十四話 役人も兵も、足りませんわ!
母の伊邪那美が亡くなってから、十年の歳月が流れた。
五歳で母を失い、自らこの家の母になると誓った姫も、今では十五歳。
弟の月読は十三歳、末弟の須佐之男は十歳となり、幼かった三姉弟はそれぞれに成長を遂げていた。
「父上は間違っていますわ!」
朝食の席で、日巫女が唐突に声を上げた。
向かいに座っていた那岐は箸を止めかけたものの、すぐに何事もなかったかのように食事を続けた。
最近は娘から政治について異議を唱えられることが増えており、食事中であろうと容赦なく議論を仕掛けてくるため、もはや驚くことでもなくなっていた。
「父上、聞いてますの?」
「う、うん。聞いているよ。今度は何かな?」
どうやら聞き流すことは許されないらしい。那岐が諦めて顔を上げると、日巫女は待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「ようやく税収が増えてきたのですから、役人を増やしましょう。それに常備軍の整備も、これ以上先延ばしにはできませんわ」
「ああ、前から言っていた官僚と常備兵のことだね。でも、この前ようやく税と法を担当する役人を雇ったばかりじゃないか。まだ専用の建物も完成していなくて、仮の館で仕事をしてもらっているのに、さらに増やすつもりなの?」
「建物はすでに建設中ですから、完成すれば解決いたします。それよりも問題なのは兵舎ですわ。父上が常備軍の設置を認めてくださらないことには、建設の話すら進められません」
山門壱国には、これまで常備軍というものが存在しなかった。
外敵が攻めてくれば各地から戦える者を集め、那岐が指揮を執って迎え撃つ仕組みであり、平時には兵士たちも農業や漁業など、それぞれの生業に従事していたのである。
長年、それで国を守ってきた那岐にとって、戦のない時まで兵を抱える必要性は、どうにも納得しにくいものだった。
「兵を集めれば、その人たちは田や畑を耕す時間が減ってしまうよ。それに、兵の食糧も装備も国が用意しなければならない。増えた税収を全部使ってしまうわけにもいかないでしょう?」
「だからこそ、最初は小規模でよいと申し上げているのです。いざ戦となってから兵を集め、訓練を始めていては遅すぎますわ。それに常備軍の役目は戦だけではありません。国の秩序を守り、法を実行するためにも必要なのです」
「それはわかるけどねえ……」
那岐が困ったように首を傾げると、日巫女は今度は役人の必要性について語り始めた。
「それに、この国は文字を理解できる者が少なすぎます。せっかく税と法の制度を整えたところで、記録を残し、正確に管理できる者がいなければ意味がありませんわ」
「それは山門に限った話ではないよ。倭国では、文字を使える人の方が珍しいくらいだからね」
「それでも奴国では、文字を扱える方を何人も見かけましたわ」
「交易や外交が盛んだからね。大陸の商人たちと取引するには、どうしても必要になるんだよ」
「でしたら、私たちも他国から招けばよろしいのです。まずは文字を理解できる者を雇い、山門邑で働いていただきましょう。いずれは国内でも文字を学ぶ者を増やさなければなりませんが、それを待っている余裕はありません」
「そんなに急がなくてもいいんじゃないかなあ」
「何をおっしゃるのですか! 今こそ急がなければならないのですわ!」
日巫女が声を強めると、那岐は思わず肩をすくめた。娘の言っていることは理解できるし、必要性も認めている。
ただ、物事を急激に変えてしまうことへの不安が、どうしても拭えないのである。
そんな父娘の議論を聞いていた須佐之男が、突然、目を輝かせた。
「父上! 常備軍ができるなら俺も入るぞ!」
「須佐之男にはまだ早いよ。十歳なんだから」
「なんでだよ! 俺はそこらの大人よりずっと強いぞ!」
「強いからって、すぐに兵士になれるわけじゃないんだよ。兵には兵の務めがあるし、勝手に戦っていいわけでもないからね」
「ちぇっ……じゃあ鍛錬だけでも参加させてくれよ。もっと強くなりたいんだ!」
那岐はしばらく考え込んだものの、息子が武術の鍛錬を好んでいることはよく知っていた。
正式な兵士として所属させるわけでなければ、訓練に参加させるのも悪くないだろう。
「まあ、鍛錬だけならいいかな。ただし、教える人の言うことはちゃんと聞くんだよ」
「よっしゃー!」
須佐之男が両手を上げて喜ぶと、今度は月読が遠慮がちに口を開いた。
「父上、それでしたら私も官僚のお仕事を手伝いたいです」
「月読もかい? まだ十三歳でしょう?」
「ですが、姉上に命じられて山門壱国中の調査記録を散々集計させられたのですよ。文字も読めますし、計算もできます。少なくとも、まったく経験がないわけではありません」
そう言って胸を張る月読だったが、その表情には、姉に山のような記録を渡されて苦労した日々への、ささやかな恨みも混じっていた。
「あら、あの経験が役に立ったではありませんか。月読なら安心して任せられますわ」
「姉上はいつもそう言って、私に仕事を押し付けるのですから……」
「適材適所というものですわ。須佐之男は兵の鍛錬、月読は官僚のお仕事。二人とも自分に合った場所で力を発揮できるのですから、結構なことではありませんか」
日巫女は満足そうに頷くと、改めて父へ向き直った。
「では、決まりですわね!」
「ちょ、ちょっと待って! まだ何も決まっていないよ、姫!」
「ここまで話がまとまったのですから、もうよろしいではありませんか」
「いや、まとまったというより、姫が勝手にまとめてしまったんじゃないかなあ……」
那岐は困り果てたように三人の子供たちを見渡した。
須佐之男は新しい鍛錬の場ができることを楽しみにしており、月読もようやく自分の知識を生かせる仕事に就けると期待している。
そして日巫女に至っては、すでに許可を得たつもりなのか、今後の準備について考え始めていた。
それぞれ進みたい道が違うところは、いかにもこの三姉弟らしい。
もっとも、那岐としても、娘の提案が間違っているとは思っていなかった。
税と法を整えた以上、それを管理する役人は必要であり、国を守る兵についても、いつまでも昔ながらの仕組みに頼っていられるとは限らない。
結局、那岐は官僚も常備軍も当面は小規模にとどめることを条件に、日巫女の提案を認めることにした。
「わかったよ。ただし、最初から大勢を雇ったり、兵を集めたりしてはいけないよ。国の蓄えや人々の暮らしに無理が出ないよう、少しずつ始めること。それだけは約束してほしいな」
「もちろんですわ! 無理に規模を広げるつもりなどありません。まずは必要な仕組みを作ることが大切なのですから」
日巫女は満面の笑みを浮かべた。
那岐はそんな娘を眺めながら、また一つ押し切られてしまったと小さくため息をつく。
娘が頼もしく育ってくれたことは嬉しい。
ただ、最近は自分が邑長なのか、娘の相談役なのか、時々わからなくなってしまうのだった。
最初に取り組んだのは、すでに建設が進められていた政務用の施設に人手を増やして完成を急がせることだった。
それと並行して、那岐と日巫女は奴国をはじめとする周辺諸国へ足を運び、文字の読み書きや計算に通じた人材を探し始めた。
山門壱国では文字を扱える者が極めて少なく、税や法の管理だけでも人手が足りていない。まして国全体の政務を整えていくとなれば、それぞれの仕事を専門に担う者が必要だった。
もっとも、他国で知識を身につけた者が簡単に山門へ移り住んでくれるわけではない。
報酬や住まいを用意し、仕事の内容を説明して説得する必要があり、人材集めは思っていた以上に骨の折れる仕事となった。
それでも少しずつ人を集め、まずは数名を新たに雇い入れることができた。
彼らには従来の税や法の管理だけでなく、各村から届く報告の整理や物資の記録、交易に関する事務など、国政全般を支える仕事を任せることになった。
そして、そこには十三歳になった月読の姿もあった。
姉に命じられて各地の調査記録を整理し、膨大な数字と格闘してきた月読にとって、文字や計算を扱う仕事は苦痛どころか、むしろ自分の得意分野を生かせる願ってもない機会だった。
「やっと私らしい場所を得ましたぁ!」
新しく用意された仕事場で、月読は積み上げられた木簡を前に嬉しそうな声を上げた。
「月読、まだ見習いなんだからね。ちゃんと官僚の皆さんのお手伝いをするんだよ」
「はい、父上! しっかり学んで、早く一人前になってみせます!」
そう答えるなり、月読は早速木簡を手に取り、記録の整理を始めてしまった。
那岐はそんな息子の姿を微笑ましく見守っていた。
姉に振り回されながらも、文句を言いつつ仕事をこなしてきた月読だったが、どうやら本人が望んでいた居場所をようやく見つけたらしい。
まだ十三歳とはいえ、学ぶことへの意欲も、文字や数字を扱う能力も申し分ない。
経験豊かな官僚たちのもとで実務を覚えていけば、いずれは姉を支える頼もしい存在になってくれるだろう。
そう思うと、那岐は息子のこれからの成長が楽しみになるのだった。
常備軍の創設は、まず数十人の志願者を集めるところから始まった。
これまで山門壱国では、戦が起これば各村から人を集めて軍を編成していたため、平時から兵を養うという考えそのものが珍しく、志願者の多くも、日頃から武器を手にして鍛錬できることに期待を寄せていた。
なかでも張り切っていたのが須佐之男である。父から兵の鍛錬に参加する許可を得たことで、すっかり一人前の武人になったつもりでいた。
「ここが兵舎か! ……って、父上、広場しかないぞ? 兵舎はどこだ?」
案内された場所には、整地された広い土地があるだけで、建物らしいものは何一つなかった。
須佐之男が不思議そうに周囲を見回していると、那岐は何でもないことのように答えた。
「うん。だから、まずは兵舎を建てるところから始めるんだよ」
「はあ!? 俺は兵士だぞ! 大工じゃねえ!」
「まだ兵士になったわけじゃないでしょう。それにね、須佐之男。強い軍ほど、陣や砦を造る仕事を疎かにはしないものなんだよ」
「どういうことだ?」
「戦というのは、ただ敵と戦えばいいわけじゃないんだ。実際に武器を交えている時間なんて、戦全体から見ればほんの一部でしかないことも多いんだよ。それよりも、目的地まで進軍したり、陣を設けたり、食糧や武器を運んだりする時間の方がずっと長い。敵を防ぐために柵を立てることもあれば、砦を造らなければならないことだってあるんだ」
「……なんだよ。戦って、ずいぶん地味なんだな」
「そうだね。でも、その地味な仕事をきちんとできる軍が強いんだよ。どれだけ腕の立つ兵士を集めても、食べるものがなくなったり、寝る場所すら確保できなかったりしたら、戦うどころではなくなるでしょう?」
那岐はさらに、兵が協力して大きな仕事を成し遂げることも大切な鍛錬なのだと教えた。一人では運べない材木も、大勢で力を合わせれば運べる。
誰かが勝手な行動を取れば作業が滞り、時には仲間を危険にさらすことにもなる。命令を理解し、役割を分担して動くことは、戦場でも変わらないというのである。
須佐之男はしばらく考え込んでいたが、やがて勢いよく顔を上げた。
「わかった! だったら、まずは木を伐ってくればいいんだな!」
「うん。ただし、勝手に伐っちゃ駄目だよ。使う木も場所も決めてあるから、ちゃんと指示に従うんだよ」
「おう! 任せとけ!」
こうして、新しく集められた兵たちの最初の任務は、自分たちが暮らす兵舎の建設となった。
まずは雨風をしのげる仮設の兵舎を建て、そこを生活の拠点としてから、本格的な施設の建設に取り掛かる。
山から伐り出した木を運び、柱を立て、屋根を葺き、道具や食糧を保管する場所を整える。
慣れない作業に苦労する者も多かったが、那岐は作業を細かく分担させ、経験のある者を中心に据えて、少しずつ仕事を覚えさせていった。
須佐之男はというと、その怪力を存分に発揮していた。大人が数人がかりで運ぶような材木を平然と担ぎ上げ、次々と運び込んでくるのである。
初めは呆気に取られていた兵たちも、やがてその働きぶりに感心するようになった。
もっとも、力任せに作業を進めようとしては那岐に止められ、勝手な行動を慎むよう何度も注意されることにもなった。
那岐が重視したのは、単なる腕力ではなかった。決められた時刻に集まり、指示に従って行動し、仲間と協力して仕事を終えること。
そうした日々の積み重ねによって、寄せ集めだった志願者たちに、少しずつ一つの集団としてのまとまりが生まれていった。
もちろん武器の扱いも教えていたが、当面は木の棒を使った基礎鍛錬にとどめ、走り込みや荷運び、建築作業による体力の向上を優先させた。
やがて仮設の兵舎に代わって正式な兵舎が次々と完成し、兵たちが寝泊まりできる施設も整った。
「よっしゃあ! これでやっと鍛錬に専念できるな!」
完成した兵舎を前に、須佐之男は嬉しそうに拳を突き上げた。これでもう面倒な建築作業から解放され、思う存分武術を磨けると思ったのである。
ところが、そんな期待は父の一言であっさり打ち砕かれた。
「じゃあ、次は周りに柵を立てて、砦として使えるようにしようか」
「まだ建築すんのかよ!?」
「当たり前でしょう。兵舎ができただけでは、守りが足りないからね。それに、せっかく造るんだから、いざという時には防衛の拠点としても使えるようにしておきたいんだよ」
「……いつになったら本格的な鍛錬ができるんだ?」
「毎日やっているじゃない。木の棒を使った鍛錬も、走り込みも、材木運びもね」
「俺がやりたいのは、そういうのじゃねえんだよ……」
不満げな須佐之男を見て、那岐は楽しそうに笑った。
しかし、那岐には譲れない考えがあった。いかに個人の武勇が優れていようと、それだけで軍が強くなるわけではない。
兵を動かすには規律が必要であり、集団で行動するための基礎を身につけなければならない。
長年にわたり幾度も戦を経験してきた那岐にとって、それは武器の扱いを教えるよりも先に覚えさせるべきことだった。
こうして兵たちは、日々の鍛錬を続けながら兵舎の周囲に柵を巡らせ、門や見張り台を設けるなど、防衛施設の整備も進めていった。
常備軍への志願者は当初こそ少なかったが、兵舎が整い、訓練や生活の様子が知られるようになるにつれて、少しずつ増えていった。
募兵はあくまで希望者を対象とし、無理に人を集めることはなかったものの、やがてその規模は百人ほどに達した。
そこで那岐は、いったん募兵を停止することにした。
兵を増やすだけなら難しくはない。しかし、平時から兵を養い続けるには食糧も必要であり、武器や装備の維持にも費用がかかる。
何より、まだ創設されたばかりの軍である以上、指揮系統を整え、兵たちを十分に鍛えることが先決だった。
こうして山門壱国には、常時百人ほどの兵を抱える初めての常備軍が誕生した。
ただし、その兵たちが最初に身につけたのは、敵を倒す技ではなかった。
仲間と力を合わせ、陣を築き、自分たちの身を守るための技術だったのである。
「さすがですわ、父上。軍の育成まで、しっかり考えていらっしゃるのですね」
「木の棒を持たせて鍛錬させながら、大工仕事をやらせているだけだよ」
「あら、珍しく皮肉ですわね」
「戦は嫌いだからね」
那岐は苦笑しながら答えたが、その言葉にはどこか寂しげな響きがあった。
「ですが、父上ほど戦に精通している方は、この山門壱国にはおられませんわ」
「長く生きていると、どうしても経験することになるんだよ。望んでもいないのに戦に巻き込まれたり、守るために戦わなければならなかったりね。そうしているうちに、少しでも被害を減らす方法を考えるようになって、いつの間にか知識も経験も増えてしまったんだ」
那岐は穏やかに語っていたが、その言葉の裏には、三百年以上にわたって積み重ねてきた苦い経験があった。
この時代、特に筑紫では、ひとたび不作に見舞われれば食糧を巡る争いが起こり、時には村同士が殺し合うことさえ珍しくなかった。
国々を束ねる法も秩序も十分には確立されておらず、豊かな土地や蓄えを持つ村ほど、他国から狙われる危険を抱えていた。
山門壱国が比較的平穏な暮らしを維持できているのも、決して周辺諸国が穏やかだからではない。
那岐が長い年月をかけて食糧を蓄え、国を豊かにし、侵略を受ければ自ら先頭に立って守り抜いてきたからこそであった。
だが、その那岐自身は、戦に勝つことを誇ろうとはしなかった。
どれほど備えを整え、被害を抑えたとしても、戦になれば誰かが傷つき、命を落とすことを知っていたからである。
「……それが、常備軍を置くことに反対されていた理由ですか?」
「姫の考えは正しいと思うよ。普段から兵を鍛えておけば、いざというときに民を守れるし、備えがあることで戦そのものを避けられるかもしれない。でもね……私には、どうしても人を戦わせるための組織を、自分から作ろうという気持ちになれなかったんだ」
那岐はそこで言葉を切り、遠くを見つめた。
「守るために必要だとわかっていても、戦うための備えを整えることには、今でも抵抗があるんだよ。困ったものだね。何百年も生きてきたのに、こういうところは少しも変わらない」
その横顔を見つめながら、日巫女は父が政治的な決断を苦手とする理由を、改めて理解したような気がした。
父は弱いから決められないのではない。決断の先に傷つく者がいることを、誰よりも知っているからこそ、簡単には決められないのだ。
もっとも、それでは国を治められないと考える自分の意見が変わったわけではない。必要なものは必要であり、決めなければならないことは、誰かが決めなければならない。
それでも、父の優しさまで否定するつもりはなかった。
「そんな父上だからこそ、今の山門壱国があるのですよ」
日巫女はそう告げると、そっと那岐の肩に頭を寄せた。
民を守るためなら誰よりも勇敢に戦いながら、誰よりも戦を嫌う父。その矛盾しているようにも見える生き方を、日巫女は心から誇らしく思っていた。




