最悪の未来の自分の姿
それは一つ間違えば起こり得る
劣化α。
抑制剤のオーバードーズ及び副作用のせいで、本来の能力を劇的に失ったα。
番の消失、上手く番との絆を結べずに能力値に異常をきたした者も、この区分に入る。
瞬間的な能力値は本来のものと変わらないことがあるので、接触は要注意。
秋露が詳しく教えてくれた説明を思い出す。
今までの人生の中でも、幾人も、この区分に当てはまる者たちを見てきた。
それはそれは一筋縄ではいかない、……悲壮なものだった。
「そのうち気づかれると思った。……君がもしも『私のこと』と望んだら、それを告げて終わりにするつもりだったよ」
ふふっと声に出して、秋露は笑った。
なにを『終わりにするつもり』だったのか、聞きたいと思えない。
秋露は俺が渡した血中抑制剤濃度測定器の数値を、カルテに書き込んでいく。
「なにが、確信になったきっかけだい?」
顔も上げずに、問いかけてくる。
そういうところはなにも変わらない、いつもの秋露だった。
「……違和感は、ずっと、いろんなところにあった。確かな疑問として感じたのは、あんたがみつきの血を盗んでいた看護師に気づかなかったこと、その後からだ」
あのみつきの血を盗んでいた看護師は、常習犯だった。
それも、秋露とタイミング的にすれ違うというギリギリのやり取りを何度も繰り返していたようでありながら、どこか余裕があった。
そして初めて、俺たちという今までに居たことのない余計な部外者が同行していて、盗人の看護師はわずかに緊張で身を強張らせた。
みつきの血の匂いに運命の番である俺が顕著に反応を示すのは当たり前だろう。
検査なんかで使うと思われる量以上の血の匂いがしたら、心配して当たり前。
俺でなくとも、カミユでも気付いただろう。
それほど、αはΩの匂いに、フェロモンに敏感に反応する。
常日頃から、採血や検査でフェロモンと同様の香りを放つみつきの血に触れているならなおさら、その量の増減など見抜くのは容易いはずだ。
だが、秋露はそれを見逃していた。
仕事仲間である看護師を信用しての盲信と油断から起こったことだと言えなくもないが、あれほどみつきのことを大事にしている秋露が、そんなミスをするのかと疑問に思ったとき、違和感は、あとは本人からの答えを聞くだけの確信に変わっていた。
「……ああ」
俺の答えに納得したのだろう。秋露はペンを置いて、あからさまに眉間にしわを寄せて苦い顔をして見せた。
「確かに、あれは決定的な証拠だ。自分が不甲斐ないよ。みつきに申し訳なくてたまらない。本当、いい加減、……私など死ねばいいのにと思うほど」
さらりと、自虐など甘い感情を通り越した、本気の失望と死への願望が、秋露の口から出てくる。
その言葉でも、また確信した。
初めて会ったときから、彼はずっと番がいる口ぶりだった。自己紹介をしてくれたときも、みつきの養親だと言ったときも。
それなのに、肝心なその人は居ない。
秋露だけでなくみつきですら、会える素振りも、会いに行った素振りもないのはおかしすぎた。
「秋露センセイ、……やはり、あんたは、番を」
俺が言いたいことを理解して、秋露は目を細める。
「……そうだね。私は、……私の運命の番と死別している」
血の気が引いて、体温が下がって、部屋の温度まで下がったような、そんな身を苛む凍えを味わった。
運命の番との死別。
その末に、独り生きているα。
どれだけの孤独と、どれだけの苦しみと、どれだけの哀しみだろうか。
きっと言い表せはしない。
一つ間違えれば、今の秋露は、起こり得る未来の俺自身の姿だ。
もしも運命の番のΩを亡くしてしまったら、という最悪の未来のα。
秋露は、それだった。
「本来、私にとってみつきは血の繋がらない姪に当たる。本来のみつきの養親は、私の妻だった『みや』。『みや』の兄に当たるαΩの夫婦の子がみつきだ。みつきの両親は、みつきが産まれてすぐ、一世代前の『表の世界』の狂った思想のために亡くなった」
淡々と語っていく。そこに抑揚はない。
だけど、燃えるような怒りが、滾るような憎しみが、秋露の眼鏡の向こうの瞳には映っていた。
秋露は今、「表の世界」とわざわざ言った。
それは必然的に、「裏の世界」があると知っているからこその言葉。
俺がもともといた場所、「裏の世界」。
秋露はそこを、知っていると言ったも同然だった。
静かに、視線を交えた。
「みつきと、私の妻のみやの家系は、代々優秀なαとΩを生み出す由緒正しい家だった。私の実家は彼女たちの家と古くから懇意な医者の家系だった。例に漏れず、私も医者の道を選んだ」
秋露の目は、ただ静かだ。
話し始めた内容に、みつきのことばかりではなく、どうしても秋露のことも色濃く関わっている。
これすら、俺が「秋露のこと」を選んでいたら、語らないつもりだったのだろう。
「みつきの両親が亡くなったとき、同じだけ危険な目に遭っていたみやと共に逃げることを選んだ。世の中は混乱の時代の末期だった。実家は捨てた。医者と、みやのための研究を続けて、知識だけは増えていった。養子として引き取ったみつきが、将来、αまたはΩとして第二の性の診断を受けることは分かっていた。そういう家系だからね」
ゆっくりと逆算する。
みつきはもうすぐ、十八。
Ωの存在の重要性に表の世界が気づいて、Ωに対する法律が大きく見直され、世の中が大きく変わったのがおおよそ十年前から。
「……、……ちょっと待て。秋露センセイ、あんた、いくつだ?!」
改めて年齢を聞いた。
秋露の見た目は、俺より少し上くらいだろうと初めて会ったときから思っていたし、今もそうだと思っている。
だけど、それだと計算が合わない。
この国で医者の免許が取れるのは何歳だ?
最短で取得したとしても、そこからみつきの年齢を足して?
……やっぱり、思っている年齢に収まらない。
「四捨五入で五十になるが?」
「ぐふ…っ?!」
予想の斜め上だった。
俺の親だったとしても、ちょっと若めだが、不思議ではない年齢だ。
当時の秋露の年齢を考えれば妥当といえば妥当で、幼い子供を引き取るにしても収入などで余裕のある年齢だろう。
ただ、秋露の見た目が釣り合ってなさすぎて混乱した。
この国の人間は、見た目では年齢不詳だ。
「すまん、続けてくれ」
話の腰を折ってしまったことに謝罪して、身を正した。
秋露は優しい苦笑いを浮かべて、話に戻ってくれた。
「少し長い話になるからね。本当は酒でも飲みながら話したい内容だったよ」
酒の代わりに抑制剤の処方調整中だなんて、なんとも味気ないものだ、と二人でにやりと笑う。
「ああ……、どこから話そうか。ヴァルティくんには詳しく話す日が来ると思っていたが、いざそうなると、上手くいかないものだね」
秋露は眼鏡を外してキーボードの横に置くと、指先で何度かこめかみを撫でた。
明確に、色濃く、秋露の顔に疲労が滲む。
全世界のほとんどのαが感じているだろう、Ωの気配欠乏のための、逃れられない疲労。
秋露がどれだけみつきのそばにいようと、彼女の温かな心のこもった食事を食べようと、回復はしない。
ひととき、ほんの少しマシにはなるだろうが、満たされない焦燥を、その度に思い知るだろう。
生涯ただ一人の番を、失っていることを。
死すら容易く望みたくなる、己のΩへの永遠の愛と渇望を。
それでも、彼は生きている。
本心で終わりを望みながら、今も。
「そうだな……、私とみつきは、……君の本当の名前を知っている」
俺が目を見開いたのを、秋露は静かに見つめていた。
ヴァルティ
秋露




