十六話 父への片思い、好きとはいえない!
「倭の統一です!」
娘の口から飛び出した途方もない言葉に、那岐は思わず目を見開いた。
山門壱国の主になるだけでも前例のない挑戦だというのに、その先には倭の国々をすべて一つにまとめるという、さらに大きな野望が待っていたのである。
いったい、いつからそんなことを考えていたのだろうか。目の前にいる十五歳の娘は、どこまで本気なのだろう。
「……ひょっとして、楽浪郡へ行ったときから考えていたのかい?」
「それもありますが、最初のきっかけは母上の村の一件ですわ」
「ああ……救済を決めるまでに時間がかかり、那美の村を救えなかったことだね。あれは私の力不足だった」
那岐の表情に、わずかな陰りが差した。三十年近く経った今でも、焼け落ちた村の光景は忘れられない。
もっと早く決断できていれば、救えた命があったかもしれないという後悔は、今も胸の奥に残っていた。
「父上だけの責任ではありませんわ。村長たちがそれぞれの利益を優先し、救うべき民がいるというのに、話し合いばかりを重ねていたことが問題なのです」
「それで、姫は政治に興味を持ったんだね」
「ええ。そして奴国へ行き、山門が文化や交易の面でどれほど遅れているかを知りました。さらに楽浪郡では、大国である漢と倭の、絶望的なまでの格差を目の当たりにしたのです」
「絶望的とまで言うのかい……」
あまりにも容赦のない評価に、那岐は苦笑するしかなかった。しかし、姫の言葉は決して大げさではない。
国土も人口も、物資の流通も、政治を支える制度も、漢と倭では比較にならないほどの隔たりがある。
「父上は以前、私におっしゃいましたね。国が大きくなれば、それに応じた役割分担が必要になると。今なら、その意味がよくわかりますわ」
「覚えていたんだね」
「もちろんです。父上は最初から答えを教えてくださっていたのですもの。倭の国々を統一し、それを支える制度を整える。それが私の目指す道です」
「でも、統一した先に何を求めるんだい? 国を一つにすること自体が目的ではないだろう?」
「漢に対抗できるだけの国力を備えた、豊かで強い国を築くことですわ」
日巫女は迷いなく答えた。
那岐はしばらく娘を見つめていた。国を豊かにするというだけなら理解できる。自分も長い年月をかけて、そのために働いてきた。しかし、姫が見据えているのは山門壱国の発展などではなく、倭という国そのものの未来だった。
「そこまで大きなことを、本当に姫はやりたいのかい?」
「やりたいですわ。ただ、私の代ですべてを成し遂げられるとは思っておりません。倭を統一するだけでも容易ではありませんし、漢に対抗できるほどの国に育てるには、さらに長い年月が必要でしょう」
「そうだね。国々をまとめ、その後に制度を整えていくとなれば、数百年かかっても不思議ではないよ」
「ええ。ですが、何事にも始まりが必要です。そもそも私にとっては、倭の国々をどうやって一つにまとめるかが、最初にして最大の難題なのですけれど」
「それについては、何か考えているのかい?」
「もちろんですわ。最初からすべてを一つの国にしようとは考えておりません。まずは連合を作ります」
「連合?」
「山門壱国と同じです。もともと山門も、邑長と村長たちによる寄り合いのようなものでした。それを税と法の整備によって、少しずつ山門を中心とした統治の仕組みに変えてきましたでしょう?」
「なるほど。まずは各国の自治を認めて連合に加わってもらい、時間をかけて中央の権限を強めていくということか」
「そのとおりですわ。最初から従来の仕組みをすべて取り上げようとすれば、どの国も反発いたします。ですから、まずは連合に加わることで得られる利益を示すのです。交易や防衛で協力し、互いに豊かになれると理解してもらえば、無理に戦を起こす必要もありません」
「それなら私にも理解できるよ。争わずに済むのなら、それに越したことはないからね」
那岐は少し安心したように頷いたものの、すぐに別の疑問が浮かんだ。
「でも、すべての国が素直に応じてくれるとは限らないよ。連合への参加を拒む国もあるだろうし、独立を守りたいと考える長だっているはずだ。そういう相手にはどうするつもりなんだい?」
「そのためにも、血縁を利用いたします」
「血縁?」
「相手の国の長との間に、私が子を産むのです。そして、その子を相手国の後継者に立てますわ」
「おお! 姫、結婚する気になってくれたんだね!」
那岐の表情がぱっと明るくなった。
娘は幼い頃から家事や勉学に熱心で、近頃は政治のことばかり考えている。年頃になっても誰かを好きになったという話は聞かず、父親としては少々心配していたところだった。
ようやく娘も自分自身の幸せを考えるようになったのかと喜んだ那岐だったが、その期待は次の一言であっさり打ち砕かれた。
「結婚はいたしませんわ」
「……え?」
「私は女王になるのです。一国の長に嫁いで、その国の妻として暮らすわけにはまいりませんもの」
「で、でも、子供を産むんだよね?」
「ええ。必要なだけ、他国の支配者との間に子を儲けます。その子たちを各国の後継者に据えることで、倭の国々を血縁で結びつけるのです」
「それは……でも、姫……」
那岐は困惑した。娘が子供を産むという話は嬉しい。しかし、その相手を愛するつもりもなく、結婚すらせず、国をまとめるためだけに子を儲けるという考えは、あまりにも割り切りすぎているように思えた。
「姫は、それで幸せになれるのかい?」
日巫女は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……私が夢見ていた幸せは、もう諦めていますわ」
「姫……?」
「生まれてくる子供たちは、もちろん愛します。ですが、その父親となる方々を愛せるかと問われれば、おそらく無理でしょう。それでも構いません。私には、それ以上に成し遂げたいことがあるのです」
「そこまで自分を犠牲にしなくても、他に方法はあるんじゃないかな……」
「あるかもしれません。ですが、前例のないことを成し遂げようというのですから、私自身も相応の覚悟を持たなければなりません。女の身で王となり、さらに倭の統一まで目指すのです。普通の幸せを望んでいては、到底届かないでしょう」
日巫女の口調は穏やかだったが、その決意に揺らぎはなかった。
那岐は複雑な思いで娘を見つめた。自分が教えた文字を覚え、書物を読み漁り、外の世界を知りたいと騒いでいた少女が、いつの間にかこれほど遠い未来を考えるようになっていた。
しかし、その未来のために娘自身の幸せを差し出そうとしていることが、父親としてはどうしても気にかかる。
「……でもね、姫。たとえ相手の長との間に子供が生まれても、その子を必ず後継者にしてくれるとは限らないよ。約束を破られることだってあるだろう?」
「当然、その可能性は考えております。連合への参加と、私との間に生まれた子を後継者にすることを条件として、相手国と取り決めを交わしますわ」
「それでも反故にされたら?」
「相応の対処をいたします」
「相応の対処というと……?」
「その子を正統な後継者として旗頭に掲げ、軍を率いて攻め落とします」
日巫女は事もなげに言い切った。
「約束を守る国には、連合の一員として自治と繁栄を保証します。ですが、約束を破り、こちらの立場をないがしろにする国まで放置するわけにはまいりません。そのときは、武力を用いることに一切の迷いはありませんわ」
「……姫は、ずいぶん厳しいことを考えるんだね」
「国と国との約束ですもの。守られなければ、連合そのものが成り立たなくなりますわ」
那岐はそれ以上、すぐには言い返せなかった。娘の言葉にも筋は通っている。しかし、約束を守らせるためとはいえ、戦を起こすことまで迷わず決められる姿勢には、自分との大きな違いを感じずにはいられなかった。
「それから、私の子やその子孫には、神の器を与えようと考えております」
「神の器?」
「勾玉、銅鏡、剣。この三つを神器として授けるのです。各国の長となる者には、その土地の有力な一族の姫を娶らせ、現地の人々との結びつきを強めながら統治させます」
「神器を持たせて、土地の人々に認めてもらうということかい?」
「ええ。ただの婚姻や後継者の擁立では、権威が足りませんもの。そこで、神の血を引く者がその土地へ降り立ち、国を治めるという形を取ります。これを『天孫降臨』と称しますわ」
「天孫降臨……神の子孫が地上へ降り立つということか」
「そして私たち一族を『天孫族』と称します」
「つまり、神の一族というわけだね……」
「ええ。ありがたみがあるでしょう?」
日巫女は少し得意げに微笑んだ。
「この倭では、まだ文字を理解できる者が限られております。複雑な制度や血統の正当性を文書で示したところで、民の多くには伝わりません。ですが、神器を持つ神の一族が国を治めるという話なら、誰にでも理解できますわ」
「……神の権威を、政治に利用するということだね」
「そのとおりです。もちろん、いつまでも通用するとは思っておりません。ですが、今の倭では十分に効果があるはずです。それに、武力で征服するよりも、婚姻によって血縁を広げていく方が、はるかに穏やかではありませんか」
「確かに、争いを避けられるのはいいことだけど……」
那岐はそこで言葉を濁した。
娘の考えには、理解できる部分も多かった。国々を連合としてまとめ、交易や防衛で協力することには賛成できる。血縁を通じて争いを減らそうという発想も、決して悪いものではない。
しかし、そのために娘自身が愛のない関係で子を産み、約束を破る国には武力を用い、さらに神の権威まで政治の道具にするというのである。
しかも、これほど多くの政策を、わずか十五歳の娘が既に考えていたのだ。
那岐は当惑していた。
姫がどれほど真剣に将来を考えているかは十分に伝わってくる。だからこそ、父親としての感情だけで反対するわけにもいかなかった。
ただ、娘が進もうとしている道が、あまりにも険しく、そして自分とは違いすぎる。
国の将来を左右する決断を、今この場で軽々しく下すことなどできなかった。
「……姫、少し時間をもらってもいいかな?」
「お返事を、ですか?」
「うん。姫の考えはわかったつもりだけど、あまりにも大きな話だからね。私自身、まだ整理しきれていないんだ。ちゃんと考えてから返事をしたい」
日巫女は父の顔を見つめた。
那岐が政治的な判断を苦手としていることは、今では十分に理解している。しかし、今回ばかりは単に決断を先延ばしにしているわけではないこともわかった。
自分の覚悟を受け止めようと、父なりに真剣に考えてくれているのだ。
「わかりましたわ。お返事はお待ちいたします」
「ありがとう。悪いけど、今日はもう休ませてもらうよ。続きはまた後日にしよう」
「はい。おやすみなさいませ、父上」
那岐は娘の話を最後まで聞いたものの、その場で結論を出すことはなかった。
よほど考えることが多かったのだろう。その夜は珍しく日巫女より先に眠りについてしまった。
日巫女はしばらく父の寝顔を眺めていたが、やがて灯火を消し、いつものように那岐の寝床へ潜り込んだ。
母を亡くした五歳のあの日から続く習慣だった。
昼間は弟たちの母親代わりとして懸命に振る舞い、夜になると父の温もりを求めて甘える。
そんな娘を那岐は一度も拒まず、いつも優しく迎え入れてくれた。
今では十五歳になり、巫女として人々の前に立ち、国の政にも深く関わるようになった。
それでも、この習慣だけはどうしてもやめられなかった。
普段なら、那岐はそっと腕を回して抱き寄せ、幼い頃と変わらず頭を撫でてくれる。
その優しさが嬉しい一方で、日巫女はいつも胸の奥に言いようのない寂しさを覚えていた。
――触れて欲しいのは……そこではないのに。
そんなことを考える自分が、どれほど身勝手なのかは理解している。
父は自分を心から愛してくれている。
母を亡くしてからも何不自由なく育て、どんなわがままにも付き合い、時には叱り、時には励ましながら、今日まで見守り続けてくれた。
けれど、それはどこまでも娘に向けられた愛情だった。
どれほど成長し、美しく着飾っても、父の目に映るのは、いつまでも幼い娘の姫なのだろう。
そんなことを考えていると、眠っていた那岐が小さく寝返りを打った。
不意に父の顔が目の前へ近づき、日巫女は思わず息を呑んだ。
互いの吐息が感じられるほどの距離だった。
長い睫毛に整った鼻筋、穏やかな寝顔。
見慣れているはずなのに、こうして間近で眺めていると、あらためて父がどれほど美しい男性なのかを思い知らされる。
七歳の春、父の巫女舞を見たときから抱き続けてきた想いは、八年の歳月を経ても少しも薄れてはいなかった。
それどころか、成長するにつれて決して叶わない願いなのだと理解するようになり、その分だけ胸の奥で深く根を張っていた。
ほんの少し顔を寄せるだけで、その唇に届いてしまう。
今なら父は気づかないかもしれない。たとえ目を覚ましても、寝返りを打った拍子の偶然だったと言い訳できる。
誰にも知られず、何もなかったことにできるはずだった。
……一度だけ……。
日巫女はためらいながらも、震える唇をそっと近づけた。
そのときだった。
「……なみ……」
眠っている那岐が、小さく寝言を漏らした。
日巫女の動きが止まった。
那美。
それは、十年前に亡くなった母の名前だった。
父が夢の中で何を見ているのかは分からない。
けれど、三百五十年もの長い歳月を生きてきた父にとって、母と過ごした日々が今なお大切な思い出であることだけは、痛いほど伝わってきた。
日巫女は静かに顔を離すと、仰向けになって天井を見つめた。
先ほどまで胸を満たしていた熱が少しずつ冷め、代わりに寂しさと、どうしようもない嫉妬が込み上げてくる。
「……母上は、ずるいです」
小さく呟いてみても、当然ながら返事はない。
聞こえるのは、隣で眠る父の穏やかな寝息だけだった。
「亡くなっても……父上を私にくれないのですから」
口にした途端、自分でもおかしくなって、日巫女は寂しげに微笑んだ。
亡くなった母に嫉妬するなんて、なんと愚かなことだろう。
母のことは今でも大好きだし、父が母を愛し続けていることも、本当なら喜ぶべきなのだ。
それでも、羨ましかった。
母は父に愛され、妻となり、三人の子供を授かった。
自分がどれほど望んでも決して手に入れることのできない幸せを、母は確かに手にしていたのだから。
――私は、母上にはなれない。
そんなことは、とうの昔に分かっていた。
だからこそ、この想いを父に告げるつもりはなかった。
告げたところで困らせるだけだし、何よりも、これまで築いてきた親子の関係を壊したくなかった。
それに、自分には果たさなければならない使命がある。
五歳のあの日、母を亡くしたときから、自分は大人になると誓った。
弟たちを守り、家を支え、やがて国の政に関わるようになった今では、守りたいものは家族だけではなくなっている。
母のような悲劇を二度と繰り返させないために、この国を変える。
そして、いつか倭の国々を一つにまとめ、大陸の大国にも劣らぬ豊かな国を築いてみせる。
そのためなら、女としての幸せを諦める覚悟もできていた。
けれど、覚悟を決めたからといって、胸の奥にある想いまで消えてくれるわけではない。
明日になれば、また生意気な巫女に戻ろう。
父に遠慮なく意見をぶつけ、村長たちを相手に一歩も引かず、誰よりも堂々と振る舞ってみせる。
いつか王となる、その日まで。
だから、せめて今夜だけは……。
「……父上」
返事のないことを承知で小さく呼びかけると、日巫女は再び父の方へ身体を向け、その胸元にそっと頬を寄せた。
幼い頃から何一つ変わらない、懐かしくて優しい温もりが伝わってくる。
今だけは、国のことも、王になるための苦労も、決して叶わない想いも忘れていたかった。
ただ、父に甘える一人の少女でいたかった。
日巫女は静かに目を閉じた。
やがて、那岐の穏やかな寝息に包まれながら、少女はゆっくりと眠りへ落ちていった。




