ヒーローなんて演ったことない
視点帰還・ヴァルティ
どんな緊迫状況でも一瞬は止まる
なぜ浮いているのか、疑問に思ったのはみつきだけではなかった。
「なんだ?! なんなんだ!!」
自分の足が床についていないのに、不動のまま空にとどまっていることに、男はすぐに異常事態だと察して手足をバタつかせた。
別に魔法を使ったわけでもない。
特殊能力なんてものを俺は持っていない。
みつきに飛びかかろうとしたこの男の首の後ろと、上等なスーツのパンツのベルト位置を「掴んで持った」。それだけだ。
暴れ始めた男の身体越しに、怯えきったみつきが、それでもこの状況を理解しようと必死で震えを押し込めて見てくる。
間一髪、間に合ったことを理解して、ほっと息を吐き出した。
「離せっ、離せ!! お前っ、なんなんだ?!」
男が激しく身を捩って、どうにか真後ろにいる俺の姿を視界に捉えようともがく。
「『なんなんだ』はこっちのセリフなんだが?」
俺が浮かべた苦笑いと冷笑が混じったものを、果たして男はその目に捉えることはできただろうか。
ベチィンッ!!!!
平べったいものを床に叩きつけた、軽やかでなおかつ痛々しい音が、派手にこの廊下一帯に響き渡った。
「……っ?!! ……っ?!!!」
床に叩きつけられ、伏した男が声も出せずに痛みに身悶えした空気だけが感じられた。
綺麗に磨かれてゴミ一つ落ちていない床に頭から落とすような致命傷を避けてやった分は、感謝してほしいもんだ。
手を離した瞬間から、ようやく得た自由で、痛みにあえぐ男は床をのたうち回り始めた。
そんな男を跨いで飛び越えて、唖然とした様子のみつきへと歩み寄った。
「無事か? なにかされていないか?」
声をかけても、みつきは大きく目を見開いたまま、驚きの表情のまま、俺を見上げるだけ。
あー、まあ、そうかもしれない。
一応、それなりの体格の成人男性が、目の前から弧を描いて移動して、反対側の床に綺麗に大の字で叩きつけられるような空中遊泳を見たら、普通の人はこんなリアクションを取るのかもしれないな、とみつきの反応を見て納得する。
みつきの胸に、ぎゅうぎゅうと抱きしめるようにして持たれたポーチと紙のなにか。それを握っている手が真っ白だ。
驚きで満たされたみつきの顔も、ほとんど蒼白。目元には涙も浮いている。
さっさとこんな状況から連れ出してやらないと、あまりにもかわいそうだ。
後ろで、ようやく痛みが引いてきたらしい男がヨロヨロと立ち上がる気配を感じて、みつきを背に庇い、軽く身構えた。
身体を揺らしながらも立ち上がった男は、鼻から血を垂れ流しながら俺を睨みつけてくる。
彼のαとしての肉体は伊達じゃないようだ。
もとからそこそこ身体を鍛えたりもしていたのかもしれない。
男は乱暴に鼻血を上等なスーツの袖で拭うと、αとして、遠慮も見せない敵意を放ってきた。
完全に俺を敵と見なした、無遠慮な威圧。
背後のみつきがギュッと身をこわばらせ、上げそうになる悲鳴を飲み込んだのが分かった。
俺は真っ直ぐに男を見据え、小さくため息を吐く。
「おいおい、ちゃんと自分をコントロールしろよ。曲がりなりともαだろ? 番にするだとかどうこう、大それた妄言を吐いていたのを聞いてくれた親切で可愛いΩが同じ空間にいるのに、怯えさせるばかりでどうする?」
「黙れっ!! ヒーロー気取りめぇっ!!」
鼻血のせいでぬめった滑舌で、男は叫んだ。
たいそうな物言いだ。
「ヒーロー……、気取ったつもりもないし、ヒーロー自体、演ったことはないなぁ」
思わず、くっと喉を鳴らして笑うと、男はさらに頭に血をのぼらせて拳まで握った。
今にもまた飛びかかって来そうな剣幕に、ほんの少し目を細めて男を見据える。
俺の飄々とした態度に、このとき男は初めて怯んだ。
もしかしたら、対峙する俺からなにかを感じ取って、一瞬冷静さを取り戻したのかもしれない。
ただし残念なことに、それは本当に一瞬だけのようだった。
「……お前の顔、どこかで見た気がするぞ」
そして、憎々しげに尋ねてくる。
無遠慮に、指まで指してくる始末。
一応、世界規模で配給上映された映画に何本か出ているんだが、所詮俺の知名度なんてそんなものだと鼻を鳴らす。
もし、カミユが聞いていたら「そんなわけあるか」と怒ってしまうような自己認識だけど。
まあ、それはともかくとして。
「俺のほうはあんたの顔なんて知らないから、とくに思い出してくれなくていいぜ?」
軽く手を振って拒否すると、男は舌打ちを返しながら上から目線の言葉を続けた。
「俺を誰だと思っている? いや、知らなくてもいいが、お前なんかよりも社会的にも、地位的にも遥か上にいることだけは確かだ!! さっさとそこを退いて、そのΩこっちに……」
そのとき、男の言葉を遮るように俺のジーンズの後ろポケットから、携帯がデフォルト音で着信を知らせてきた。
どんな緊迫した状況でも携帯が着信音を響かせれば思わず黙ってしまうのは、どこの国の人間も同じなようだ。
ましてや社会的にも、地位的にも立場を持っているらしいこの男は、面白いほど顕著にそれを行動に表してしまっていた。
笑いだしてしまいそうになるのを必死で堪えて、ポケットから携帯を取り出す。
画面を一瞥し、通話を押して、そのまま後ろ手にみつきに携帯を渡した。
「え?」
咄嗟に携帯を受け取ったみつきが戸惑った声を上げる。
俺は男と対峙しているので、さすがに通話までは遠慮しておこうと思って。
「なんで一撃で意識刈り取らないのさ?!」
みつきが携帯を耳に当てなくても、そもそもスピーカーにしなくても、元気に不満を叫ぶ息子の声が携帯の向こうから聞こえてきた。
「カミユくん?」
通話相手を確かめるように名前を呼び、そして、ようやくみつきはスピーカーの操作ボタンを押した。
「みつきサン、無事だね? 大丈夫、その位置、もうしっかり監視カメラに映ってるよ」
スピーカーにしたことで、さっきよりもクリアにカミユの声が聞こえた。
みつきが携帯を大事に持ったまま、廊下の天井を振りあおぐ。
どうやらみつきも気づいていない、意図しなかった場所に監視カメラがちゃんとあったようだ。
「警備員さんたちがそっちに向かった。秋露センセイにも、警察にも連絡した。一部始終録画済みだよ」
その言葉を聞いて、一瞬だけみつきの気が安堵で緩み、そしてまた張り詰めたのを感じた。
男が、警察という言葉に反応して、あからさまなほど怒りの気配を溢れ出したからだ。
男が憎悪さえこもった目でみつきを見ようとするから、その視線上に身を滑り込ませた。
ヴァルティ
みつき
身なりのいいαの男性
電話越しのカミユ




