十話 卑弥呼誕生、神の使いになる!
母の伊邪那美が亡くなり、姫が幼い弟たちの母親代わりとなってから、八年の月日が流れた。
姫は十三歳、月読は十一歳、末弟の須佐之男も八歳になっていた。
姫が巫女という存在に強い関心を抱くようになったのは、前年の秋、奴国で奉納舞を見学したことがきっかけだった。
舞が終わると、巫女はその土地の長のもとへ進み、神から授かったという言葉を厳かに告げた。長は居住まいを正し、その言葉に静かに耳を傾けていた。
さらに今年の春、父が舞を奉納する山門邑ではなく、山門壱国に属する別の村へ出向いた際にも、姫は同じ光景を目にした。
その村でも奉納舞を終えた巫女が村長へ神託を告げ、村長は周囲の者たちとともに、その言葉を恭しく受け止めていたのである。
それを見た姫の胸に、一つの考えが浮かんだ。
巫女は女でありながら、土地の長に対して堂々と意見を伝えることができる。
しかも、それが神から授かった言葉である以上、長も簡単には聞き流せない。
男か女か、身分が高いか低いかにかかわらず、人々は巫女の神託に耳を傾けるのだ。
それならば、自分も巫女になればよいのではないか。
その考えは、長く閉ざされていた道に光が差したかのように、姫の心を明るくした。
ある朝、家族そろって朝食を取っていたときのことだった。姫は箸を置くと、向かいに座る父へ真剣な顔を向けた。
「父上、巫女舞を教えてください。それと、儀式や作法についても一通り学びたいのです」
突然の申し出に、那岐はきょとんとした顔で娘を見つめた。
「巫女舞? 姫は私の後を継いで邑長になりたかったんじゃないの?」
「そうですわ。だからこそ、巫女になりたいのです」
「……ん? どういうこと?」
那岐は不思議そうに首を傾げたが、姫はその理由を詳しく説明しようとはしなかった。ただ、真剣な眼差しで父の返事を待っていた。
「まあ、姫が習いたいなら構わないよ。仕事の合間に時間を見つけて、少しずつ稽古しようか」
「はい! よろしくお願いいたします、父上!」
姫は嬉しそうに頭を下げた。
こうして姫の日課には、以前から続けていた妖力の制御に加えて、巫女舞と祭祀の作法を学ぶ時間が設けられることになった。
那岐の舞は、長年の経験によって磨かれた無駄のない動きが特徴だった。
ゆったりとして優雅に見えても、一つひとつの所作には決まった形があり、腕の高さや足の運び、身体の向きが少し違うだけで、舞全体の美しさが損なわれてしまう。
「あっ、そこは違うよ。もう少し手を高く上げて、見ている人たちにもはっきりわかるようにしてごらん」
「こうですか?」
「そうそう、その調子。今度は足の運びだね。そこは大きく踏み出さずに、床を滑るように進むんだよ」
姫は父の動きを懸命に真似たが、見ているときには簡単そうに思えた所作も、実際にやってみると思うようにはいかなかった。
那岐は何度も手本を見せ、ときには姫の腕を持ち上げ、肩の向きを直しながら、一つひとつの動きを丁寧に教えていった。
しかし、姫にとっては、それが思わぬ悩みの種となった。
妖気を制御する鍛錬では、那岐は少し離れた場所から娘の様子を見守り、必要に応じて助言を与えることが多かった。
ところが巫女舞の稽古では、姿勢を正すために肩や腕へ直接触れることが珍しくない。
「姫、ここは肩の力を抜いて。そう、そのまま腕をゆっくり動かしてごらん」
「は、はい……」
父の手が肩に添えられると、姫は途端に身体をこわばらせてしまった。
「ん? そんなに緊張しなくてもいいんだよ。もっと自然にね」
「わ、わかっていますわ!」
そう答えながらも、姫は自分の頬が熱くなるのを感じていた。
那岐には娘の姿勢を直しているという意識しかなく、いつもと変わらない穏やかな表情で教えてくれる。
それがわかっているからこそ、姫は余計に困ってしまうのだった。
――そんなに触れてこないでくださいませ……。これでは、ちっとも落ち着きませんわ……。
けれど、その気持ちを口に出せるはずもない。姫は胸の高鳴りを必死に隠しながら、父の教えに従って舞の稽古を続けた。
姫が巫女舞の稽古を続けていると、その様子を眺めていた那岐が、ふと思い出したように話しかけた。
「姫、そろそろ教えてくれないかい? いったい何を企んでいるの?」
「これは長たちの席に着くための突破口ですわ」
「巫女になることが?」
「はい。神の声を伝える巫女として認められれば、女であることの不利を覆せます」
那岐は娘の考えに感心しながらも、少しばかり心配そうな顔をした。
「でもね、神の代弁者として認められたからといって、それだけで私の後継者になれるわけではないよ。きっと周りの長たちも納得してくれないと思う」
「当然ですわ。私がまず欲しいのは、長たちが集まる会議の場に座る資格です。後継者として認めてもらうのは、その先の話ですもの」
「姫はすごいねえ……そこまでして長になりたいだなんて、私には考えられないよ」
那岐が感心したように笑うと、姫は舞の足を止めずに、不思議そうな顔を向けた。
「父上は、なりたくて邑長になられたのではありませんの?」
「全然。私は長になりたいなんて、一度も思ったことがないよ。周りの人たちに勝手に祀り上げられたから、自分にできることをしてきただけなんだ」
「それでは、どうして父上は邑長に祀り上げられたのでしょうか?」
「この山門が、まだ数戸しかない開拓地だった頃から、ずっと私がいたからじゃないかな。最初は人もほとんど住んでいない土地だったんだよ。そこへ少しずつ人が集まり、田畑が増え、集落が村になり、村が邑になった。やがて周辺の邑も一緒になって、いつの間にか山門国と呼ばれるようになったんだ。そして今度は、この辺りで一番大きな国だからって、山門壱国と呼ばれるようになった。私がそう名付けたわけでも、長になりたいと言ったわけでもないんだよ」
那岐は昔を懐かしむように微笑んだ。
何百年もの歳月をかけて築かれてきた国の歴史を、まるで昨日の出来事でも話すように、穏やかな口調で語っていた。
「だから父上は、王位に就こうとなさらないのですか?」
「うん。そもそも王になることに興味がないんだよ。王と名乗らなくても、山門の人たちが穏やかに暮らしていけるなら、それで十分だと思っている。国がここまで大きくなった以上、私の考えは間違っているのかもしれないけどね。でも、それが私なんだよ」
那岐は少し困ったように笑うと、今度は自分の胸の内を打ち明けるように続けた。
「それにね、私は邑長としても、ふさわしい人間ではないと思っているんだ。一番いけないのは、罪を犯した人を自分で裁けないことかな。例えば、食べ物を盗んだ人がいたとしても、その人に飢えた家族がいると知ってしまうと、どうしても罰を決められなくなる。もちろん、罪を犯した以上は償わなくてはいけないし、被害を受けた人を守ることも必要だとわかっているんだけどね」
那岐はそこで一度言葉を切り、静かに息をついた。
「だから結局、各村の長たちに裁きを任せてばかりいるんだよ。私が決めなくてはいけない場面でも、誰かにその役目を負わせてしまう。人を助けたいという気持ちだけでは、国を治めることはできないんだ。私には為政者として、致命的に足りないものがあるんだと思うよ」
父の言葉を聞いた途端、姫は思わず舞の動きを止めてしまった。
「父上……邑長をおやめになりたいのですか?」
「ふさわしい人が現れたら、その人に譲るのが自然な流れだと思っているよ。私はこれまで田を耕し、水を引き、人々が飢えないように食糧を蓄えることばかり考えてきたからね。そういうことは得意だけど、国を治めるとなると、どうしても私には限界があるんだ」
那岐は穏やかに答えた。そこには長の座を惜しむ気持ちも、自分を卑下する様子もなかった。
姫はしばらく父の顔を見つめていたが、やがて意を決して尋ねた。
「では……私が邑長になってもよいのでしょうか?」
「うん。ふさわしい人になれたら、もちろんいいと思うよ」
あまりにもあっさりとした返事だった。姫は嬉しさを覚える一方で、どうしても確かめておきたいことがあった。
「父上は……女の私でも構わないのですか?」
「男女には身体の違いがあるし、暮らしの中で担う役目にも違いはあるよ。でも、それと邑長になれるかどうかは別の話でしょう?」
那岐は不思議そうに首を傾げた。
「そもそも、女は邑長になってはいけないなんて、誰が決めたのかな? 山門にそんな決まりはないよ。ただ、これまでの暮らしや役割分担の中で、男が長を務めることが当たり前になっていただけなんじゃないかな」
「ですが、村長たちは女が政治に関わることを快く思っていませんわ」
「そうだね。今まで続いてきた習わしを変えるのは簡単じゃない。それに、これだけ大きくなった山門壱国を治めるには、昔の小さな村とは違う知識や仕組みも必要になる。以前にも話したけれど、国が大きくなれば、それに合わせて役目を分けたり、考え方を変えたりしなければならないんだよ」
そこで那岐は、姫に柔らかな笑みを向けた。
「だから、姫が女の子だから駄目だとは思わないよ。ただ、私の娘だからという理由だけで長になれるわけでもない。みんなが安心して任せられる人になれるかどうか、それが大事なんじゃないかな」
姫は胸の奥が温かくなるのを感じた。
父は、娘だからといって無条件に後を継がせようとはしていない。
けれど、女だからという理由で、その道を閉ざそうともしなかった。
自分がどれほど恵まれた環境にいるのか、姫にはよくわかっていた。
もし父がほかの村長たちと同じ考えであったなら、どれほど学び、努力を重ねても、最初から後継者になる道などなかったかもしれない。
もちろん、父が認めてくれたからといって、すべてが解決するわけではない。
村長たちを納得させるだけの知識を身につけ、経験を積み、実際に国を治める力があることを示さなければならない。
女であることによる不利も、長く続いてきた習わしも、簡単には覆せないだろう。
それでも、目指すことさえ許されないのと、努力次第で手が届くかもしれないのとでは、まるで違う。
男女の違いや現実の難しさを理解しながら、それだけで人の可能性を決めつけない父のもとなら、ひょっとしたら自分にも道を切り開けるかもしれない。
姫は背筋を伸ばし、父をまっすぐに見つめた。
「私、頑張りますわ!」
「うん。楽しみにしているよ」
那岐はいつもの優しい笑顔で頷いた。
その年の秋、山門邑で行われる収穫祭では、那岐と姫の二人が巫女舞を奉納することになっていた。
祭りが近づいたある日、稽古を終えた姫が、思い切った様子で父に話しかけた。
「父上、今度の巫女舞では、少しだけ妖術を使わせてください」
「皆の前で妖術を披露するのかい?」
「妖術ではありません。神の威光です」
那岐は娘の言葉を聞いて、しばらく考え込んだ。
「……なるほど。巫女舞だけでなく、そこに神秘性まで加えようというんだね」
「はい。ほんの少しでいいんです」
那岐はすぐには返事をしなかった。
もともと那岐にとって巫女舞とは、日々の暮らしを営む人々のために覚え、五穀豊穣や平穏を願って奉納してきたものだった。
長い年月をかけて受け継いできた舞を、娘は政治の場へ進むための手段として利用しようとしている。そのことに、那岐は少なからず抵抗を感じていた。
しかし、娘がどれほど真剣であるかも、誰よりよく知っていた。
姫は政治を学ぶ傍ら、厳しい妖気の制御にも取り組み、慣れない巫女舞も懸命に稽古して、ようやく父と並んで舞えるところまで上達したのである。
人々の暮らしが穏やかであれば、それ以上の権力など必要ないと考えてきた自分とは違い、娘は国の仕組みそのものを変えようとしている。
巫女舞さえそのために役立てようとする姿勢には戸惑いもあったが、そこまでして道を切り開こうとする姫の決意を、頭ごなしに否定する気にはなれなかった。
「姫、神の言葉だと言われたら、人は簡単には逆らえなくなるんだよ。それは人を助ける力にもなるけれど、使い方を間違えれば、人を苦しめる力にもなる。そこだけは忘れないでね」
「……はい、父上。肝に銘じます」
姫は真剣な表情で頷いた。
那岐はしばらく娘を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。これから姫が何を目指し、どこまで進もうとしているのかは、まだわからない。
それでも、自分とは異なる道を選んだ娘の行く末を、見届けてみようと思った。
「それで、私は何をすればいいんだい? 妖気の制御は教えたけれど、舞の中でどう使うかまでは考えていなかったよ」
姫は待っていましたとばかりに顔を輝かせ、父のそばへ歩み寄った。
「でしたら、ぜひお願いしたいことがございます」
やがて、秋の実りを神々に捧げる奉納舞が始まった。
祭壇の前に設けられた舞台へ、白い巫女装束をまとった二人が静かに姿を現した。
長い黒髪を背に流した那岐と、その隣に並ぶ十三歳の姫。
今年は親子が揃って奉納舞を披露するという噂が山門壱国の各地に広まり、祭りには例年を上回る人々が集まっていた。
二人が舞台の中央で向かい合い、ゆっくりと一礼する。
やがて木鈴を持つ右手が重なり合うように持ち上げられ、澄んだ音色が秋の空気に響き渡った。
しゃらーん。
その音を合図に、二人の舞が始まった。
足の裏を床から離さず、滑るような摺り足で進みながら、緩やかな円を描いていく。
袖がふわりと広がり、白い衣の裾が舞台を撫でるように揺れた。
那岐の所作には、長い年月をかけて磨き上げられた無駄のない美しさがあった。
指先の動きから足の運びに至るまで自然で、まるで風そのものが人の姿を借りて舞っているかのようだった。
その隣で、姫も懸命に舞っていた。
父の動きに遅れまいと呼吸を合わせ、幾度も稽古を重ねた所作を一つずつ丁寧に繰り返していく。
まだ父ほどの余裕はなかったが、真剣な眼差しと凛とした立ち姿には、見る者の心を引きつける気品が宿っていた。
しゃらーん。
再び二つの木鈴が重なり、清らかな音色を奏でた。
二人は円を描くようにすれ違い、やがて同じ方向へ向き直る。
右手の木鈴を高く掲げ、左手に携えた笹の枝をゆっくりと差し出すと、細長い葉が秋風を受けてさらさらと震えた。
天へ伸ばされた手は神々への祈りを、静かに大地へ向けられる笹の枝は豊かな実りへの感謝を表しているかのようだった。
舞台を囲む人々は、いつしか言葉を失っていた。
そのとき、二人の足元に淡い光が灯った。
最初は小さな蛍のような光が一つ、また一つと浮かび上がり、やがて数え切れないほどの光の粒が舞台の周囲を漂い始めた。
「……あれは?」
誰かが思わず声を漏らした。
光は風に吹かれて散ることもなく、まるで意思を持つかのように二人の巫女を取り囲んでいく。
淡い金色や青白い輝きがゆっくりと宙を巡り、白い装束を柔らかく照らし出した。
しゃらーん。
木鈴の音が響くたび、光の粒は呼応するように揺れ動いた。
那岐が袖を翻せば、その後を追うように光が流れ、姫が笹の枝を天へ掲げれば、幾筋もの輝きが枝先から空へ昇っていく。
それは夜空から星々が舞い降り、二人の巫女とともに踊っているかのような光景だった。
やがて舞台を包む光は少しずつ数を増し、親子の周囲を大きな輪となって巡り始めた。
那岐の長い黒髪が風になびき、その隣では姫の白い袖が光を受けて輝いている。
どちらか一方が導くのではなく、二人の動きが重なるたびに、光の輪もまた形を変えていった。
集まった人々の間から驚きの声が広がったものの、誰もが息を呑んで舞台を見つめ、やがてそのざわめきさえ静まっていった。
しゃらーん。
最後の木鈴が、澄み渡る秋空へと響いた。二人はゆっくりと足を止め、笹の枝を胸元へ引き寄せると、神前に向かって深く頭を下げた。
それに合わせるように、周囲を漂っていた光が静かに舞い上がっていく。
無数の輝きは空へと吸い込まれ、やがて一つ、また一つと消えていった。
舞台には、秋の日差しを浴びた二人の巫女だけが残された。
しばしの静寂の後、我に返った人々から歓声が湧き起こり、その声は境内の隅々まで広がっていった。
普段の那岐であれば、奉納舞を終えると一礼してそのまま舞台を下りるところだった。
しかし、今年は違った。
那岐は娘と並んだまま、集まった人々の方へ静かに向き直った。
「今宵、収穫への感謝の舞に集まってくれたこと、心より感謝する。今年も豊かな実りに恵まれたことを、皆とともに神々へ感謝しよう」
那岐はそこで一度言葉を切ると、隣に立つ娘へと視線を向けた。
「そして今宵、この山門の地に、新たな神の使いが現れた。私の娘、日の巫女である」
参列者たちの間に、驚きの声が広がった。
那岐はそのざわめきが静まるのを待ち、改めて声を響かせた。
「この場で皆に宣言する。今より、娘は日巫女と名乗り、神前に仕える者となる。山門に生きる人々の願いを神々へ届け、神より授かった言葉を皆に伝える。その務めを担う、神の使いである」
宣言が終わると、参列者たちから歓声が湧き上がった。
神の使いが、この山門の地に降臨したのだ。
人々は喜びに満ちた表情で、新たな巫女を仰ぎ見た。
これからは日巫女が自分たちの暮らしを明るく照らし、神々の言葉を届けてくれる。誰もがそのような期待を胸に抱いていた。
こうして姫は、この日を境に日巫女となった。
その間、日巫女は一言も発することなく、ただ静かに民衆を見渡していた。
舞の名残の光に包まれながら、背筋を伸ばし、堂々と立つ十三歳の少女。
その姿は、集まった人々の目に、まさしく神の使いとして映っていた。




