出発前に会えた嬉しさもあって
引くに引けない、お互い強情
「みつき」
少し距離があったけれど、その名を呼んでいた。
そう大きくはない声で。
届くかどうかも分からないような声量で。
それでも、彼女は振り返った。
声の主がどこにいるのか、なんて探す動作はない。彼女の視線はすぐに俺を捉えた。
そこに一瞬の緊張が走る。
それを見逃せない。
そして、側にやってきた俺と、息を詰めるような覚悟を持って向かい合った。
「ヴァルティさん、どうされました?」
遠慮の見える笑顔は、緊張しているからなのだろうか。
俺を気遣ってうかがうような優しさは変わらないが。
「……あんたこそ、どうしてこんな場所にいるんだ? 秋露センセイが教えてくれた、あんたがいるだろう場所は、もっと病院のほうだった」
ここは病院と研究センターを繋ぐ中庭に面した、どちらかというと研究センター寄りの場所。
病院関係者も、外来で来た者も、外部から来たただの客も、中庭までは散策できるが、そこからこちらの研究センターの中へ入ることはできない。研究センターの建物は全部、生体認証が必要なドアに切り替わるからだ。
もちろん、みつきがそのドアを通れないわけじゃないのだから、おかしなことではないのかもしれないが、秋露の言っていた「みつきは今はお菓子販売の用意で病院の売店の周辺にいる」という言葉を信じて、昼食のバーガーセットを持って向かっていったカミユが多少不憫ではある。
みつきは携帯を取り出して時間を見てみて、少し考えてから答えた。
「……そう、ですね。普段ならもう少しの間、売店で用意を手伝っている時間です。でも今日は……。あと、いくつか売り物にできなくなった物も出てしまって、今日これから作る、明日の販売用の数を見直そうかと思って、戻るところなんです」
みつきはそう言いながら、手に持っていた大きなバスケットの中を探った。
取り出したのは昨夜も見せてくれた、二枚一つにきちんと袋に包まれたクッキーだった。真ん中からパキンと真っ二つに割れてしまっている。
「割れて、それで売り物にならないのか?」
「はい」
残念そうなみつきのしょんぼりした顔は可愛かったが、そこに気を取られてしまうわけにもいかない。
ホームメイドのクッキーなんて、割れていたって気にしないやつはいっぱいいるだろうに。
どうせ食べるときにも割ったりするんだし?
そこまで気にするものかね?
「じゃあそれ、俺が買う。いくら?」
「はい?」
ひょいとみつきの手の中から割れたクッキーの入った袋を奪う。
「あ?! ダメです、割れてるものっ!!」
取り返そうと伸ばしてきたみつきの小さな手を躱しながら、クッキーの袋にシールで貼られた表記を読む。
細々とこの国の言葉で書いてある説明の中に「五百円」の表記を見つけた。
クッキーに鼻を近づけて、息を吸う。
甘くて香ばしい匂い。
しっかりと腹いっぱい昼飯を食べたのに、これなら食べたいと思う欲求が湧く。
きっといい食材を選んで作ったに違いない。
みつきの料理の腕を鑑みて、美味くないわけがない。
そしてなにより、作り手がΩという付加価値と、研究センター隣接の病院の売店だけで売りに出すという信用。
この値段では安いんじゃないか?
αとして、抑制剤だけで抑えきれない衝動と焦燥を抱え持つのは、このΩが少なくなりすぎた世界では当たり前の日常だ。
「Ωから得られる栄養」なんてものがあるとしたら、間違いなくこの世の中のほとんどのαが欠乏症だろう。
αやβの番がいるαでも。
番を持っていなければ確実に。
その欠乏症から解放されているのは、Ωと結ばれた運の良い幸せな幸せなαだけだ。
世界中でそんなαに対して暴動が起こらないのは、過去の過ちを繰り返さないためだとか、馬鹿な衝動に身を委ねない知性の持ち主だと証明したいためだとか、……そうやって幸せに暮らしているΩがいるということにこそ、彼らの周辺に生きている者たちが恩恵を受けているからだとか。
なにが事実かは定かではない。
この世界で数少ないΩがなにかしらの手段でαに関わろうとしてくれる方法がある、らしい。
どんなものかはその国の方針だったり研究機関の賛否だったり、そもそもΩ本人の意向だったりするので、決まっているなにかだと明言することはできない。
その中で、みつきが作る菓子が販売されている。
客が押し寄せたり、凄まじい値段で転売されていないことが不思議でたまらない。
「だめっ、だめっ!! どうせだったらちゃんと作った一番良いものを…っ!!」
みつきは俺のまわりをぴょんぴょんしながら、割れたクッキーを奪い返そうと必死になっている。
「割れてても気にする必要ないって」
「やだっ、やだっ」
「いいってば。ほら、代金。……しまった、今この国の金がない。カミユに全部渡したきりだ。釣りはいらないから自分で両替してくれ」
そう言って、みつきの手の中に財布から取り出した十ドル札を握らせた。
彼女はピタリと動きを止めて、しばらく紙幣を見つめる。
「……っは?! もらい過ぎですっ!!」
そして、我に返った様子で叫ぶ。
短い逡巡の時間で、通貨レートでも考えていたのだろう。
「いいって、気にするな」
「気にします!!」
必死になって、今度は金も返そうと迫ってくる。
その必死さに疑問と苛立ちが湧いてしまった。
「なに? 俺には食べさせたくないってこと?」
「ちが…っ、違います」
「じゃあ、いいだろう? 諦めろよ」
自分で言っといてなんだが、俺は彼女にとって諦めを抱かせないといけない相手なのか、と落胆する。
「でも…っ」
みつきはあまりにも不服そうで、諦めようとする気は無さそうだった。
なおも俺の意見は飲めないと食い下がるみつきの強情さに、頑なさに、耐えていたものがブチリと切れる感覚を味わった。
ヴァルティ
みつき




