憐れな者の求めるもの
寄る辺となりうるただ一つ
俺の体躯に遮られて、男からは完全にみつきの姿は見えなくなった。
また逆に、みつきからも男の不躾な顔も眼差しも見えはしない。
そうしてみつきが見えなくなったことにこそ男は激しく憤慨し、乱れていた髪をさらに掻きむしるようにして苛立ちを露わにした。
「くそくそっ、警察ってなんだ!! 僕は僕のΩを取りに来ただけだ!! 邪魔しやがって、邪魔しやがって!!」
男の動向が、抑制剤の不適合や、精神の不安定さ、Ωに対する執着と欠乏症から来ている現象だなんて、医者でなくても一目で判断がつく。
早急に隔離と医療機関下での監視が求められる状態。
社会的にお咎めを受ける事態を引き起こす前にそれが叶えば良かったのだろうが、可哀想に、彼は手遅れだ。
もう、許されない一線を、彼自身のプライドと盲信で踏み越えてしまっている。
あとは警備員が来て、警察に引き渡せば事態は収束する。
「お前もなんとか言え!! 番になる僕が警察に捕まりでもしたら、困るのはお前だろ?!」
苛立った男が叫びながら、こちらに来ようとしたうるさい足音が数歩、廊下にこだました。
ヒッ、とみつきが息を詰めた音がした。
近づかれた分だけ、男と距離を取る。
後ろ手にみつきを俺の背に張り付かせるように庇って、一歩、大きく後ろへ。
背中に引っ付いたみつきが驚き、そして、ギュッと俺の背中のシャツを強く握りしめて縋り付いた。
なにを言わなくても、なにをしなくても、あと数分以内にこいつは目の前から消えて、多分生涯二度とお目にかかることはなくなるんだけど。
俺の背後から出ないようにと触れているみつきの身体が、小刻みに震えている。
さっきから何度も、叫び出したいような瞬間があっても、みつきはそれをすべて飲み込み、押し込めている。
通常、加減を全くしないαの威圧や敵意は、βであっても身動きが取れなくなるほどの恐怖を受けるものだ。
それは捕食者と被捕食者が対峙したときの緊張感に似ている。
α同士でも、ほどほどに影響は受ける。
ならば、もっと力関係の明確なαとΩ間ではどれほどの影響が出るか。
そして。
「なんとか言え!! 被害者面しやがって!! お前が大人しく僕のところに来て、なにもされていないと証言すれば事は丸く収まるんだ!! 番の僕を助けるのが当たり前だろぉっ?!」
さっきから吐き出されるこいつの妄言に最後まで付き合ってやれるほど、俺は大人しい性格をしていない。
「誰が誰の番だぁ? 現実を見ろよ、この『ピー(自動的に伏字に変換されました)』野郎」
口に出してから、しまったと思った。
そこだけ自分の国の言葉になってしまっていたから、どうやらみつきは俺がなにを言ったかイマイチ理解はしていないようだった。
だけど、みつきに持たせた携帯はカミユと繋がったままのはず。
常日頃から汚い言葉は使うなと注意している自分のほうが、耐えられずに口に出すとか。
電話の向こうでカミユが小さく「ぐはっ」と吹き出して笑った声が聞こえた。
言い逃れもできそうになくて、苦笑い。
男は呆気に取られた様子だったが、すぐにその表情を怒りに満ちたものに変えた。
どうやらどんな意味の暴言だったかも理解しているようだ。
無駄に学が高いじゃないか。さすがα。
「そもそも関係のないお前がしゃしゃり出て来るからだ!! 僕とそのΩの話だ!! 引っ込んで……」
「引っ込むかよ。人の番を捕まえて、自分のものだと宣う盗っ人の相手をしてやってる親切をありがたく思え」
イラッとした気持ちを笑顔に変えて、男に見せつける。
「は……? お前の番?! ……お前こそが盗っ人だろうが!! Ωと番うなら、より相性がいい相手が選ばれて当然だ。そのΩが作った菓子にこれほど反応を示した、僕こそがそのΩの番にふさわしいに決まってるじゃないか!!」
真っ当だけど、決め手に欠けまくる理論をさも重要とばかりに述べてくれるもんだ。
思わず眉間にしわを寄せてため息を吐いた俺に、男はもっと苛立ちを募らせる。
「俺らはαなんだから、Ωが心を込めて作ったものに対して反応して当たり前だろう? それによって正気を失ってこんな行動を起こしている? あんた、抑制剤を大きく見直したほうがいいんじゃないか?」
淡々と突っ込みをいれると、男はピタリと動きを止めた。
まさか、ここに来るまでに、みつきが同じ言葉を男にかけていたなんて知らなかった。
それでもどうやら、みつきの言葉は男にはまったく届いていなかったようだ。
だけど、俺の言葉は。
俺にまで同じような言葉をかけられ、同じαの目線から指摘され、初めて、男の脳に届いたようだった。
男はゆっくりと頭を抱えて、またバリバリと髪が乱れるほど頭を掻きだした。
「……違う、違うっ!! 優秀な僕が、αの僕が、こんな……!! くそくそっ、どうしてこんなに辛いんだよ……っ!!」
男の目に涙まで滲む。
鼻血で汚れ、歪んだ顔は、あまりにも悲壮で、そして身勝手で醜悪だった。
「辛いのはあんただけじゃなくて、世界中の大体のαが苦しんでいる。それにαが優秀なのは『優秀なだけ』だぜ? 大して褒められたことじゃない」
「そんなわけがないだろ…っ?! 僕たちαは種の上位者で、こんなに苦しんでいていいわけがないんだ。こんなものまやかしだ!! あり得ない!! ……あのクッキーを食べたときだけ、辛くなくなったんだ!! だから……っ」
泣き濡れた顔を上げ、男は必死の形相で探した。
本能が求めるものを。
俺の背に庇われた、自分のものだと主張したいΩを。
「その苦しみから救ってくれるものがΩだと知っていて、分かっていて、あんたは一体彼女にどんな仕打ちをしようとした?」
語りかけた声に、男はビクリと身を震わせた。
この期に及んで、ようやくして、彼本来の正常な理性が戻ってきたのかもしれない。
男が手を伸ばす。
寄る辺を探して頼りなく空を搔く。
ただ一つの救い。
ただ一つの。
ただ一人の。
それはあまりにも、憐れな者の悲痛な求め。
「……それをこの子に望むのは、許さないけどな」
背中のみつきをそっと離して、たった一歩、男に向かって踏み込んだ。
パシンッ。
軽く握った拳の指先が男の顎を打つ軽快な音。
そしてまた一歩戻って、みつきを背に庇い直す。
小さな手が、また俺の背のシャツをギュッと掴んだ。
呆然としていた男の目がぐるんと上向きに回転して、彼はそのままその場に崩れ落ちた。
みつきに向かって、手を伸ばしたまま。
男が倒れて見通しの良くなった廊下の向こうから警備員たちが全速力で駆けてくる姿が見えた。
ふう、と小さく息を吐く。
背中にずっとしがみついているみつきの震えを、まだ感じながら。
『ピー』(さすがに書けません)
ヴァルティ
みつき
身なりのよかったαの男性




