仕事出発前のケンカは
やめておいたほうがいい
「それはまた遠慮か? それとも拒絶か? 言ってみろ」
パリッ……と、自分のまわりの空気に小さな雷が走るような威圧感がほとばしる。
そんな俺と対峙するしかなかったみつきの、一瞬にして凍りつき青ざめた表情を見て、しまった、と我に返った。
ある程度のαであれば感情の発露によってまわりを威圧することなど容易い。
だけどそれは「明確な敵」に向けるものであって、幼稚な怒りに任せて己より弱い者に向けていい感情じゃない。
ましてやΩになんて。
ましてや己の大事な番になんて。
だけど、上手く感情のコントロールが追いつかない。
この短い日々で溜まってしまった不満や焦燥が、まだまともに彼女のことを知れてもいない焦りが。
謝ろうと思って伸ばした手を見て、声にもならない短い悲鳴を飲み込んだみつきの態度にも。
いつもなら、手を下ろしていた。
触れずに堪えて、引いていた。
……でも、今はそれもできなかった。
みつきの頬に触れる。
触れた俺の手を、みつきは大きな目で見つめる。
触れた瞬間に怯えられるかと思っていた気持ちは杞憂に終わり、思っていた以上にすんなりと触れられることを受け入れたみつきの挙動のちぐはぐさには驚いた。
様々な感情が同時に思考を埋め尽くす。
耐えられずに触ってしまった自分の堪え性のなさ。
触れることを拒絶されなくて良かったと思ったこと。
遠慮なんてするなと何度も言って伝えたのに、俺に対しての態度の疑問。
俺になにも言わずに、なにかに耐えている、耐えさせている、そんな状況に追い込んでいること。
運命の番のαじゃなく違うαに心を許す意味。
そもそも、彼女が運命の番に寄り添ってくる傾向は一向に見られない。
お互い飲んでいる抑制剤のせい?
それとも運命の番の関係ってかなり強固なものだから、その余裕のうえで?
Ωのほうが番への依存度は高いって話は嘘か?!
依存ってどんなことだよ? みつきからそんな気配は感じられないけど?
真っ直ぐに視線が交わった。
初めて出会ったとき、彼女は俺と目が合っても視線を逸らしたりなんてしなかった。
そうして見つめ合うことに、不思議な安らぎさえ感じていたのに。
今は、困ったように目を泳がせて逸らしてしまう。
いつからこうなった?
……俺が、髪を切ったそのあとからだ。
「そんなに、俺が髪を短くしたのが気に入らないのか?」
ビクリと、今度こそみつきの身体が小さく震えたのを感じ取った。
同時に、後ろのポケットに入れていた携帯が着信を知らせてくる。
みつきから手を離さざるを得なくなり、ひどく苛立ちながら無造作に着信を拒否するためにオフボタンを一回押す。
それからまたポケットに突っ込み直した。
みつきを真っ直ぐに見る。
離れてできた少しの距離がやけに辛かった。
「似合ってるとか、かっこいいって言ってくれた言葉も嘘か?」
情けないくらいに寂しい声が出てしまった。
みつきは頭を大きく振って、必死に否定を示した。その激しい動きに、緩く束ねた三つ編みの黒髪も踊る。
みつきが否定してくれる気持ちは嘘じゃないのだろう。
でも、今までに見てきた彼女の行動が、素直に信じさせてくれない。
「気づいてないと思ってんのか? 夜も朝も、ずっとチラチラ俺を見ては残念そうにため息吐いてたの、分かってたぞ?」
「……っ、それは……」
みつきがなにか言いかける。
それを遮るように、また俺の後ろポケットで携帯が鳴った。
表情一つ変えずに、またオフボタンを押した。
ただし、間の悪さを感じ取ったみつきの口からは、さっき言いかけただろう言葉の続きはすぐに出てこない。
待っていようかと思ったけれど、待っていられるだけの時間がそれほどないことは、またすぐにでもかかってきそうな携帯の、耳にこびりついて残る電子音のせいで理解できる。
「あんた、やっぱり長い髪の男が好みだったのか?」
「そうじゃない、そんなんじゃない…っ」
思っていたよりもすぐに、きっぱりとみつきが答えてくれるものだから、逆に呆れが込み上げた。
否定するにしては、また俺の目も見ないで、逸らしていて。
いっそ、こだわりがあったと教えてくれたほうがずっと納得がいったのに。
「なら、なんだ? 髪を切るなんて自由だ。役作りも終わったんだから、好きにさせてくれ」
自分の気持ちを伝えているというよりも、まるでみつきを責め立てるような口調になっていた。
「なにか意見があったとして、どうせなら切る前に言ってくれ。切ってから言われてもどうしようもないだろ?!」
うつむいてしまったみつきが、小さくこくりとうなずく。
「……言う、つもりはないです。髪を切るのなんて、もちろん、ヴァルティさんの自由で……」
「その割に、俺を見て残念そうに落胆ばっかりされてちゃこっちは気になるって!!」
みつきが小さな身体を更に小さくして縮こまる。
ーーーーあ、これ以上はダメだ。
本当にダメだ。
「……ごめん、なさい。でも、本当にそういうつもりじゃな……」
携帯がまた着信を知らせて、謝罪を口にしたみつきの言葉の邪魔をした。
「うるせえ!!」
思わず吠えた。
反射的な反応だった。
ビクン、と飛び上がるほどみつきが驚いて跳ねた。
ハッとなる。
タイミング的に、みつきに怒鳴ったように聞こえたんじゃないか?
「違うっ!! 携帯がうるさいと思っただけで、みつきに言ったわけじゃない!!」
そう必死の言い訳を告げている間も、携帯はけたたましく着信音を響かせている。
みつきは何度もこくこくとうなずいた。
ただし、隠しようもなくその表情は暗い。
「……電話、どうぞ出てください。お仕事の電話じゃないんですか?」
分かっている。
迎えが到着したから、それを知らせる電話なんだ。
「本当にごめんなさい。髪をどうするかなんて、本人の自由だって、分かってます。……、……気をつけて、お仕事頑張って」
ペコリと、詫びなのか、挨拶なのか、この国の人がよくやるお辞儀をして、みつきは身をひるがえす。
「待っ…っ?! みつき…っ!!」
引き止めようと、彼女の手に伸ばした手が空を掻いた。
駆け去っていくみつきを追えない。
携帯はけたたましく鳴り続けていて、仕事で約束した時間は刻々と過ぎている。
半ば呆然と、遠く、エレベーターへ乗り込んでいったみつきの姿を見送った。
ヴァルティ
みつき




