みつきの日々・2
視点変換・みつき
「うん、いい数値だ」
血中抑制剤濃度測定器が表した私の数値結果を見て、秋露おじさんは明るい声で呟いた。
その嬉しそうな表情。すぐに抑制剤の調整に入る。
私にはまったく分からない計算の羅列が凄まじい勢いで紙の上に書き連ねられ、注意深く考えては薬の名前と量を別の紙に書き出していく秋露おじさんの真剣な横顔を黙って見ていた。
「なにか楽しいことはあったかい?」
こちらを見ないまま、秋露おじさんはそう聞いてきた。
それは担当医兼研究者として被験者の状況を聞く問いかけだったのか、それともただの身内の世間話なのか。
どっちでもいいけれど、とは思いながら、うーん、とうなった。
「楽しいこと……。二人とも、すっごいいっぱいご飯食べてくれます」
すぐに、秋露おじさんは歯を噛み締めて笑った。
「まあ、そうだろうね」
「カミユくんとヴァルティさんのオムライス、こんな大きなのを二つずつ作ったのに、ペロッと食べちゃったの。スープもお鍋いっぱい作ったんです。朝にも食べようかと思って。でも、夜ご飯でなくなっちゃった」
興奮気味で説明する私を見て、秋露おじさんは目を細める。
私が「楽しい」と感じたことを喜んでくれているのだと分かって、すぐに恥ずかしくなって、どうにか落ち着きを取り戻そうと口を閉ざした。
「他にはなにかなかったかい? 込み入った話はしてないのかい?」
素直に首を振る。
「話ができたらと思ったけど、お仕事の電話をされてたり、私も寝ちゃったから」
目が覚めたら、なぜかヴァルティさんの部屋のベッドにいたけれども、久しぶりによくよく眠れすぎて気にもしなかった。
朝食を作っていたときに、そういえばなんでヴァルティさんのベッドで寝ていたの? と思い出してようやく疑問に思った程度だ。
当のヴァルティさんは家の中のどこにもいなくて、ちょっと遅れて起きてきた眠そうなカミユくんに「多分早朝ワークアウト」と教えてもらった。
そのあとカミユくんが「置いていかれた……」と歯噛みしていたので、早い朝に身体を動かす習慣が二人にはあるんだろう。
朝食の量をもっと見直さなければ。
「そうか。まあ、まだまだこれから時間はあるさ」
秋露おじさんはまたなにかをカリカリと私のカルテのほうへ書き込んだ。
「なにか、やったほうがいいことがありますか?」
ちらりと秋露おじさんの手元のカルテを覗き込む。
自分も読めるように、と何回も勉強しようとしてみたけれど、お医者さんが書く文字は暗号だ。……正確にはそうじゃないのは分かっているんだけど。
どうしても理解できなくて、諦めた。
私はΩで、αみたいに天才的な頭脳は持っていない。
秋露おじさんは間違いなく、超がつくほど天才のαだ。
一般的な生活能力がなおざりなところはどうにかしてほしいけど。
「うーん……」
秋露おじさんは、もう一度私の数値結果と、書き上げたばかりの調整し直した抑制剤の処方箋を見つめながらうなった。
「なにか、と具体的に指示することは特にないかな。この一週間の間の抑制剤の調整を見てから、とでも言おうか。そのころには大きく変わっているはずだし」
「一週間? 何が変わるのですか?」
首を傾げて尋ねてみると、秋露おじさんはニコリと笑って、そっと手を伸ばしてきた。
それはお医者さんが患者に触ろうとする手だった。
伸ばされた手が私の目の下を優しく引っ張って、眼瞼結膜というらしい部分を確認する。
「よく眠れたろう?」
そう言われて、見抜かれて、ハッとした。
朝まで一度も起きずに眠れたことなんて、いったいどれだけぶりだったんだろうか。
すぐに思いつかないほどには、はるか昔のことだ。
「しっかり眠って、体力を回復しなさい。なにもかも、まずはそれからだ」
「はい」
素直に答えると、秋露おじさんは私の頭を撫でてから手を離し、パソコン内の電子カルテに手早く処方箋を打ち込みはじめた。
「今処方箋を飛ばすから、出来上がりは三十分後かな。今の分、今夜と明日の朝の分を受け取って。明日もまた同じ時間で調整をするからね」
「はい」
秋露おじさんがパソコンのキーボードを叩き終わり、送信を確認すると、即座に調剤薬局の頼れる局長さんから受け付けましたの返事がきたのが見えた。
私は秋露おじさんに、持ってきた保冷バッグに入ったおにぎりとおみそ汁を渡す。
「そういえば、明日が売店にみつきのお菓子を卸す日だったか? 午後は忙しいだろう。頑張って」
「はい、頑張ります」
そして私も秋露おじさんの午後の仕事を労って、診察室を後にした。
そろそろネットスーパーの配達が、警備員さんの詰め所に届く時間だ。
それを受け取って、台車を押しながら薬局へ行って新しい抑制剤をその場で飲んで、残りを受け取り、部屋に帰って明日の準備。
暇だと思う時間は、いつだってあまりない。
そうだ。
今日ネットスーパーで買った食材でどれだけの量のご飯を作れるのか考え直さないと。
今までどおりの日々、なんてものはもうないのだから。
下手をすると、今日届いた食材が、今日消し飛んでしまうかも?
ふふっと声に出して笑った。
「頑張るぞー」
うきうきと廊下を行く私は、このとき、まだ知らなかった。
数時間後に、奈落に突き落とされるような落胆を味わうことになるなんて。
みつき
秋露




