十七話 ついに最後の関門を突破した!
「新たに祭殿を建てることにした」
いつものように家族四人で朝食を囲んでいたとき、那岐が何気ない調子でそう切り出した。
「祭殿というからには、祭事を執り行うための建物ですよね?」
月読が箸を止めて尋ねると、那岐は穏やかに頷いた。
「そうだよ。三階建てにして、広さも十分に確保しようと思っているんだ」
「そんなにでっかいものを建てるのか? そこで父上や姉上が舞でもするのか?」
須佐之男は興味を持ったらしく、身を乗り出してきた。
「もちろん祭事にも使うけれど、奉納舞が主な目的ではないかな」
那岐はそう答えながら、ちらりと日巫女に目を向けた。
日巫女は黙って父の話を聞いていた。
先日、自分を山門壱国の王にしてほしいと願い出てから、まだ正式な返事をもらっていなかったのである。
父が何を考え、どのような結論を出そうとしているのか、気にならないはずがなかった。
そんな娘の心中を知ってか知らずか、那岐はいつもと変わらない柔らかな口調で話を続けた。
「王には、王の玉座にふさわしい建物が必要じゃないかと思ってね」
「……王?」
月読が不思議そうに父を見つめた。
「祭殿に玉座を設けるということは……まさか、父上?」
「うん。私は日巫女に家督を譲って、山門壱国の初めての王になってもらうことにしたんだ」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、食卓が静まり返った。
最初に口を開いたのは須佐之男だった。
「父上、隠居されるのか?」
「そういうことになるね」
「ですが父上、いきなり長をお辞めになっては、民が不安がるのではありませんか?」
月読の心配も無理はなかった。山門壱国の人々にとって、伊邪那岐は何百年もの間、国を支え続けてきた存在である。
その父が長の座を退くとなれば、たとえ後継者が実績を積んできた日巫女であっても、戸惑う者は少なくないだろう。
「なに、すぐに全部任せてしまうわけではないよ。しばらくは私も姫の傍にいて支えるつもりだし、私がいるだけでも皆は安心してくれるだろうからね」
「そ、そうですか。それなら安心しました」
月読がほっとした様子を見せると、那岐は小さく笑った。
「もっとも、私が傍にいる必要も、それほど長くはないかもしれないけれどね。姫はもう、私が思っていた以上に立派に成長してくれたから」
その言葉を聞いた瞬間、日巫女は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ずっと目指してきた場所だった。
女であるというだけで、村長にすらなれない時代である。父の後継者になりたいと願っても、簡単に認めてもらえるはずがないことは、自分が誰よりも理解していた。
だからこそ学び、考え、巫女となり、政治の場に加わって、少しずつ実績を積み重ねてきたのである。
その努力を、父はずっと見ていてくれた。
嬉しかった。
何よりも、父が自分を認めてくれたことが嬉しかった。
目元に涙が浮かび、日巫女は慌てて顔を伏せた。ここで泣いてしまっては、せっかく父が認めてくれたのに、まだ子供だと思われてしまうかもしれない。
しばらく俯いたまま気持ちを落ち着かせると、日巫女はそっと目元を拭い、改めて父に向き直った。
「父上……ありがとうございます」
声がわずかに震えた。それでも日巫女は背筋を伸ばし、まっすぐに那岐を見つめた。
「必ず、立派な女王になってみせます!」
那岐はそんな娘の姿を嬉しそうに見つめ、優しく微笑んだ。
祭殿の建設が決まると、山門では早くも資材の調達や人手の手配が始まり、ほどなくして広大な敷地に建物の骨組みが姿を現した。
そんな中、山門壱国の各地から村長や集落の長たちが集まり、今後の国の在り方を決める重要な会議が開かれた。
議題は、三百五十年にわたって山門を治めてきた伊邪那岐の退任と、その娘である日巫女への家督継承、さらには山門壱国で初めて王位を設け、十五歳の少女を女王として迎えるという、前例のないものであった。
長たちの間には驚きと戸惑いが広がった。伊邪那岐は、彼らが生まれる遥か以前からこの国を支えてきた人物である。
その退任だけでも大きな出来事だというのに、後継者はまだ十五歳の娘であり、しかも従来の邑長ではなく王として国を治めるというのだから、容易に受け入れられない者がいても不思議ではなかった。
もっとも、表立って異議を唱える者はほとんどいなかった。
日巫女はすでに税と法の改革を主導し、新たに設けた管理官を通じて国の財政と法の運用を掌握していた。
さらに常備兵の創設によって軍事面にも影響力を及ぼしており、もはや単なる邑長の娘でも、神事を執り行うだけの巫女でもなかったのである。
その政治手腕を高く評価する長も少なくなく、改革によって村の負担が明確になり、不正が正されたことを歓迎する者もいた。
一方で、これまで各村に委ねられてきた権限が山門へ集められていくことに、不安を抱く者もいた。
だが、日巫女が若く経験も浅いことを理由に反対しようにも、すでに国の重要な制度を動かしているのは彼女であり、その成果も目に見える形で現れていた。
何より伊邪那岐自身が後継者として認めた以上、その判断を覆すだけの理由を示すことは難しかった。
それでも長たちが最後まで気にかけていたのは、伊邪那岐が退任した後のことであった。
これまで数え切れないほどの災害や不作、他国からの侵攻を乗り越えてこられたのは、那岐が国の中心にいたからである。
いかに日巫女が優秀であっても、その存在が突然失われることへの不安は拭いきれなかった。
しかし、那岐は隠居後も当面は娘の傍に留まり、これまでどおり会議や国の重要案件に参加することを明らかにした。
ただし、国の主として最終的な責任を負うのは、あくまで日巫女であるとも伝えた。
その説明を聞いて、長たちの表情にもようやく安堵が広がった。那岐が傍にいるのであれば、若い女王を支えながら新たな体制へ移行できる。
そう考える者が増え、会議の流れは次第に日巫女の継承を認める方向へまとまっていった。
やがて長たちの賛同が得られると、日巫女は居並ぶ者たちを見渡し、静かに口を開いた。
「私はこれからの山門壱国を、より大きく、より豊かな国にいたします。父上が長い年月をかけて築かれたこの国を受け継ぎ、さらに発展させていくつもりです。どうかこれからも、皆様のお力をお貸しください」
その言葉は、かつて会議への参加を願い出た幼い少女のものではなかった。国の未来を自らの責任として引き受けようとする、次代の統治者の言葉であった。
長たちは改めて日巫女へ視線を向けた。
かつては邑長に付き添って会議に参加し、発言することすら許されなかった少女が、今では国の制度を整え、政務を主導し、自分たちに協力を求める立場になっている。
そして伊邪那岐は、その娘の傍らで穏やかに成り行きを見守っていた。
もはや、この場で国の未来を語り、進むべき道を示しているのは那岐ではない。
長たちは、この会議をもって山門壱国の政治の中心が日巫女へ移ったことを、はっきりと理解したのである。
女であること、若すぎること、前例がないこと。これまで彼女の前に立ちはだかってきた幾つもの障壁は、積み重ねてきた実績と父の信頼によって、ついに乗り越えられた。
あとは完成する祭殿で、正式に王位へ就くだけであった。
日巫女が長年目指してきた女王への道。その最後の扉が、ついに開かれたのである。
会議を終えた日巫女と那岐は、建設が進む祭殿の前に立っていた。
広い敷地には切り出された材木が積み上げられ、大勢の職人たちが忙しく行き交っている。
柱が立ち始めた建物は、完成すれば山門のどこからでも見えるほどの高さになる予定であった。
「父上、本当にありがとうございます。こんなに立派な祭殿を建てていただけるなんて」
日巫女は建設中の祭殿を見上げながら、嬉しそうに微笑んだ。
「姫のためだけではないよ。これからの山門壱国には、王にふさわしい場所が必要になるだろうからね。国のためにも、こういう形を整えておくことは大切だと思うんだ」
「ええ……ですが父上、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだい?」
「父上は、本当はまだ反対されておられるのではありませんか?」
那岐は少し考えてから、あっさりと答えた。
「うん、反対だよ」
あまりにも迷いのない返事に、日巫女は思わず父の顔を見つめた。
家督を譲ると決め、祭殿の建設まで始めているというのに、当の本人は反対だと言うのである。
「……では、どうして認めていただけたのでしょう?」
「今までの姫を見てきたからだよ。文字が読めなくて泣きそうになっていた頃から、書物を読み尽くして新しい知識を求めるようになって、政治にも興味を持ち始めた。長たちの会議に参加するようになってからも、失敗したり悩んだりしながら、一つずつ自分の考えを形にしてきたでしょう?」
那岐は建設中の祭殿から視線を外し、隣に立つ娘へ顔を向けた。
「ずっと見守ってきたからね。だから、ひょっとしたらこの子なら、本当に倭国を一つにしてしまうのかもしれない。いつかは大陸の大国とも対等に渡り合えるほど、強く豊かな国を築いてしまうのかもしれないって、そう思わせてくれたんだよ」
日巫女は父の言葉を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。誰よりも認めてほしかった相手が、自分の歩んできた道を見ていてくれたのである。
「……道は険しく、長いですわ。私自身、どこまで成し遂げられるのか、まだわかりません」
「それでも進むのでしょう?」
「もちろんですわ」
「だったら、もう止められないね」
那岐は困ったように微笑んだものの、その表情にはどこか寂しげなものがあった。
「本当はもっと反対するべきなんだろうね。父親としては失格なのかもしれない」
「え? どうしてですの? 父上はこんなにも立派ではありませんか」
「だって、姫は普通の女の子としての幸せを掴んではくれなさそうだからね。王になれば、これから先もたくさんの苦労を背負うことになる。それに……結婚もしないっていうし……」
最後の言葉には、娘の将来を案じる父親としての本音が滲んでいた。
日巫女は思わず苦笑した。父が何を心配しているのかは、よくわかっている。
けれど、自分が求めている幸せが何なのか、この鈍感な父はきっと一生気づかないのだろう。
「心配なさらなくても、いつか孫の顔は見られますわよ」
「あはは、それは楽しみだね」
那岐が嬉しそうに笑うものだから、日巫女もそれ以上は何も言わなかった。
そのとき、建設現場の方から威勢のよい声が聞こえてきた。
「おーい! そっちの柱はどこへ運べばいいんだー!」
二人が振り向くと、須佐之男が自分の身体よりも遥かに大きな材木を肩に担ぎ、悠々と歩いてくるところだった。
周囲の職人たちが数人がかりで運ぶような太い材木を、十歳の少年が一人で運んでいるのである。
「須佐之男、建築を手伝っているのかい?」
「おっ、父上と姉上じゃないか! おうよ! 木を伐って、加工して、ここまで運んでいるんだ。俺が手伝えば仕事も早く進むからな!」
須佐之男は得意げに胸を張ると、肩に担いだ材木を軽々と持ち直した。
「待ってな! すぐに立派な祭殿を完成させてやるからな!」
「ありがとう、須佐之男。怪我だけはしないようにね」
「おう! 任せとけ!」
元気よく返事をした須佐之男は、職人たちの待つ場所へと大股で歩いていった。
那岐はその後ろ姿をしばらく眺めていた。
「あんなに大きな材木を運べるようになったんだね……十年前は、まだ生まれたばかりの赤ん坊だったのに。十年なんて、あっという間だなぁ」
その声には、子供たちの成長を喜ぶ父親の感慨が込められていた。
「須佐之男はちょっと特別ですわ。月読だったら、あの材木を持ち上げるどころか、重さに耐えきれず潰れてしまいそうですもの」
「あはは、確かに月読には無理だろうね」
「もっとも、月読には月読の得意なことがありますから。あの子まで須佐之男のようになられても困りますわ」
「それもそうだね」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
職人たちの掛け声と木槌の音が響く中、建設中の祭殿では、須佐之男が再び大きな材木を運び始めていた。
那岐はその姿を微笑ましく見守りながら、隣に立つ娘へと視線を戻した。
母を亡くしたあの日、まだ五歳だった姫が、小さな腕に弟を抱いて母になると言い張ったことを、今でも鮮明に覚えている。
あれから十年。
あの小さな娘が、今度は国を背負おうとしている。
那岐には、娘がこれからどれほど遠くまで歩んでいくのか、まだ想像もつかなかった。




