抑制剤の調整
衛生的に当たり前
秋露に連絡を取って、彼の研究室にまで来た。
そのころにはすっかり夕方と言える時間だった。
パソコンに向かっていた秋露のすぐ隣の診察用椅子に座ると、こちらを見ないままに彼は口を開く。
「さっきカミユくんの調整も終わってね。薬もできて受け取りが終わったころだろう。もう帰り着いたかな」
「そうか。変わったことはあったか?」
「それは医者の見立てや、数値的なことかい? 特筆しておかしな点はなく、むしろ良い数値を叩き出してい……」
ぎしっと、ドクターチェアを軋ませて顔を上げた秋露が、言葉を途中で止めて口を開いたまま静止した。
「……なに?」
しばらく待ってみたが反応がなく、さすがに不審に思って問いかけた。
秋露があからさまにハッとなる。
「いや……、驚いた。男前なのは分かってたけど、短い髪もよく似合う。印象が違いすぎて度肝を抜かれたよ。さすがスターだ」
ちょっと興奮気味に、秋露は褒め言葉らしきものを告げてくれる。
「……オトコマエ?」
「ああ、こっちの国の言葉でハンサムってことだよ」
「そりゃどうも」
社交辞令でも本気でも、結構言われ続けた言葉なので、どっちとも取らない。ただ、ありがたい、嬉しい、褒めてくれてどうも、そんなふうにさらっと受け取る。
じゃないと、投げかけられる言葉一つでそのたび一喜一憂していたら正直疲れてしまうんだ。
αは元々、見た目のいいヤツが多い。
俺もその中に入るんだろう。
この国の美醜の基準はよく分からないが、秋露もなかなか整った目鼻立ちをしている。
普段から研究のせいで屋内で過ごすためだろう、青白い肌や、顔を隠すこともあるメガネをどうにかしたら十分モデルやなんかをしても食っていけそうだと思う。
そして、そんな一般的な美醜の基準なんてものを軽々超えてくるのが、Ωという存在なんだけれど。
俺が若いころ、そんな伝説級の美しさを持ったΩのモデルがいたって話を、裏の世界のそのΩのファンだって言うヤツから聞いたのを薄っすら覚えている。
写真の中だけで活躍していたそのΩのモデルが今どうなっているのかは知らない。
そもそも、その美しさというやつを俺は見たことがない。写真はレア過ぎて手に入らないらしい。
そうでなくてもΩの数は少なすぎる。
裏の世界にいたころでも、Ωに直接会ったことは少ない。
それも、会ったΩはすべて番持ちだったから、番のαが凄まじい警戒心を張り巡らせていたので、危うきに近寄らず、ってやつだった。
番を持っていないΩがいたかどうかなんて、言わなくても分かるだろう?
裏社会の格闘王者なんて称号を得ていた俺でさえその程度だったんだ。
表の世界ならもっと。
国に厳重に管理された研究センターで生活しているΩたちに頻繁に会えるなんて、国の関係者か医療従事者くらいだろう。
だから、みつきの美しさの基準が俺には分からない。
……ただ、気を抜けば見惚れて、つい手を伸ばしてしまいたくなるほどに、彼女は……。
「…………ィくん? ヴァルティくん?」
秋露の声にハッとなった。
差し出される、血中抑制剤濃度測定器。
無言でそれを受け取り、慣れた手つきで測定する。
「シンくんはいい腕だろう? 気に入ってくれたなら贔屓にしてやってくれ。私もそろそろ少し髪を切ろうかなぁ?」
シン店主の腕を褒める秋露。俺が渡し返す測定器を受け取る。
シン店主が「水実先生から巻き上げる」と言っていた言葉を思い出して笑顔が溢れた。
「うん、いい数値だ。……今の薬を見せてくれ」
秋露は手元の紙に計算を書き始めながら、俺に向かってまた手を差し出してきた。
ポケットから取り出したピルケースをその手に乗せる。
ピルケースの中身をじっくり眺め見て、秋露の筆がまたカリカリと凄まじい計算を紡ぎ出してく。
黙って彼が書き出す薬の名前と計算を見ていた。
手を止めないまま、顔を上げないまま、秋露は口を開いた。
「で、ヴァルティくん、切った髪はどうしたんだい?」
「は?」
切った髪?
ピタリと手を止めて、秋露がゆっくり顔を上げる。
「シンくんに任せてきたのか?」
「あ、ああ? 彼に任せた。散髪した髪なんて、普通理髪店が捨てるだろう?」
至極当然、至極当たり前のことのはずだ。
秋露の目が一瞬、確かに泳いだ。
そして、なにも見なかったフリでも決め込むかのように再び手を動かしはじめた。
どうやら計算が終わったようだ。
書き出した数式を、秋露はじっと眺めている。
……そして、耐えられなくなった様子で、うなだれて額を押さえた。
ただし、なにか言ってくる気配はない。
「いや、まあ、個人の自由だ……。しかたない……」
ボソボソと秋露が呟いた声は聞こえたけれど、決して俺に向かって言っているものではなかったので、聞き返さなかった。
次に秋露はパソコンに向かって、そこに呼び出された俺の名前が書き込まれた電子カルテに関連付けて、今計算を終わらせたばかりの抑制剤の処方箋を書き始めた。
カタカタとキーボードを叩く音が、二人しかいない秋露の診察室に響く。
あ、これってまた、聞かないと教える気がないことか?!
「しゅ……」
「今週仕事に出ると言っていた、あれはいつから?」
問いかけようとした声に、完全に秋露の質問が被さった。
しかたなく、先に質問に答える。
「明日の夕方にここを発って、明後日撮影。明々後日中には戻ってくる」
「ふむ。七回分、念のために八回分を持っていくとして」
素早く計算して、秋露はまた薬の調整に戻る。
真剣に抑制剤のことを考えてくれているセンセイ様の横顔を見ると、どうしても問いかけていいものかと遠慮が生まれてしまった。
「戻ってくるまでは今日と同じ配合でいこう。帰ってきたらすぐの調整が必要だろうけれど」
「わ、分かった。秋露センセイさっきの髪の話だが、なにか意味があるのか?」
「ん?」
勢いを無くさないうちに尋ねた。
秋露はパソコンからこちらに向き直って、少しだけ天井を見て、視線を戻す。
「ヴァルティくんは切った髪をどうするべきだと思う?」
質問を質問で返すのは、秋露の趣味なのかもしれない。
「捨てるだろ、普通」
「そうだよね。当たり前だ」
秋露も当たり前のことを言う。
二人でうなずき合って、髪の話はそこで終わった。
なんなんだよ?!
「じゃあ、薬局に調薬をお願いしておいたから、受け取って今夜の分から飲んでくれ。こっちの薬は回収しておくよ?」
「ああ」
ピルケースの中に残っていた今までの抑制剤を回収して、秋露は空っぽになったピルケースだけを返してくる。
「抑制剤ができあがるのは一時間後くらいかな? できあがったら連絡を入れるように薬局長に頼むかい?」
「それは助かる」
ぴらりと秋露は調剤薬局とメッセージのやり取りができるQRコードが書かれた説明の紙を渡してきた。
登録しておけということだろう。
俺が携帯にそれを打ち込んでいる間に、秋露は処方箋に全部の入力を済ませ、データを調剤薬局に飛ばした。
すぐに局長から受け付けましたと書かれた返事が来て、秋露は「薬ができあがったら連絡をするように」という旨を書いて返信を飛ばした。
また、承りました、という返事が返ってきて、一連の調整が終わる。
「さて、今日はこれでおしまいだ。明日からの仕事、頑張って」
「……サンキュー」
秋露は笑顔で俺を送り出してくれる。
疑問は残りはしたが、俺は席を立ち、診察室をあとにした。
新しい抑制剤が出来上がるまでの間に、一度家に帰ろう。
漠然とした不安のようなものはあったが、気持ちを切り替えて俺はエレベーターに乗り込んだ。
ヴァルティ
秋露




