みつきの午後
視点変換・みつき
仕事に行くヴァルティさんと別れて、エレベーターに乗り込んだ。
うん、お見送りをした、なんて言葉は合わない。
どうしてもしょんぼりとしながら、手の中の十ドル札を見る。
『計算して、お釣り、返さなきゃ……』
考えるのは真っ当な正しいこと。
だけど、見つめている私の手の中の十ドル札は、もうとっくに別の意味を持っていた。
彼のお財布に入っていて、ずっとポケットに入れられていたお札。
ブルブルしてしまう。
ウズウズしてしまう。
『保存用の小さいジップロックは、まだ引き出しにあったはず』
また一つ、彼にもらったものが増えた。
昨日もらったシャツは、残念なことに入る大きさの保存袋がなかったため、大事に畳んで、ウォークインクローゼットの奥に仕舞った。
早く保存袋を買わないと。
そんなことを考えているうちに、エレベーターは上層階へ行くための途中中継階に到着する。
一階から私の住む家に当たる最上階付近まで直通で行くエレベーターは、たった二基だ。
中途半端な階層まで昇るエレベーターはあちこちにあるけれど。
静かな廊下を行く。
今はまだお昼時で、研究スタッフたちは大体がお昼休み。ほとんどの人は食堂や、外へ食べに出かけたりしているんだろう。
秋露おじさんみたいに、デリバリーを頼む人も少なくない。
そうだ。買ってもらったハンバーガーのセットを受け取りに行かなくちゃ。
必死に違うことを考えようとしていた。
だけど、それが無駄な努力だっていうことは分かっていた。
歩調がどんどん落ちる。
トボトボと、肩を落として歩くしかない。
ヴァルティさんの短くなった髪を見ては落胆していた姿を、まさかしっかり見られていたなんて。
たくさん、嫌な気にさせてしまったに違いない。
帰ってこられたらもっとちゃんと謝って、もっとちゃんと短い髪型もかっこいいと伝えるべき?
あんなに大人な人が、何千何万という賞賛を浴びている人が、私ごときが褒めてなにが変わるというわけでもないだろうけれど、嘘を言っているわけじゃないことを伝えるのは大事だと思う。
『長い髪も似合っていたけど、短い髪もすごく……』
彼のたくましい首や、耳の形なんかがよく見えて、正直目のやり場に困るくらいにはかっこいい。
長い前髪の隙間から覗く青い瞳もたまらなく素敵だったが、彼自身、鬱陶しそうだったヴェールがなくなって、嬉しそうにさっぱりと笑う、あの真っ直ぐさは凶器だ。
思い出した笑顔に脳内が蕩けかけて、慌てて我に返る。
こっそりチェックしたヴァルティ・ノーススターのSNSについたコメント。
ファンの熱量の凄さ。褒め讃える言葉の嵐。
その中でも長い髪が良かったと言う声はあるけれど、その上で短い髪も絶賛してくる。ファンたちの文章の楽しさに、これ以上見ていたら一日中携帯画面を見つめることになりそうだと思ってやめた。
あの人が、私の番?
まさか、なんて頭では思うけれど、この身体が、血が、本能が、全肯定で叫ぶ。
……今はその叫びを、今まで飲んできた抑制剤の強すぎる効果の名残りで、抑え込めているけれど。
彼の髪が短くなったことに落胆し続けていることが、抑えきれていない、溢れ出しそうになっている片鱗だ。
自分でも、怖いと思う。
気持ち悪いと思う。
『……だって、だって『切った髪が欲しかった』なんて知られたら、絶対ドン引きされちゃう……!!』
青ざめて、両手で顔を覆った。
Ωには、抗い難い習性がある。
自己の脆弱な精神を保つために、番の匂いが染み付いた物体を集めてしまう。
「巣作り」と言われる行動だ。
どれだけ番との関係が良好でも、また不良でも、行ってしまうという、Ω以外から見たら狂気としか思えない行動。
運命の番の存在を知ってΩとして発現した私が持っていた彼の存在を感じられるものは昔からたった一つしかなくて、それ以上なんて求めることもなかった。
だから、楽観していた。
「巣作り」なんて行動の衝動は自分には関係ないと。
本当に楽観だった。
顕著だったのは、一日目の朝。
彼がワークアウトから戻ってきて、汗だくのシャツ姿で現れたときだ。
『ふぎゃああああああっ?!』
叫びが声にもならなかった。
カミユくんがそんなヴァルティさんとずっと喋ってくれていたから良かったけど、あのときの私の内心は全身の毛を逆立てた猫となんら変わらなかった。
混乱する思考とバックバクの心臓を、カミユくんと話すことでどうにか騙し、食事を作るという慣れた行動で平静を保ち、どうにか洗濯の提案まですることができたという快挙。
ちなみに、洗濯機に入っていたヴァルティさんのシャツを、……奪って部屋へ持って帰るかと、洗濯機を覗き込んで真剣に悩んだ。
そんな自分の凶行に、やっぱり自分で恐怖した。
結局、泣く泣く洗濯機を回した。
洗い上がった洗濯物を見て、床に突っ伏して落胆する日が来るなんて思いもしなかった。
そして、お出かけから帰ってこられたら、あの短い髪型。
彼のかっこよさを褒め讃えながら、考えたのは、切った髪の行方だった。
普通、捨てる。
当たり前。
理髪店や美容院で切ったら、普通、お店が捨てる。
衛生管理上、当たり前。
衝動的に長年懇意にしている理髪店のシンさんに電話をかけて、ヴァルティさんの髪を捨てたか確認をしてしまうほど。
私とは違う。
たとえ、番のαでもΩの衝動や感情を正しく理解などできない。
『髪を切るなんて自由だ』
きっぱりと言い切ったヴァルティさんの言葉が、自分の中に響いている。
その自由は、……私も、選んでいい自由なのだろうか?
『……迷ったときは、秋露おじさんに相談してから』
私の行動が、きちんと利益に繋がるように。
「あ、見つけた!! みつきサン!!」
元気なカミユくんの声が聞こえた。
その手には、あのバーガー店の紙袋。
なんとなくカミユくんの行動を察して、笑顔がこぼれた。
私をΩと知っていながら、微塵も求めてこないαであるカミユくんの存在は狭まった視野を広げてくれた。
それによって薄れてしまう警戒心は、身を滅ぼすのかも知れないけれど。
それが、決して悪いことだなんて思えない。
『もし危険が迫ったら? でも、私はもう独りじゃなくて』
胸の中に込み上げた、浅ましい期待。
『……助けて、くれるのかな? でも、……番だからって、そんなもので……。……考えないほうがいいのかもしれない』
バーガーの入った袋を掲げて駆けてくるカミユくんの笑顔を見ながら、私は、もう何度も繰り返し諦めた願いにまた、蓋をした。
みつき
カミユ




