。これからも皆の力を借りながら、立派に務めを果たしてくれると思う」
那岐は広場に集まった一人ひとりへ語りかけるように、言葉を続けた。
「どうか、私を支えてくれたように、娘のことも支えてあげてほしい」
それは長としての最後の願いであり、娘を案じる父親としての願いでもあった。
人々は静かに耳を傾けていた。何百年もの間、当たり前のように山門に存在してきた邑長が、自らの役目を次の世代へ譲ろうとしている。
長い年月をかけて築かれてきたものが、今まさに受け継がれようとしていた。
那岐は最後に、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「新しい女王のもと、山門に栄えあれ」
そして、深々と頭を下げた。
その瞬間、広場のあちこちから声が上がった。
「那岐様、ありがとうございました!」
「長い間、我らを守ってくださり、ありがとうございました!」
「どうか、これからもお元気で!」
感謝の声は次々と広がり、やがて別れを惜しむ声と重なっていった。
涙を拭う老人もいれば、幼い子供を抱き上げ、露台に立つ那岐の姿を見せようとする親もいる。長年の恩を直接伝えようと声を張り上げる者たちの姿を、那岐は静かに見つめていた。
三百五十年。
人の一生を幾度も重ねるほどの歳月を、那岐はこの地で過ごしてきた。
数え切れないほどの出会いと別れがあり、喜びも悲しみもあった。その長い年月の中で、人々の暮らしを守りたいという願いだけは、変わることがなかった。
那岐は最後にもう一度、広場を埋め尽くす人々と、その向こうに広がる山門の景色を見渡した。
そして小さく微笑むと、ゆっくりと露台の奥へ下がっていった。
こうして、三百五十年にわたり山門を支えてきた伊邪那岐の、邑長としての時代が幕を閉じた。
伊邪那岐が露台の奥へ姿を消してからも、人々は主祭殿の最上階を見上げていた。
三百五十年もの間、山門を導いてきた邑長が退き、これから新しい王が姿を現す。
誰もがその瞬間を待ち望みながらも、長年親しんできた時代が終わったことに、どこか落ち着かない気持ちを抱いていた。
やがて、祭殿の奥から木鈴の音が響いた。
しゃらーん。
澄んだ音色が朝の空気を震わせ、広場を満たしていた人々の話し声が静まっていく。再び木鈴が鳴ると、露台の奥から一人の少女がゆっくりと歩み出てきた。
日巫女である。
まだ十五歳。ほんの数年前までは邑長の娘として家事や弟たちの世話に追われ、時には大人たちにも遠慮なく意見する、生意気な少女として知られていた。
しかし、今そこに立つ姿は、誰もが知る少女の印象を一変させるものだった。
清らかな白を基調とした美しい巫女装束をまとい、長い黒髪を丁寧に整え、頭上には王の証となる冠を戴いている。
背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿には、年齢に似合わぬ気品と威厳が備わっていた。
そして、その冠の周囲には、黄金色の淡い光が浮かんでいた。
一つ、また一つと生まれた光は、少女の頭上をゆっくりと巡り、昇り始めた朝日に照らされて柔らかく輝いている。
それは日巫女が自らの妖気を操って生み出したものであったが、事情を知らない民衆の目には、まるで天から授けられた神秘の輝きのように映った。
「おお……なんと美しい……」
「まるで神が降りてこられたようじゃ……」
人々の間から感嘆の声が漏れた。かつて伊邪那岐と並んで巫女舞を奉納した少女が、今は神の使いとして、そしてこの国の王として姿を現したのである。
日巫女は露台の中央へ進むと、眼下に広がる民衆を見渡した。
山門の人々だけではない。各地から集まった村長や集落の長、農民、漁師、商人、その家族たちが、皆、自分を見上げている。
これほど大勢の人々を前にして言葉を述べるのは初めてだった。胸の奥には緊張があったものの、それを表に出すつもりはない。日巫女は静かに息を整え、堂々と顔を上げた。
「山門壱国の皆に伝えます」
少女のよく通る声が広場に響いた。
「私は本日、父・伊邪那岐より国の主を引き継ぎ、山門壱国の王となりました。これより私は、女王日巫女として、この国を治めます」
黄金の光が冠の周囲を巡り、やがて一筋の淡い輝きとなって天へ昇っていく。その神秘的な光景に、人々は息を呑んだ。
「日巫女とは、天と地、そして祖霊の声を聞き、人々の願いを神へ届け、神より授かった言葉を皆へ伝える者の名です。私は神に仕える巫女として、そして山門壱国の王として、この国を導いてまいります」
民衆の間に静かな感動が広がっていく。しかし、日巫女が伝えたいことは、自分が神の使いであるということだけではなかった。
「私の父は、三百五十年もの間、この国の人々を守り続けてきました。荒れた土地を耕し、川の流れを整え、食糧を蓄え、災いが起これば自ら人々を救いに赴きました。今日の山門壱国があるのは、父と、父を支えてきた皆の働きがあったからです」
日巫女は、遠くまで続く人々の顔を見つめながら言葉を続けた。
「私は、父が築いてきたこの国を受け継ぎます。ですが、父と同じことを繰り返すだけで終わるつもりはありません」
その言葉に、一部の村長たちが顔を見合わせた。父の功績を称えた直後に、その父とは異なる道を歩むと宣言したのである。
「山門には豊かな田畑があり、海の幸があり、多くの人々が暮らしています。けれど、まだ足りないものがたくさんあります。土地によって暮らしの豊かさは異なり、同じ国に住みながら、受けられる助けや守られるべき決まりにも違いがあります」
日巫女は少しだけ声を強めた。
「私は、この国をもっと豊かにします。法を整え、民の暮らしを守り、争いを減らし、誰もが安心して暮らせる国を築いてみせます!」
それは決して、思いつきで口にした約束ではなかった。
日巫女自身、各地の村を歩き、田畑の実りを調べ、人々の生活を見てきた。税の不公平さも、決まりが曖昧なために生まれる問題も、実際に目の当たりにしている。
豊かな国とは、ただ食糧が多いだけの国ではない。人々が安心して働き、収穫を蓄え、災いに備えられる国でなければならない。
そのためには、まだ成すべきことが数え切れないほど残されていた。
「そして、山門の外にも多くの国々があります。私は、その国々とも手を取り合い、共に栄える道を探します。山門だけが豊かであれば、それでよいとは考えておりません。この倭の地に暮らす人々が、互いに助け合い、安心して生きられる世を目指します」
その先に何を目指しているのか、日巫女は語らなかった。
倭の諸国を一つにまとめ、大陸の大国にも引けを取らない国を築く。それは父にだけ明かした、百年単位の歳月を見据えた遠大な目標だった。
だが、今ここに集まった人々には、日々の暮らしがある。田を耕し、漁に出て、家族を養い、明日の食糧を心配しながら生きている。その人々に対して、まず約束すべきことは何なのか。
日巫女は、それを理解していた。
少女は一度言葉を切り、広場の隅々まで視線を巡らせた。
「私はまだ十五歳です。至らぬこともあるでしょう」
自らの若さを認めるその言葉に、村長たちの中には小さく頷く者もいた。どれほど能力を示してきたとはいえ、これから背負う責任は、今までとは比較にならないほど重い。
「ですが、学ぶことも、努力することも、決してやめません。今まで以上に多くのことを知り、皆の暮らしを理解し、この国のために力を尽くしてまいります」
日巫女は胸を張った。
「どうか皆の力を貸してください。この国の未来を、私とともに築いていきましょう!」
最後の言葉が広場へ響き渡った。
堂々と立つ少女の姿からは、かつて父に甘え、弟たちの世話に悪戦苦闘していた幼さを感じさせない。そこにいるのは、山門壱国の未来を自らの責任として引き受けようとする、一人の女王であった。
演説が終わると、広場は一瞬、静寂に包まれた。
人々が新しい女王の言葉を受け止める中、主祭殿の下に控えていた月読と須佐之男が顔を見合わせた。
二人にとって日巫女は、神の使いでも女王でもある前に、幼い頃から自分たちの面倒を見てくれた姉だった。
母を亡くしたあの日から、食事を作り、衣服を洗い、時には厳しく叱りながら、自分たちを育ててくれた姉が、今、国中の人々の前に立っている。
月読が小さく頷くと、須佐之男も力強く頷き返した。
「日巫女女王に栄えあれ! 山門壱国に栄えあれ!」
二人の声が広場に響いた。
最初に応じたのは、長年にわたって那岐を支えてきた村長たちだった。
「日巫女女王に栄えあれ!」
続いて、税の改革によって不当な負担から救われた村の人々が声を上げる。
「山門壱国に栄えあれ!」
祝福の声は周囲の人々へと伝わり、農民も漁師も商人も、各地から集まった者たちが次々に声を重ねていった。
新しい女王を歓迎する者もいれば、十五歳という若さに不安を抱く者もいる。三百五十年もの間、国を守ってきた伊邪那岐が退くことを寂しく思う者も少なくなかった。
それでも、父から国を託された少女が、自分たちの暮らしを守り、より豊かな国を築くと約束したのである。その言葉に期待を寄せる人々の声は、次第に大きくなっていった。
「日巫女女王に栄えあれ! 山門壱国に栄えあれ!」
幾重にも重なる歓声が主祭殿を包み込み、山門の空へ広がっていく。
日巫女はその声を正面から受け止めながら、威厳を崩すことなく立ち続けた。
眼下に広がる人々の向こうには、青々とした田畑が続き、その先には山々が連なっている。さらに遠くへ目を向ければ、朝日を受けた海が穏やかに輝き、湾には各地から訪れた船が浮かんでいた。
十五年間暮らしてきた故郷。
父が三百五十年もの歳月をかけ、人々とともに築き上げてきた国。
そして、これから自分が治めていく国。
日巫女はその景色を、忘れないように目に焼き付けた。
この日、山門壱国には初めて王が誕生した。
伊邪那岐と各地の長たちによる合議で支えられてきた国は、新たに女王を頂く国家へと姿を変えた。
従来の山門邑という区分も改められ、国の中心である山門には政庁が設けられることとなり、女王を中心とする新しい統治体制が動き始める。
その頂点に立ったのは、わずか十五歳の少女、日巫女であった。
後の世に邪馬台国の女王「卑弥呼」として記され、死後には「天照大御神」の名を贈られる少女が、ついに歴史の表舞台へと姿を現したのである。
主祭殿の奥で、那岐は娘の姿を静かに見守っていた。
眼下に集まった大勢の民衆から祝福を受けながら、日巫女は少しも臆することなく堂々と立っている。
ついこの間まで家事や弟たちの世話に悪戦苦闘し、文字が難しいと半べそをかいていた娘が、今では一国の女王として人々の前に立っているのだ。
「……立派になったね、姫」
思わず漏れた言葉に、那岐はほんの少し寂しそうな笑みを浮かべた。
母を亡くしたあの日、まだ五歳だった姫は、生まれたばかりの須佐之男を抱きながら、自分がこの家の母になると言い張った。
無理をしなくてもよいと何度言い聞かせても聞かず、小さな身体で懸命に家族を支えようとしていた姿は、今でも鮮明に覚えている。
あれから十年。姫は自ら学び、考え、ときには父である自分にさえ遠慮なく異を唱えながら、望んだ道を切り開いてきた。
その意志の強さも、行動力も、もはや誰かに言われて身につけたものではない。
これから先、娘は自分が思い描きもしなかったような遠い道へ進んでいくのだろう。きっと幾度となく困難に直面し、悩み、傷つくこともある。それでも、もう引き留めるつもりはなかった。
親にできることには限りがある。いつまでも手を引いて歩くことはできないし、子供が選んだ道を代わりに歩むこともできない。
ただ、助けが必要になったときには、いつでも手を差し伸べられるようにしていたかった。
那岐はもう一度、民衆の祝福を受ける娘を見つめた。
その眼差しには、父親としての誇らしさと、成長した娘を送り出す寂しさが静かに入り交じっていた。
数日後、那岐は山門を見渡せる小高い丘を訪れていた。
そこには、石を積み重ねただけの小さな墓があった。三人の子供たちを残して亡くなった妻、伊邪那美の墓である。
立派な墓標も華やかな飾りもない質素なものだったが、丘の上からは二人がともに暮らし、子供たちを育てた山門の景色がよく見えた。
那岐は墓の前に腰を下ろすと、しばらく眼下の田畑や家々を眺め、それから懐かしい人へ語りかけるように口を開いた。
「那美、姫が王になったよ。まだ十五歳なのに、私が何百年もかけてできなかったことを、あの子は次々と成し遂げてしまうんだ」
那岐は嬉しそうに微笑み、墓石へ視線を戻した。
「月読もすっかり頼もしくなったよ。姫に似て勉強が好きでね、今では国の仕事まで手伝っているんだ。須佐之男は相変わらずやんちゃだけど、驚くほど大きくなって、力も強くなった。あの子たちが、もうあんなに成長したなんてね」
十年前、那美が息を引き取った日のことが脳裏をよぎった。
あの日は、残された三人の幼い子供たちを前に、これからどう育てていけばよいのかと途方に暮れたものだった。
それでも、家族で助け合いながら暮らしているうちに、子供たちは自分の想像を超えるほど立派に育ってくれた。
「那美にも見せてあげたかったな。姫の晴れ姿を見たら、きっと驚いただろうね。あの子、那美に似て、一度こうと決めたら何を言っても聞かないんだから」
那岐は小さく笑った。返事がないことなど、とうの昔に承知している。それでも、子供たちの成長を喜ぶたびに、その喜びを真っ先に伝えたくなる相手は、今も変わらなかった。
「これからは姫が山門を導いていくよ。私は少しずつ国の仕事を任せて、また田を耕したり、新しい土地を開いたりしようと思っているんだ。あの子なら、きっと私が考えもしなかったような国を作っていくのだろうね」
穏やかな風が丘を吹き抜け、眼下に広がる田の稲を揺らしていった。
「那美、これからもここから子供たちを見守っていてくれ。私も、あの子たちが困ったときには、いつでも力になれるようにしているから」
那岐は墓石にそっと手を添え、しばらくその場で山門の景色を眺めていた。
やがて那岐は、日巫女の統治が軌道に乗るまで傍らで支えながらも、年を重ねるごとに政務から距離を置くようになっていく。
もともと権力を望んでいたわけではなく、人々が飢えずに暮らせる土地を作ることこそ、那岐が長い年月をかけて続けてきた営みだった。
山門壱国の各地を巡り、まだ耕されていない土地を見つけては開拓し、田畑を整え、水路を引く。人々が安心して暮らせるようになると、また別の土地へ向かい、同じように汗を流す。
そんな日々を送りながら、那岐は少しずつ歴史の表舞台から姿を消していくことになる。
かつて伊邪那岐と伊邪那美がともに暮らし、育てた山門。
その土地が豊かになり、人々が集い、やがて一つの国へと発展していった長い歩みは、後の世に「国産み」の神話として語り継がれていく。
そして今、二人の間に生まれた三人の子供たちが、それぞれの道を歩み始めていた。
伊邪那岐が育んできた国を受け継ぎ、十五歳の女王日巫女が新たな時代を切り開いていく。
倭の地は、ここから本格的な神代の幕開けを迎えるのであった。




